モリオの不定期なblog

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同じ波は2度と来ない、だからこそ決して忘れない<きみと、波にのれたら・感想>

 一つの作品を鑑賞する際、1度目の鑑賞と2度目の鑑賞では作品の受け取り方が変わる事があるのではないかと思います。それは時間の経過によって自分の考え方が変わったり、他の人との会話の中で新しい視点が生まれるなど、理由は様々ではないかと思います。そうやって作品に対する見方が変わった時、その作品が前とはまるで違って見える。作品が更に魅力的に思えたり、逆に魅力が無くなってしまったりする。そんな体験をした作品が『きみと、波にのれたら』です。

 

1度目の鑑賞時とは変わらなかった部分と、 2度目の鑑賞で変わった部分、その2点について考えながら本作の魅力を考えてみたいと思います。

 

 

小説 きみと、波にのれたら (小学館文庫)

小説 きみと、波にのれたら (小学館文庫)

小説 きみと、波にのれたら (小学館文庫)

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 まずは1度目の鑑賞でも、2度目の鑑賞でも変わらなかった点。それは登場人物たちが互いに影響を与え合う関係性です。恋愛を扱っている作品を普段は見ない自分が心を打たれた理由はここにあります。

 

消防士として数多くの人を救ってきた港。港と同じように強く生きていく事が今の自分には出来ないと感じているひな子。 自信を持てないひな子に対し港は「できるようになる。」と励ます。

 

そんな港はかつて、ひな子に溺れていたところを助けられた事が判明します。その日の出来事をきっかけに港は人を助ける事を目標にし、消防士になり多くの人を救いました。ひな子が憧れながらも自分も同じようになれると思っていなかった港の生き方は、ひな子がきっかけとなっていた。

 

その事実を知ったひな子は、港の死から立ち直りライフセービングになるという目標を見つけます。

 

わさびと洋子も、そんな関係性を見せてくれた2人です。「洋子ちゃんは洋子ちゃんのままで良い。」と言ったわさび自身が仕事の事で悩んでいた時、その言葉に救われた洋子自身がそのまま返す。

 

 

 

 何かに影響されたり心を動かされて、キャッチボールのように相手に返す関係性は、人に限った話ではありません。映画などの作品にもいえる事です。例えば特撮において、オマージュとリスペクトを存分に込めた『パシフィック・リム』のような作品がハリウッドで製作され『ゴジラ』も十数年ぶりに公開されました。

 

それを受けて、日本でも『シン・ゴジラ』が製作されました。縮小していたウルトラマンシリーズが再び盛り上がりを見せるなどの変化が生じました。ウルトラマンシリーズに関しては直接的な影響がどれほどの物なのかは分かりませんが、少なくとも自分が再びウルトラマンを観るようになるキッカケの一つになった事は間違いありません。

 

縮小しつつあった巨大特撮の魅力を、かつて海の向こうで魅了された人達の手によって思い出す。まるで本作における港がひな子に与えた影響と重なって見える。

 

影響を与えた本人が忘れかけた頃に、影響を受けた人が思い出させてくれる。

 

そんな互いが影響しあい前に進む関係性は非常に輝いて見える。だからこそ、そんな関係性を体現している4人が眩しいくらいに輝いて見えるし、前を向いて進んでいこうとする姿に心動かされる。本作のラストシーン、夕日をバックに波に乗るひな子の姿は夕日以上の輝きを放っているように見えました。

 

 

 

 

 そして極めつけは最後の港のメッセージ、映画の構成として本当に素晴らしかった。

メッセージを書いた時とメッセージが放送された時で状況は180度異なる。メッセージを書いた時は、2人で歩んでいく未来に無限の可能性があった。いろんな場所に行って同じ体験をして同じ景色を見て思い出を共有しいつまでも幸せに暮らす、そんな未来がありました。

 

しかしそのメッセージが放送される一年後は、港は死んでしまい2人には「別れる」という選択肢しかありません。そんな中で港はずっとひな子に対して「1人でも波に乗れるように」と言ってきました。そんな港の最後のメッセージとして考えると、放送されるメッセージは逆の事をしています。

 

ずっと一緒に居たい、一緒に歳をとって幸せに暮らしていきたという強い思い。悲しみに暮れて泣いていたひな子と同じくらい港も思っていたはずで、それでもその想いはグッと心の中にしまってひな子の背中を押す事に徹していた死後の港。

 

ひな子と一緒に波に乗るのではなく、ひな子にとっての波になる事を貫いていた。ひな子が1人でも波に乗れるように。タイトルの『きみと、波にのれたら』には、そんな港の思いが溢れている。

 

そんな風にひな子の為に言わずにいた港の気持ち、それを代弁してくれたのが一年前の港なのです。ひな子と一緒に居たいという思いと、ひな子には1人でも波に乗れるようになって欲しいという思い。港とひな子が一緒には居られなくなってしまったが故に起こる2つの矛盾した思い。それらをどちらとも最大限に伝える手段として、これ以上にないくらい伝わってくる。故に港の最後のメッセージは、耐えに耐え続けた涙腺を完璧に崩される最後の一押しとして、十分過ぎる物だった。

 

 

 

 本作でこれ程、登場人物達の気持ちを描き感情移入させてくれた。それ故に港が水に出てくる設定と終盤の展開は必要だったのかという疑問を1度目の鑑賞で思ってしまいました。本作の印象的な設定である水に纏わる設定が無くても、本作の登場人物達に感情移入し心動かされ涙するには十分であったと感じる程に物語の強度があったと感じられたからです。

 

自分自身を波と捉えてひな子に乗り換えるように促していた港、そんな彼自身が本当に水や波になってしまった事はあまりにも直接的過ぎやしないか?などと、本作の設定の意義に対して少し懐疑的になってしまう。彼ら彼女らの物語に魅了されながらも「もっと良くなったのではないか?」と素人なりに考えてしまう。

 

しかしながら、前述した通り港とひな子、わさびと洋子の4人に対する愛着は単発で描かれる映画においては群を抜いており、2度目の鑑賞を望むには十分過ぎる要素が揃っていました。

 

そんな事で2度目の鑑賞に行ってきたわけですが、驚くことに2度目の鑑賞を経て水の中に出てくる港の設定と物語の終盤における展開に対する認識を大きく変化。その結果、1度目の鑑賞時以上に終盤に心動かされる事に。

 

 

 

 

 死んでしまった港と意思疎通の図る事の出来る状態は残された3人に、死を悲しむ思いを引きずり出します。どれだけ大事な人が亡くなってしまっても人生は続いていく。波が無くならない中で、いつまでも引きずってはいられない。現に港は「一人でも波に乗れるようになって欲しい。」と言い続けていたし、それはひな子に対してだけ思っている事ではなかったはず。

 

だからこそ家族である洋子も、後輩であるわさびも港の死を乗り越え前に進もうとして、ひな子に対しても港は死んだのだと諭す。

 

そんな二人に前述した港と同じ矛盾した感情を終盤では引き出されます。諭していた二人が港の姿を見た時、顔をシワクチャにして涙を流す。

 

加えて「助けが必要な時、いつでも呼んで。」という台詞。死ぬ前から全編を通じて港が言っていたこの台詞は、港の願いが込められている。火事で逃げる事のできなくなった状態、正にあの瞬間こそが助けが必要な時だという事ができます。助けるという言葉の受け取り方にもよると思いますが、そこには「ひな子が一人で波に乗れるよう助ける。」という事だけでなく「火事などから人を助ける。」という事も含まれていた。

 

その二つの意味での「助ける」という願いを同時に叶える展開として、終盤の建物からの波乗りは本当に心にくるものがありました。

 

 

だからこそ、港が水に出てくる設定と最後の港との波乗りの場面は必要不可欠であると心から断定する事ができるんです。

 

 

 

同じ波は二度とやってくる事はないから

 

過ぎ去った日々の思いは決して消えない

 

本作の主題歌『Brand New Story』の一節。映画でも同じで1度目の鑑賞、2度目の鑑賞、3度目の鑑賞、同じ映画でも全てが違う体験がある。あの日、あの時間、あの場所で、本作を鑑賞するという体験は2度とありません。

 

でもだからこそ一つ一つの体験は心に残ると思うし、その記憶が塗り替えられる事はありません。そんな一回一回の鑑賞の大切さを思い出させてくれる作品でした。