モリオの不定期なblog

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おもちゃとしてか、1人の友達としてか。定まる事のない気持ちに永遠に揺れ動く<トイ・ストーリー4・感想>

 道を歩いている時に茂みの陰におもちゃがいる事を想像して、自分が通り過ぎた後に道を横切るおもちゃがいるんじゃないかと思って振り返ったりするくらいには自分にとって切っても切り離せない存在になっている『トイ・ストーリー』。

 

本当にウッディとバズを持っている自分にとって、最早作品を鑑賞するのではなく彼らの半生を見ているような感覚で『トイ・ストーリー』シリーズを鑑賞してきました。『トイ・ストーリー3』では、最高の形のおもちゃとの別れに涙しました。そんな中、アンディと別れた後を見せてくれる作品として『トイ・ストーリー4』はどんな物語が紡がれるのか期待以上に不安を感じていました。

 

というのも、そもそも持ち主の手元を離れて新たな持ち主に渡されるというおもちゃとしての一つの終わりと始まりが描かれて『トイ・ストーリー』シリーズの終了していました。それもこれ以上にないと思える最高の形で。そんな状態で続編の発表がされた時、果たして続編が描かれる事に意義があるのかという疑念、最高の終わりが最高の終わりでなくなってしまう事への不安を感じずにはいられませんでした。

 

更に不安を煽るかのような予告編をはじめとする宣伝。

 


「トイ・ストーリー4」友情編15

(もう物語の結末を言っているようにしか聞こえません…) 

 

 

 

とはいえ、上記でも述べたように映画を鑑賞するというよりは彼らの半生を見守るかのように見てきた『トイ・ストーリー』シリーズ。どのような内容であっても、どれだけ不安を感じていようとも、決して観ないという選択肢はありえません。という訳で、彼らの生きる道を、選択を、観に行ってきました。

 

トイ・ストーリー4 ビジュアルガイド

トイ・ストーリー4 ビジュアルガイド

トイ・ストーリー4 ビジュアルガイド

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

生き生きと動く魅力的なキャラクターたち

 まずは良かったと断言できる点です。(この言い出しからして、もうアレですが…)まず1点目は、キャラクターを生き生きと魅力的に描けていた事です。ウッディやバズが柱や物の後ろにサッと身を隠す動作。おもちゃとして必須のスキルとも言えるあの身のこなしは伝統芸能の域であり思わず「よっ、待ってました!」なんて声をあげたくなってしまいました。特に、運動するには少し不便そうな体格からは信じられないくらいに軽やかに動くバズを見ているだけで懐かしくも楽しくて仕方なかった。近くにある小物を被ったり乗ったりと上手く知恵を絞っている彼らの姿は、1作目から4作目である本作に至るまで不変であり何だか嬉しかった。

 

 新キャラクター、フォーキーやギャビー・ギャビーも非常に良かったです。物語を牽引するキャラクター、おもちゃとしてウッディやバズに存在が負けていませんでした。フォーキーの言動の一つ一つが面白くて楽しかった。ギャビー・ギャビーは初期不良によって、おもちゃが本来享受する事ができるはずだった生活が出来なかった。そんな彼女の行動に感情移入できたし、彼女が子供の為にあろうとする姿には心を動かされました。

 

 

 

おもちゃの生き方

 2点目の良かった点は、おもちゃとしての生き方に選択肢が増えた事です。一人の子供に固執するのではなく、そこに来る不特定多数の子供達のおもちゃになるという選択肢。その選択肢はおもちゃにとっての救いであると同時に、それを持っている持ち主にとっても救いであるかのように思えます。

 

「歳を重ねる」という不可逆的な要因によって起きる別れの中で、おもちゃたちはどうやって子供達と関わり続けるのか。その一つの答えである「他の子供へ譲る」事を提示した前作『トイ・ストーリー3』。本作では前作とは異なる興味の喪失によって引き起こる別れを描いています。それはおもちゃでなくても、誰もが経験した事ではないかと思います。新しいものが次々に生み出されていく一方で、興味の対象が移っていく。新しい物に興味を惹かれて、元々大事にしていた物がないがしろになっていき遂には捨ててしまう。

 

そんな経験をした事がある中で、ある意味、持ち主に左右される事のないおもちゃの生き方が提示された事は何だか安心したし、嬉しかった。

 

そもそも、自分が本作の鑑賞前に感じていた不安は何なのかと言うと、「ウッディがおもちゃとしての役割を放棄してしまうのではないか?」という事でした。しかし本作で提示されたウッディの選択肢は、あくまで子供達との関わり方が異なるというだけで、根本である子供達のために生きていくという事は放棄しませんでした。そこは本当に安心しました。

 

個人的に最悪の展開は免れましたが、しかし、問題はここからです。

 

 

 

おもちゃとして、人格を持った生命として

 本作におけるウッディの最後の選択は賛否両論を呼んでいます。今までに『トイストーリー』という物語が積み上げてきた物の偉大さ故か、中には罵倒と言えるような強い言葉で本作を罵っている感想も見受けられます。しかし、おもちゃに対する、『トイ・ストーリー』に対する思いの強い事の証明であり否定できるものではありません。(当然、限度はありますが。)

 

自分も最悪の展開を免れたとは言いましたが、ウッディがおもちゃとしての在り方として大きな選択をした事は間違いありません。その選択に対してすんなりと受け入れるかと問われると、「はい」と言う事は出来ません。

 

ウッディの最後の選択、ひいては作品の評価を分かつものは、その選択をおもちゃとしての選択と受け取るか、一人の人格を持つ生命としての選択と受け取るかという事だったのではないかと思います。

 

トイ・ストーリー4  リアルサイズ トーキングフィギュア ウッディ (全長37cm)

 

 

 

 おもちゃとしての選択として受け取った時、アンディの事を思わずにはいられません。アンディがまたボニーの家を訪ねた時、ウッディが居なくなった事を知ってどう思うだろうか。もうボニーに譲ったのだから、ある程度気持ちの整理はついていると思う。しかし、一番大事にしていたおもちゃ、もとい友達が居なくなってしまった事実に目の当たりにした時、どんな表情をするだろうか。

 

トイストーリー3の時、他のおもちゃは譲ってもウッディだけは大学に連れていこうとしたアンディ。ボニーが手を伸ばした時に思わずウッディをとっさに自分の方に引っ込めたアンディ。

 

それだけ大事にしていたウッディが旅行の途中で無くなってしまった事を聞いて、どう思うのか想像した時、ウッディの選択が果たして良かったのか考えてしまう

 

 


 しかし、それはウッディを「おもちゃ」として考えた時の話である。ウッディはおもちゃであると同時に人格を持った一つの生命である。仲間が居て、一緒に居たいと思う相手がいる。故に悩んで考えて選択する。

 
ウッディのおもちゃが自分の家にあり『トイストーリー』という作品を追ってきた自分にとって、ウッディをはじめとするおもちゃの皆は、最早それぞれが人格を持った生き物だと言っても良い。

 

勿論、自分の家にあるウッディと『トイ・ストーリー』シリーズに登場するウッディは別人である。『トイ・ストーリー2』でバズが二人登場したように、別の存在である。混同している事は重々承知である。しかし、アンディが楽しそうにウッディとバズで遊ぶ姿に、自分がバズを持ち兄弟がウッディを持って遊んでいた時の思い出を重ねずにはいられない。

 

トイ・ストーリー』という物語のウッディと家にいるウッディは違いけど同じくらい大事な存在なんです。他のおもちゃは捨ててしまったけど、今だに二人だけは大事に家に置いてある。

 

それだけ大事だからこそ、ウッディは最早おもちゃではなく一人の友達という捉え方しか出来ないんです。彼がボー・ピープと一緒に生きていく事を決めた時の表情、今まで一緒にいた仲間たちと最後の挨拶をした時の別れを惜しむ表情、バズと抱き合った時の表情、そんな彼、彼らの表情を見た時、ウッディの選択を否定したくない、尊重したいという思い溢れていました。

 

 

 

定まらない思い

 アンディの事を考えてしまう自分とウッディの気持ちを尊重したい自分が同居しているが故に評価が定まらない。今はウッディ個人の選択として尊重したいという思いが強いが、もう一方の選択をして欲しかったと叫んでいる自分がいるのも確か。

 


いやそもそも、さっき「おもちゃ」として考え時アンディの事を述べたが、前の持ち主の事を尊重し過ぎる事は良いのだろうか?最初の持ち主がアンディであるとはいえ、今の持ち主はボニーである。前の持ち主の事を考えすぎてボニーにウッディを大事にしろと課す事も間違っているのでなないか?ボニー興味や選択、遊びの結果が本作の結末なのであれば、それもまた尊重すべきなのではと…

 


どうどう巡りである。とても結論が出せるとは思えない。自分が子供を持ち、その子供が、かつての自分と同じようにおもちゃで遊ぶ。その光景を目の当たりにした時、何か自分の考えが変わる時が来るのかもしれません。でも少なくとも、現時点でウッディの選択に対して結論を出す事は出来ません。

 

 

 

本作の意義

 では本作に意義があったのか?という問いに対しては「はい」と答えます。それを確信したのは、ギャビー・ギャビーが泣いてる子供を見て、その子のおもちゃになる事を決断する場面です。ギャビー・ギャビーを子供が見つけた時、泣いていた子供の表情がフッと変わる。ずっと泣いているのではなく勇気をだして大人に声をかけるという行動に移した姿、ここにおもちゃの存在意義が凝縮されているように思いました。子供にとって、時には友人に、家族に、心の拠り所に、支えてくれる存在に、勇気を与えてくれる存在におもちゃはなってくれる。

 

おもちゃとしてのあり方の多様性が描かれた本作だからこそ、対象的に決して変わる事のないものを感じさせてくれた。この一連シーンは『トイ・ストーリー』屈指の名シーンを断言できる。そこを描いてくれた本作の存在意義を僕は決して否定する事は出来ない。

 

 

 

最後に

 本作を鑑賞して、ウッディとの本当の別れが訪れてしまったかのように思えました。とても悲しいけど、ウッディの選択した事なら尊重したい。だから最後はこの言葉で締めくくりたいと思います。

 

「あばよ、相棒。」