空が晴れていて気分の上がる事はあっても、雨が降っていて気分が盛り上がる事はあまりありません。いつもは晴れて、たまに雨が降ってくるくらいがちょうど良い。だから雨や曇りが続いていた2〜3週間前はあまり気持ち良いものではありませんでした。
そんな中、まるでそんな異常気象を予知していたかのように天気を題材に扱った長編アニメーション映画『天気の子』が公開されました。3年前に公開した長編アニメーション映画『君の名は。』の監督でもある新海誠監督の最新作です。もはや説明不要だと思えるほどの大ヒット作、その次に送り出される作品の映像や物語はどんなものになっているのか。公開前から非常に気になっていたので、公開した週末に早速鑑賞してきました。
天気に感じる感情を巧みに刺激され、遂には映像と感情の逆転を起こす唯一無二の体験を本作で得る事ができました。
(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)
近年の技術向上によって表現できるアニメーションの幅が非常に広くなりました。そんな中で、一つ一つのシーンの細部に至るまでのクオリティを追求しリアリティを感じさせる映像は現実の風景を見る時と同じ感情を呼び起こします。本作では様々な天気が描かれますが、そのどれもが実際の天気を見た時と同じ感情を感じさせてくれます。晴れていれば気持ち良いし、雨が降っていれば気分が落ち込む。
本作の序盤から中盤にかけて、晴れと雨を対比して描かれています。閉鎖的な感覚を味あわせながら、時折晴れの描写を入れる事で晴れの気持ち良さ、自分の心も晴れていくかのうように錯覚させるほどの明るさを感じます。
加えて、外で遊んだりイベントが開催されたり、極め付けは花火と、晴れている時にしかできない体験を見せる事で、晴れという天気の気持ちよさを存分に描いていました。
そして中盤から終盤にかけてその価値観、晴れた天気を「綺麗」や「気持ちいい」と思う感覚といっても良い。自分の持つ生得的な感覚をひっくり返されるかのような展開が繰り広げられる。
息苦しく重苦しく感じる雲と雨、そこに抱く感情がひっくり返される瞬間、そこに見える光景は唯一無二の体験を生み出します。
終盤で天気が晴れた時、そこで感じるのは気持ちよさや清々しさというポジティブな感情ではなく、喪失感などといったネガティブな感情です。晴れているのに嬉しくない理由は、そこに陽菜さんが居ないからです。
本作において音楽に合わせて日々の生活を描写する場面が2つ存在します。一つ目は帆高が須賀さんの会社に入り東京で始まった生活の様子を映す場面。二つ目は陽菜の持つ天気を晴れにする力を使った仕事をこなしている場面。前者は雨の描写に限定していたのに対して、後者は晴れと雨の描写を交互に挟んでいます。
二つの場面の天気以外の違いはなんなのかというと、陽菜さんが居るという事です。
初めて陽菜さんが晴れにする力を披露する時、天気よりも先に映し出されるのは両手を合わせている陽菜さんの姿です。陽菜さんが消えてしまう前までは、晴れが訪れる時には必ず陽菜さんが居ました。青い空や美しい日の入りの描写において、まるで自然の一部になったかのように描かれる陽菜さんの姿。それらのシーンの積み重ねによって、観客にとって晴れと陽菜さんは切っても切り離せないものになっています。
「この空が、陽菜さんと繋がっている。」という帆高の台詞は、陽菜さんが居なくなってしまう可能性を暗示するだけでなく、これまでの描写の積み重ねを意識させます。映像だけでなく、一つ一つの台詞が陽菜さんが居なくなる展開の喪失感を強調しています。
新海誠監督の作品の映像の美しさは、実際の風景等に感じるそれと同じではないかと思っています。光の眩しさや雨粒の形といった自然の表現は勿論、太陽に照らされる建物や雨水によって濡れる地面。現実の質感に近づけながらも、アニメーションだからこそ成立する嘘を巧く融合させる。それによって現実に即した美しさでありながらもアニメーションでしか感じる事のできない美しさを表現しています。
でもこれは、映像による美しさに限った話ではなく、自分たちの持つ価値観や生得的な感覚にまで立脚しています。空が晴れていれば気分が良い、曇っていたり雨が降っていれば気分は落ち込む。
そういった感覚を物語と映像によって逆転させられる。「晴れてよかった。」「雨が止んで嬉しい」ではなく、「晴れて欲しくなかった。」「雨が降ってなくて悲しい。」と晴れに対してマイナスの感情を呼び起こす。
現実の感覚や感情に立脚した展開は他にもあります。雛を助けるために必死に走る。その姿は、何も知らない人にとって怪奇なものに映る。「何やってんの?」「ああ、あれは捕まるな。」くらいに思うだけ。現実にも線路の上を人が走るニュースを目にする中で、客観的に見ればどんな感情を抱くのか手に取るようにわかります。
でもだからこそ、そんな事は関係なく、たった一人の少女を救うために走っている帆の姿が胸を打つ。客観的な視点で見たときに感じる感情と、そこに至るまでの物語を知っている視点見たときに感じる感情の両方を知っているからこそ。
普通に考えて、常識的に考えてありえない。そう思うからこそ、そこを超越するだけのキャラクターの気持ちを強く感じる。
そして本作は雨が降る中で幕を下ろしますが、晴れのシーンや夕日のシーンなどよりも美しい、本作の中で最も美しいシーンに見えます。それは単に映像表現だけでなく、約2時間の数々の映像と物語によって動かされてきた感情の積み重ねが、映像の見え方を大きく変える瞬間だからです。
目の前に広がる光景、それは自らが考え決断し選び取った結果なのだと、他ならぬ帆高自身が自覚した事が本当に良かった。
もし帆高が選択に対する責任を持つことなく物語の幕が閉じていたら、本作に対する評価は大きく変わっていたのではないかと思います。
おばあさんが言ってくれた「長い年月の中で見れば元に戻っただけ。」や、須賀さんの言ってくれた「帆高の選択で世界が変わったわけではない。」という言葉。それらを受けて「自分たちの選択で世界が変わってしまったというわけではない。」と納得しかける帆高。その瞬間に映る陽菜さんの姿。陽菜さんの姿を見た帆高が「それは違う。」と自らの選択と結果を自覚する。
彼らの選択と思いは決して軽いものではない。軽いものにしてはいけない。
自らの選択に責任を持つからこそ、「自分が選んだ。」と思うからこそ、その結果訪れた陽菜さんとの再会、その周りを包む曇りと雨が尊いものに感じられる。
全編を通じて描かれた美しいシーンの数々、その積み重ねが結実するのがラストの2人が再会するシーンだと言えます。
帆高をはじめとする作品の登場人物だけでなく、観客である自分の心をも動かしていた天気。それによる物語の積み重ねが、曇りと雨をこれ以上にないくらい尊く輝かしいものに見せてくれる。
映像によって彩られていた物語が、その積み重ねをもって映像に彩りを与える。雲がかかっていても、晴れていなくても、青い空が見えなくても、眩しく輝く太陽が見えなくても、2人の物語を見た者の目には作中で最も美しくエモーショナルな瞬間になっている。
そんなラストシーンこそが、私にとって本作のベストシーンである事は間違いありません。
美しい映像や格好良いアクションなど、多種多様な映像を観ていると感情が動かされます。映画の中で観る事のできるそれらの映像は単体でも非常に魅力的。ですが一つ一つのシーンに物語という1つの背骨が加わる事で、引き出される感情は何倍も多層的になります。映画に限らず様々な作品でも言える事ですが、入ってくる視覚情報を登場人物の背景やそこに至るまでの過程などのフィルターに通してみると、映像単体の時とは異なる感情を引きだしてくれます。
そしてその引き出された感情が映像の見え方すらも変える。そんな体験をする事ができた本作は素晴らしい一作でした。