モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

『劇場版ウルトラマンZ ご唱和ください!我らの名を!』への夢想。<ウルトラマントリガー エピソードZ/感想>

Zライザー「TAIGA!TITUS!HUMA!」

 

ハルキ「ゥオオオッッッッッッッス!!!!!」

 

Z「ご唱和ください!我らの名を!!!

  ウルトラマンズェエエエエエエエエッッッッット!!!!!」

 

ハルキ「ウルトラマン!!!ゼーーーーーーーーッッッッット!!!!!」

 

Zライザー「ULTRAMAN Z!EPSILON STRIUM!」

 

(約十秒間 沈黙とZの姿を収めるカットの数々)

 

ご唱和ください 我の名を!

ご唱和ください 我の名を!

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ウルトラマンZ』の放送終了後、定期的に繰り返される劇場版の夢想。初めから劇場版は予定されてなかったからこそのテレビシリーズ終盤の出し惜しみを感じない展開と幕引き。だかれこそ、劇場版が無いことに対して不満はありません。それはそれとして、劇場版というifをシミュレーションすることは楽しいのです。

 

口上を引用したサブタイトルとか、Zの偏差値の低さが露呈してしまうトライスクワットとのやりとりとか、タイガスパークに興味津々のユカさんとか、特空機をはじめストレイジの規模大きさに驚くヒロユキくんとか、皆んなの前に姿を現しそうで結局現さないけど良い塩梅で暗躍してくれるジャグラーとか、暗躍の形跡からヘビクラ隊長の手助けを察するストレイジの面々とか、諸々のやりとりから再確認するタイガ勢の絆の盤石さとか。

 

自分の頭の中で完結する夢想、テレビシリーズという有終の美が侵されることのない夢想。そんな夢想の一部が現実にしてくれるかもしれないのが『ウルトラマントリガー エピソードZ』です。『ウルトラマントリガー』のテレビシリーズの後日譚であり、『ウルトラマントリガー』の終わりのエピソードとなる一編。同時に、ウルトラマンZとの共演でもある本作。

 

主であるのはウルトラマントリガーでありながら、ウルトラマンZから話を始めるところからお察しいただけるかと思いますが、熱量が高いのはどちらかと言うとZの方です。そもそも『ウルトラマントリガー』は自分にとってリアルタイムでは初めてのウルトラマンである『ウルトラマンティガ』が25周年であることを大いに意識して作られた作品です。「リメイクなのかリブートなのか続編なのか。ティガが姿を変えた存在なのか。」という思考の海に身を沈めていたせいか、なんとなく作品に対して一歩引いた目線で観ていました。テレビシリーズで特に楽しめたエピソードもウルトラマンZが登場した第7・8話とウルトラマンリブットによるウルトラギャラクシーダンスが繰り広げられた第14・15話、そしてウルトラマンティガが顕現した第19話と、所謂客演エピソードと呼ばれる回でした。

 

対して『ウルトラマンZ』はニュージェネレーションシリーズと呼ばれる近年のウルトラマン作品の中で最も没入して楽しむことのできた作品です。特撮作品という枠を超えて、映像作品としても自分の中で上位に入ります。時勢の影響で仕事が大変だった時にとても勇気付けられたことも相まって、思入れの強い一作です。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

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そんな訳で『エピソードZ』は『ウルトラマントリガー』の終わりのエピソードというよりは『ウルトラマンZ』の新しいエピソードとして楽しみにしていました。そうして観賞したのですが、結果はあまり心穏やかなものではありませんでした。

 

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 色々言いたいことはありますが、特に気になったのはZとハルキの扱いです。Zとハルキ、彼らは二人で一人のウルトラマンであり人格は別なのですが、その良さが全く生かされていないと思いました。Zが一人で話す場面は殆どなく「どうしたハルキ?」とか「頑張れハルキ!」など、ガヤの範疇を出ない台詞ばかりで、仮に人格が一つだったとしても物語が成立してしまうほど、Zの存在感が非常に薄かったです。

 

テレビシリーズでは人格が二人だからこその作劇を存分に活かされていて、そこが『ウルトラマンZ』を最高にしていた要素の一つです。例えば、上記の記事でも書きましたが、必殺技の時の掛け声です。必殺技の名前を叫ぶZ、気合の掛け声を叫ぶハルキ。本来別々の存在であった二人を象徴するかのような、分担された掛け声ですが、最終話の、最後の一撃では、必殺技も気合の掛け声も、二人で叫びます。ハルキと同じように「チェストォオオオ!!!」と言っているのだろう、今までに聞いたことのないようなZの唸り声が、光線を放つ刹那にZの顔にハルキの顔が重なって見えたのと同じくらいの感動と興奮の渦が生まれていました。(そして駄目押しのように繰り出されるZ字型の光線。)

 

人格が別であるが故に繰り出せるやりとりやドラマがあった筈で、それが皆無だったこと残念で仕方ありません。『劇場版ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!』におけるウルトラマンXは、変身アイテムを解体されそうになったり、「ガイさん=オーブ」をうっかりバラしそうになったり。別の作品という新風が吹くことで生まれるやり取り、客演の魅力がその作品ではありました。

 

それは『ウルトラマントリガー』テレビシリーズの第7・8話でやっていて、新しい変身アイテムの使い方が分からず誤射をするハルキと足を怪我するZという、まさに客演ならではの新たなやりとりがあったわけです。だからこそ、今回のZの存在感の薄さはとてつもなく気になってしまいました。

 

今回のZの扱いへの不満は『ウルトラギャラクシーファイト』『劇場版ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス』におけるウルトラマンXの扱いにも通じるものです。上記二作品では、Xは一言も喋らないどころか、掛け声すらもう一人が代替していました。まるでXは傀儡になってしまったのかのようで、その違和感が最後まで拭えませんでした。今後もそういう扱いになるのであれば、人格が別れているタイプのウルトラマンはやめるべきではないかと思ってしまいました。(もしくは、『ウルトラマンタイガ』のように別れるエンドか。)

 

もう一つの不満点は、『ウルトラマンZ』のテレビシリーズで倒した相手に逆に一矢報われることです。しかも後輩ウルトラマンであるトリガーに助けられるという先輩ウルトラマンの面目丸つぶれの状態になってしまいます。Zとハルキのキャラからして必ずしも後輩を引っ張っていく必要はないですが、(と言いつつ先輩風を吹かせてくれると感激する。)足を引っ張って欲しくなかったです。『ウルトラマントリガー』のテレビシリーズ第7・8話のように、背中を見せるだけで後輩ウルトラマンの指針になりうるような先輩ウルトラマンとしての風格を見せて欲しかった。

 

 

 

ウルトラ特撮 PERFECT MOOK vol.40ウルトラマンZ ウルトラ特撮PERFECT MOOK (講談社シリーズMOOK)

 

 

 

 他にも破れかぶれで登場するデストルドスへの落胆や、Zがやってくる理由なんて「ガッツスパークレンスを返しに来た。」でもいいだろいうという思いや、いろいろ気になることはある訳ですが、別世界のウルトラマンが共演することで生まれる化学反応を魅せて欲しかったことに尽きます。今後の先輩後輩ウルトラマンの共演が、形式的なもの以上の価値を生み出してくれることを祈っております。

 

 

 

暗部への疑心と恐怖。閉塞的な不可知の中でも繫ぎ止める存在が希望を照らす。<THE BATMAN −ザ・バットマン−/感想>

 あらゆる情報の取得と発信が容易にできるようになった代償として、情報に対する信頼が揺らぎ、情報の真偽を見極める嗅覚が個々に求められるようになった現代。所謂暴露を目にすることが増え、自分が試されているかのような場面に直面する機会が増えたと思います。そこに追い打ちをかけるかのような新型コロナウイルス感染症の蔓延。マスクを着けて表情は見えにくい、画面越しでのやりとりで意思疎通も行いにくい。

 

そんなネガティブなことに思考を巡らされる作品が『THE BATMANザ・バットマン−』です。活動を始めて2年目のバットマンブルース・ウェインが、疑心と恐怖に満ちたゴッサムシティで様々な権力者の嘘を暴いていく知能犯リドラーに迫っていく姿を描いた本作。現実との結びつきを強く感じるこの作品を観てきました。

 

The Art of the Batman

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 全編に渡って刷り込まれる暗部への疑心、そして恐怖。その中で人を繫ぎ止める存在が紡がれていたこと、その儚さと尊さを感じさせる物語りに素晴らしく胸を打たれました。

 

本作は上映時間が176分の長尺ですが、気になりません。長尺でも許容できるパターンは、「あっという間に感じる」か「長く観ていたいと思う」かの二通りだと思いますが、本作は後者です。一つ一つのカットが見応えがあり飽きることがないし、寧ろこの長尺こそがゴッサムシティを包み込む閉鎖感と重苦しさ、ひいては作品が導き出す結論のカタルシスを強めることに寄与していました。

 

そんな本作の舞台であるゴッサムシティは、権力者もそうでない者も、上も下も共に悪いことをしているような最悪な場所です。誰が敵なのかも分からないし、何を信じていいのかも分からない。疑心と恐怖に満ちています。不可知ゆえの閉鎖感が、映像から、物語から漸進的に伝わってくる。

 

そしてバットマンの登場もまた、不可知ゆえの緊張感と恐怖に満ち溢れていることが印象的です。バットマンが居るのか居ないのかを問わず、暗闇に怯える犯罪者たち。そんな彼らを容赦なく制圧していくしていくバットマン。犯罪に手を染める者にとってバットマンが恐怖の象徴であると感じられる描写の数々、そのインパクトは凄いものでした。

 

そうしてバットマンとして活動するブルース自身(=ブルースの両親)の秘密にも知能犯のリドラーのメスが入ります。バットマンとして在る自分の土台である両親の存在にさえ疑心を抱いてしまいます。

 

そんなブルースを繋ぎ止めてくれたのが、執事であるアルフレッド。父親は息子であるブルースを守るために行動していたこと、その結果は意図しないものであったこと、それらがアルフレッドの口から語られます。彼の言葉を聞き、手を握る。

 

様々な過去の事実に翻弄されてきたブルースを繋ぎ止めてくれた存在が、証拠のある真実ではなく目の前にある大切な存在だった。それは本当に胸を打つものでした。

 

そしてブルース=バットマンが人々に手を伸ばし先導する。ゴッサムシティの暗部を長い時間をかけて徹底的に印象づけた先で描かれるものが、目の前にいる人々に手を伸ばし助ける、というヒーローとしてごくシンプルでプリミティブな在り方だった。更にその助ける人の中にいたのがブルース自身と似た境遇であった子供であったことも良かった。

 

 

 

 暗部への疑心と不可知への恐怖。その中でも自己を繋ぎ止めてくれる、希望を与えてくれる存在は、手を差し伸べてくれる者だということ。本作を経て生じるバットマンの在り方の変貌は、そんな希望を照らしてくれるような物語だったと思います。本作は、真偽の不確かな情報で溢れる世界の中で、一つの指針を示してくれるような作品でした。本当に良かったです。

 

 

 

現実に肉薄するアニメーションの顕現。アニメーションの未来を切り開く絶望の三部作の幕開け。<機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ・感想>

 平面が立体に、二次元が三次元に、画の連なりが映像に。物理的には存在しない物への立体感と質量の付与、それを実現する技巧と技術、挑戦それ自体が見応えと魅力に転じる。アニメーションの特徴であり強みです。本物に近づけることを志向しながらも実写になることはない、だからこそ、リアルか否かという尺度に囚われない楽しみ方ができます。情報量を増やすことで実写に肉薄しながら、実写とは全く異なる質感や構図でアプローチする。「まるで実写(本物)のよう。」の「実写では観られない。」の両立、物理的には存在しない表現方法だからこその魅力です。

 

そんな魅力を体現した作品が『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』です。一作目『機動戦士ガンダム』の放送開始から40年以上も継続し映像作品に限らない様々な展開がされている人気シリーズの最新作。かつて戦いを繰り広げたアムロ・レイシャア・アズナブル。その二人の背中を見た青年、本作の主人公であるハサウェイ・ノア。地球連邦政府を相手にテロを行う彼の姿を本作では描いています。

 

HGUC 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ ペーネロペー 1/144スケール 色分け済みプラモデル

 

ガンダムシリーズのメインストリームである宇宙世紀。そこを舞台とした物語の最新作というだけではなく、『機動戦士ガンダム』の生みの親である富野由悠季さんが執筆した小説を原作とした本作。そして何より、本作を監督するのが『虐殺器官』の村瀬修功さんという事実が、作品への期待値を大幅に高めます。実際にカメラで撮ったかと錯覚する映像の数々、実写ではないのに引き出される生々しさと臨場感。「このアプローチで作られたガンダムが観てみたい。」と思わせられる魅力に溢れた作品が『虐殺器官』でした。

 


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一見の価値ありの作品ですが、テーマは重く又グロテスクな描写が有るので、観賞の際はご注意を。

 

実写に肉薄しない、立体的に嘘をつくことで発生する表現の余地。そこにメリハリと見栄を差し込むことで、嘘を魅力に転じさせる映像。

実写に肉薄する、立体に忠実にすることで増加する表現の情報量。手描きであるはずなのに実際に撮ったかのように見える映像。

どちらの場合であっても、そもそも本物ではないと一目で分かるからこそ、それが本物のように動いているように見せる技巧・技術自体が見応えと驚きを生んでくれる。

 

実写に肉薄することは、SFの世界のような荒唐無稽なものにリアリティや説得力を与えてくれます。ロボットアニメと特撮の魂をハリウッドの映像と愛で具現化してくれた『パシフィック・リム』、ヒーローという存在を世界観の構築から説得力を生み出してくれたマーベル・シネマティック・ユニバースや『ダークナイト』などがあります。

 

自分にとって好きな作品が「現実でもあり得る。」と一瞬でも思わせてくれる。夢や空想の世界の肯定、それこそがリアルか否かという尺度から解放されながらも、実写のような質感のアニメーション作品を渇望する理由の一つだと思います。(本当にその世界になって欲しいかどうかは、また別の話です。)

 

既存の作品には説得力が無いということではなくて、SFなどのような、現実にはない世界が描かれた作品を観た時、「現実だったらどんな風に見えるんだろう。」と考えてしまう癖のようなものです。期待や渇望はそういった考えが蓄積した結果によるものです。だからこそ、長く続いたシリーズ(長く触れてきたジャンル)であればこそ、その渇望も強くなるのだと思います。

 

幾度となく想像したモビルスーツと呼ばれる巨大ロボットが存在する世界。『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』という映画は、如何にその世界を顕現させ、「現実でもあり得る。」と思わせてくれるのか。非常に楽しみにしておりました。

 

2018年末の時点で「Next Winter」と発表しながら知らぬ間に2020年7月公開になり、更には新型コロナウイルス感染症の影響で最終的に2021年6月まで延期した本作。(感想書くと言いながら、いつまで経っても書き終えなかった自分のことを棚にあげる。)『虐殺器官』の時と同様、度重なる延期を重ねた本作が見せてくれるガンダムの世界は一体どんなものか。公開初日、餓死寸前の状態で劇場に行ってきました。

 


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(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 上に立っただけで建物を壊すほどの重く硬い巨体。その巨体を飛ばすための噴射で燃える木。その巨体が放った熱の塊で溶ける町。外れた弾、落ちる銃、殴り合う機体。その全てが人の何十倍も大きいが故に、その全てが災害となって人々に襲いかかる。

 

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[Alexandros] - 閃光 (English ver.) - Animation MV - YouTube より

 

眼前で繰り広げられる惨事とは裏腹に昂る気持ち。悲しいのか嬉しいのか、判別がつかないほど強い情動。

 

ディテールを突き詰めた果てに顕現するモビルスーツが存在する世界。それは紛れもなく、自分が渇望していた「実写に肉薄したロボットアニメーション」そのものでした。その世界で紡がれる物語もまた、実写に肉薄するからこそ生まれる生々しさがあり、その生々しさが主人公ハサウェイ・ノアを物語ることに付与していたことが素晴らしかったです。

 

実写への肉薄、それによって語られる物語、この2点について書き記しておきたいと思います。

 

 

 

 実写みたいな映像というと情報量の多い映像だと思うのですが、映像のどういった部分に情報量の多さを感じるのか。それは立体的なカメラワークです。当然、実際にカメラで撮影しているわけではありませんが、画面を構成する被写体の動きが観る側にカメラの動きを錯覚させます。擬似的なカメラの動きのことを便宜上カメラワークと呼びますが、そんなカメラワークを立体的に感じることができる、画面に移る被写体とそれを見ている自分との間の距離を感じられる、自分(カメラ)がその作品(空間)の中の何処に立っているのかが分かる。今の回り込みは自分(カメラ)が回り込んだのか、それとも被写体自身が回ったのか。それが判別できること、被写体の動きと自分(カメラ)の動きが分離されていること、それが自分にとって実写みたいな映像だと感じる基準の一つです。

 

カメラが少し動けば、映るものも少し変わる。建物の陰に隠れていた部分が顔を出し、逆に写っていた部分が陰に隠れる。立体的であれば当たり前のことを3DCGを活用して高い精度で表現することで立体感を出しています。

 

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[Alexandros] - 閃光 (English ver.) - Animation MV - YouTube より

 

背景美術を立体的に動かす「カメラマップ」という手法を用いることで、絵が立体的に動くだけではなく、手描きのキャラクターとも馴染んで違和感がありません。

 

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『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』予告1 - YouTube より

 

実写にはないアニメーションの利点は、物理的には存在しない物であるため、狭い場所でも物理的な制約にとらわれない点です。立体的なだけではなく、狭い空間でありながら、カメラワークとアクションをダイナミックにしており、コックピットの外で繰り広げられるモビルスーツのアクションから乖離せず、躍動感と臨場感をコクピットの狭い空間でも実現しています。

 

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『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』予告2 - YouTube より

 

本作で登場するガンダムは元々映像化を想定していないデザインであり複雑であったため、作画で動かすことは非常に難しかった。しかし、3DCGを用いることでそれをクリアするだけではなく、複雑でダイナミックなアクションを実現しています。

 

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[Alexandros] - 閃光 (English ver.) - Animation MV - YouTube より



 

 実写に肉薄したアニメーションが浮き彫りにするモビルスーツと人のサイズ感の違い。本作が素晴らしいのは、サイズ感の違いを、登場人物の内面を描くことに大きく寄与していることです。

 

サイズ感の違う人型といえば、特撮ヒーローのウルトラマンが思い出されます。自分よりもずっと小さい人を守る存在。存在の大小を問わず助けてくれるヒーロー。その精神性を可視化してくれるウルトラマンの大きさ。それが、ウルトラマンという作品が好きな理由の一つかもしれません。

 

人が持つ視点のスケール感の違いを、モビルスーツと人のサイズ感の違いで表現しています。

 

ハサウェイとタクシーの運転手との会話から感じられる温度感の違い。ずっと先のこと、大局を考えて行動しているハサウェイと、今日明日を生きるのに必死で明後日のことを考えらないというタクシーの運転手。

 

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[Alexandros] - 閃光 (English ver.) - Animation MV - YouTube より

 

非人道的な政策である「人狩り」を実行するマンハンターをどうにかして欲しいとタクシー運転手は言う。その差し迫った問題の根幹にある腐敗。それを正そうとしているのがハサウェイ達なのに、それが伝わらない。「暇なんだねぇ。」「学があり過ぎるんですよ。」と言われてしまう始末。

 

それでも既存の体制・仕組を変える方法を見出せないが故に、武力に訴えるしかないハサウェイ。そんな彼の行動を理解、とまでは行かずとも、そこに「清廉さ」を見出してくれるのが敵であるケネスのみという皮肉。強く訴える手段であるはずの「武力」が、その強さ故に本来の主張を霞めてしまう。1000年先のことを考えた主張が、刹那的な暴力に矮小化されてしまうという本末転倒。

 

テロリズムの虚無感や徒労感を徹底的に描かれる本作。表出した問題をどうにかしても根本的な解決にはならない、かといって、その根本的な解決に肉薄するには、それ自体が問題に捉えられてしまうほどの強い手段を用いるしかない。その現実を受け止めて行動を起こすハサウェイの姿を描いているのが本作であり、そんな刹那さが『閃光のハサウェイ』というタイトルに内包されているように感じます。

 

連邦政府の腐敗や人々との断絶、世界に存在する歪みが集約されていると言えるのが、主人公のハサウェイです。そんな彼の歪みが顕在化しているのがダバオでの戦闘シーン。先のことを考える者たちと瞬間瞬間を生きている者たちの対比を、モビルスーツで戦う者たちと戦いに巻き込まれる者たちの対比によって可視化しています。

 

しかし、ここでおかしいのは、戦う側であるハサウェイが、何故かダバオ戦では戦いに巻き込まれ、街の人々と一緒に逃げていることです。戦う側とそうでない側の決定的な断絶を描きながらも、そうでない側にいるハサウェイの矛盾。彼の内面が如何に壊れているのかが感じられる場面の一つです。

 

歪んだ精神を抱えたハサウェイがガンダムに乗り込み、ペーネロペーが戦う終盤。ハサウェイが乗るΞ(クスィー)ガンダムもまた、ハサウェイの歪んだ精神、矛盾した内面を表しています。

 

ハサウェイは、アムロ・レイシャア・アズナブルの二人の姿を見ていますが、前者は胸部にコックピットがある機体に、後者は頭部にコックピットがある機体にそれぞれ乗っていました。そしてハサウェイが乗るコックピットは何処かというと、"頭部のようなデザインの胸部"です。特徴的な黄色いアンテナ、額と口の赤いパーツ、ガンダムの頭部を想起させるパーツが配置されています。

 

ハサウェイ自身はアムロのような在り方を志向しているが、実際は、シャアのやり方に沿っている。そんな彼自身の内側と外側の乖離を表しているように感じられるデザインになっています。

 

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『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』予告2 - YouTube より

 

ちなみに、Ξ(クスィー)ガンダムのデザインは、劇場公開まで伏せる予定だったとのこと。確かに、ペーネロペー戦で顔が明らかになるまでのシーンは、胸部が頭部であるかのようにミスリードさせる意図を感じます。

目指したのは“脱ガンダム”『閃光のハサウェイ』Ξガンダムデザインの裏側|シネマトゥデイ

 

これほどまでに断絶と閉鎖感を感じさせる状況であり、また自身も大きな歪みを抱えながらも、それでもガンダムに乗り込み戦う。これまでのガンダム作品には感じたことのない切なさが今回の初陣にはありました。

 

 

 

 現実味を感じさせるほどの圧倒的なディテール。そこで描かれる生々しい人間と社会の在り方。その先にあるガンダムの初陣は、これまでのガンダムシリーズでは感じたことのなかった手触りのものになっており、この先に待ち受ける結末への不安を煽るものになっていました。

 

モビルスーツのいる世界を視覚的にだけではなく、その閉鎖感も含めて現実に肉薄してみせた本作は、間違いなくガンダム作品の中でもベストの一作です。残り二作品がどのような作品になるのか、とても楽しみに、そして気長に待とうと思います。

 

 

 

大いなる舞台で描かれる親愛なる隣人の大いなる終幕に涙する。<スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム/感想>

 スパイダーマン in MCUマーベル・シネマティック・ユニバース

 

キャプテン・アメリカ シビルウォー』予告編にて発表された大ニュース。考えもしなかった展開に歓喜し、同時に湧き上がる『アメイジングスパイダーマン』シリーズ終了宣言への寂しさ。思えばMCUスパイダーマンは複雑な心境を抱えながらの始まりでした。そして今、幕開けと同じく、複雑な心境で終幕を見届けることになりました。

 

2002年に公開された『スパイダーマン』から始まり、今まで継続してきた実写版スパイダーマン。その新作であり、MCUスパイダーマンの完結である『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が公開されました。

 

終わってほしくない気持ちと終わりを見届けたい気持ち。そんなジレンマを抱え余裕のない中で投下される過去のヴィランズの登場の一報。『アベンジャーズ:エンドゲーム』に続く語彙力喪失系映画に可能性を秘める本作に対し一作では収まらない思いや緊張感を抱えながら、意を決して劇場に足を運びました。

 

 

 

Spider-Man: Homecoming (Original Motion Picture Soundtrack)

 

 

 

 MCUスパイダーマンは新しかった。これまでにトビー・マグワイア演じるスパイダーマン(以下トビースパイダー)とアンドリュー・ガーフィールド演じるスパイダーマン(以下アンドリュースパイダー)、2人のスパイダーマンが活躍してきました。その中では2人とも、『ミッションインポッシブル』よろしくNO BACKUPでやってきました。スーツをはじめとする道具は自分でアップグレードし、登場するヴィランや遭遇する事態には時には市民などの力を借りることはあれど、主に1人で対処してきました。

 

孤軍奮闘が常だったスパイダーマンMCUを舞台にどう活躍するのか。ヒーローが他にもいるという意味で孤独ではないスパイダーマンはどうなっていくのか、ワクワクさせるには十分な要素でした。

 

中でも特筆すべき点は、失敗できてしまうこと。失敗しても他のヒーローにカバーしてもらうことができます。一作目『スパイダーマン:ホームカミング』では船を沈没させかけたところをアイアンマンに助けられました。対して、以前のトビースパイダーとアンドリュースパイダーは、他のヒーローに助けてもらうことはありません、他にヒーローはいないから、スパイダーマンにしかできない。だからこそ、スパイダーマンの孤独さと切なさが際立ち、その中で大いなる責任を果たそうとするスパイダーマンの姿に胸を打たれてきました。

 

しかしトムホスパイダーの世界MCUにはアイアンマンをはじめ、数多くのヒーローが存在しています。寧ろ、先人のヒーロー憧れ、模範にし、師を仰ぎます。更に、協力してくれる友人や恋人もいる。孤独感から程遠いキャラクター像がトムホスパイダーの特徴であり、今までには無かった実写版スパイダーマンとしてと魅力的でした。

 

作中一の富豪による超バックアップが付いているスパイダーマン。慣れない高所にビビるスパイダーマン。スイングが上手くいかないスパイダーマン。住宅街を走り抜けるスパイダーマン。他にヒーローが存在するMCUという世界観だからこそ許容される「洗礼されていないスパイダーマン」。かつての2つのスパイダーマンの誕生譚では見ることがなかったスパイダーマンの在り方でした。

 

二作目『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』で描かれた継承もまた、他にヒーローがいるからこその展開です。慕っていたヒーローが亡くなるだけでなく、そのヒーローが背負っていたものの一部を継いでいかなくてはいけない。親愛なる隣人が、あらやる意味で隣人でいることを脅かされていく。

 

 

 

 他のヒーローがいる世界ならではの道を歩んできたトムホスパイダー。他のヒーローにヒーローの在り方を説かれ導かれ、そして継承してきた前二作品。その次に描かれる物語で他のヒーローであるドクター・ストレンジとの衝突が描かれたことは、これまでは導かれるがままだったスパイダーマンが自分なりのヒーローを在り方を確立したことを示しています。だからこそ、非常にMCUスパイダーマンらしい展開だと思いました。

 

マクロな視点から主張するストレンジに対して、ヴィラン達を助けるというミクロな視点から主張するスパイダーマンもまたスパイダーマンらしい。

 

スパイダーマンらしさから逸脱するMCUらしさ、そのMCUらしさから更に浮き彫りになるスパイダーマンらしさ。そんな応酬が3(+3)作途切れることなく行われてきたことは、「スパイダーマン in MCU」に意義を見出してくれていたと思います。だからこそ、本作『ノー・ウェイ・ホーム』で行われたスパイダーマンらしさの回帰にもまた、大いなる意義が見出されたのだと思います。

 

 

 

 トムホスパイダーをスパイダーマンらしさへ回帰させる過去作のヴィランズとスパイダーマンズとの邂逅。親しい者の命が奪われるというスパイダーマンの運命をヴィランズ(特にグリーンゴブリン)がもたらし、その運命への向き合い方をスパイダーマンズが教えてくれます。

 

MCUらしさの極致とも言えるマルチバースによってスパイダーマンらしさの回帰がもたらされる。スパイダーマンの課された運命の持つ引力とMCUという流れからの離脱、双方を同時に感じる展開には膝を打ちました。

 

スパイダーマンの物語の始まりは、トビースパイダーもアンドリュースパイダーも共にベンおじさんの死から始まっています。本作では、その展開をメイおばさんの死によって代替されます。

 

メイおばさんを殺したグリーンゴブリンを怒りのままに殴り殺そうとするトムホスパイダー。トビースパイダーとアンドリュースパイダーと違うのは、本作が一作目ではないということです。3(+3)作品に渡り活躍する中で力の使い方を学び、アイアンマンの死を経てヒーローの在り方確立しました。

 

それでもなお、メイ伯母さんの死に直面して激情を抑えることができなかった。初めはそこに納得できなったのですが、よくよく考えてみると師であるアイアンマンも『キャプテンアメリカシビルウォー』で激情を抑えることができませんでした。ヒーローとしての成熟が、必ずしもそういった成長とイコールではない。

 

3人で共闘する中で、トビースパイダーとアンドリュースパイダーが、かつて助けられなかった人を助けます。それは彼らにとって救済であるのと同時に、「彼らの死は無駄じゃない。」ということの実践に思えます。そしてトムホスパイダーが振り上げた拳を止めるトビーピーターの姿。彼の激情を沈めるのには、あまりにも強すぎる説得力です。

 

そして激情を抑えるトムホスパイダー。このバランスで良かったのだと思いました。

 

 

 

 

 前述したトビースパイダーとアンドリュースパイダーがこうして再び登場してくれたこと。そして成せなかったことを成し遂げること。それらを観られた本作には感謝の念は絶えません。MJを助けてもアンドリュースパイダーの恋人であったグウェンは戻ってこない、その切なさも含め見せてくれたことは本当に良かったです。

 

「親愛なる隣人」という二つ名のとおり、他のヒーロー以上に身近な存在であると感じられるスパイダーマンが、あれから10年近く経過した今でも、変わらずヒーローとして頑張っていてくれている。その光景を目の当たりにすることは、「彼らもまだ頑張っている。」とこれ以上になく勇気付けられる。再びあの姿を見られたことが本当に嬉しかったです。

 

 

 

 これまで描かれてきたスパイダーマンの孤独さ。それをMCUで積み上げてきた繋がりを全て断つことで表現してしまうラストの展開には心底やられました。MCUの物語が空っぽになったことを象徴するかのようなピーター(=スパイダーマン)の部屋がこれ以上になく悲しい。でも同時に、だからこそ、そこからニューヨークの摩天楼へ跳び立っていくスパイダーマンの姿にこれ以上になく感動させられます。

 

かつて大義を選択して命を落としたトニー(=アイアンマン)の姿が重なるピーターの最後の選択は、繋がりこそは絶たれてしまったものの、ピーターの中には間違いなくMCUの物語が生きていることを感じさせてくれます。

 

トビースパイダーとアンドリュースパイダーの一作目が街中を跳ぶシーンで締められているのと同じように、MCUという舞台をまたいだ大いなる誕生譚の終わりと始まりを象徴するラストシーンだったと思います。

 

 

 

 MCUという複雑な舞台で語られるスパイダーマンアイデンティティ。それを経て辿り着いた大いなる再スタートは素晴らしかったです。再び親愛なる隣人の姿を見られる日が来ることを楽しみにしています。

 

 

 

AIの感情を浮き彫りにする愛の物語。未来を明るく照らすアイの歌声に涙する。<アイの歌声を聴かせて・感想>

 友〜達〜欲〜し〜〜〜〜〜〜い!!!!!

 

 急にどうした?と思われるかもしれませんが、まさにそんな主人公のファーストインプレッションから始まるアニメーション映画が『アイの歌声を聴かせて』です。監督は『イヴの時間』の吉浦康裕さん。主人公・シオンの声を演じるのは土屋太鳳さん。そしてもう一人の主人公・サトミの声を演じるのは福原遥さん、その幼馴染・トウマの声を演じるのは工藤阿須加さん。そして小松未可子さん、興津和幸さん、日野聡さんといった実力派声優が脇を固めます。

 

イヴの時間』で一度AI(人工知能)を題材の作品を作り出した吉浦康裕監督が、新作で再びAIを題材に作品を作り出す。『イヴの時間』から10年以上の時が経ちAIがより身近な存在になった現代で新たに描かれる「人とAIの物語」がどんなものか、非常に楽しみ劇場を後にする頃には、作品の放つパワーに完璧にやられていました。

 

 最後にきっと、笑顔になれる――。

 

公式HPのイントロダクションに記載されているこの一文に偽りなしの傑作の誕生。作品に流れている価値観。その価値観から放たれる最高のクライマックス。そこから感じたことをしっかりと書き残しておきます。

 

 

アイの歌声を聴かせて (講談社タイガ)

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 本作で特筆すべき点は「進化したAI(人工知能)=人」という価値観から脱却した物語を展開し、共存の可能性・希望を示してくれたことです。

 

人の指示など様々な情報から人の考え方・価値観を学習し模倣する事で人間らしい思考を獲得していく。それを積み重ねていった結果、もしくはその過程で人と同じように感情も芽生えていく。そうしてどんどん人に近づいていき、遂には人にしか思えないレベルにまで到達する。更には見た目さえも人にしか見えなくなっていくことで人との境目が限りなく曖昧になった時、必ずと言っていいほど突き当たるのが「AIを人と同等の存在として認めるべきか否か。」という問い。

 

 近年でAIを題材とした作品で思い出されるのは『Detroit: Become Human(デトロイト ビカム ヒューマン)』や『仮面ライダーゼロワン』です。どちらも今では人間が従事している仕事にAIを搭載したロボットが従事している世界が舞台になっています。その中で、人がAIに仕事を奪われたことでAIに反感を持ったり、逆に感情を持ったAIが人と同じ扱いを受けないこと(人の支配下にあること)に不満を持つことで発生する様々な問題が描かれています。

 

 

 

そういった作品において、観る側として常に感じていたことは二点あります。

  • 人に限りなく等しいAIを尊重したい思いと、AIによって起こってしまう悲劇を避けたい思いのジレンマ
  • そもそも意思を尊重すると言っても、それは人の所有物として許される範囲内で?それとも人として?

 

特に『仮面ライダーゼロワン』では、後者に疑問について主人公のスタンスが明確にならない、そもそも番組(物語)がそこまで踏み込んで描けなかったことにモヤモヤを感じていたことは否めません。

 

人と同じように考えたり感情を抱くAIが、与えられた命令(仕事)から離れて人と同じように生きる自由を望んだ時どうするのか。そもそも、感情を持ったAIはそんな自由を望むのか。自分の人口知能に対する知識の少なさも相まって、AIという題材に対して八方塞がりのような印象を抱いていました。「気持ちの良いハッピーエンドはあり得ないのではないか。」と。

 

この先、自分たちの生活にAIが根付いていくのだと実感する日々。いつか直面するかもしれない問題へのポジティブな回答を提示してくれる作品を渇望していた中、風穴を開けてくれたのが本作『アイの歌声を聴かせて』でした。

 

それを最も感じたのは、シオンの救出する過程でシオンのボディを捨てたことです。トウマの「シオンはAIだからボディは逃がさなくてもいい。」という提案に則ってシオンのデータのみを逃がします。その後も誰もボディが無くなったことを嘆いたり取り戻そうとはしません。当のシオンも、手に入れたボディを使ってサトミに直接会えたことに喜びはしても、ボディに固執することしないし、決して「サトミたちと同じ人間になりたい。」とは願わない。

 

あくまでAIのシオンにとって人型のボディは、サトミに直接会い歌を歌うための道具・手段にすぎなかった。AIだから人型の身体(ロボット)は後で戻せばいい(治せばいい)、ではなく、AIだから人型の身体(ロボット)は必要ないという発想。目から鱗でした。

 

本作におけるAIのシオンや人間のサトミやトウマたちの在り方は、これまでの作品で突き当たっていた「AIを人と同等の存在として認めるべきか否か。」という問いには辿り着かないものでした。自分の中で停滞していたAI観を一歩勧めてくれるような回答を本作は提示してくれました。

 

 

 

 上記で述べた閉鎖感はAIに限った話ではなくて、SF作品でよく感じていたことです。例えば自分が大好きな『ガンダム』シリーズでは、登場するモビルスーツ(ロボット)の活躍に胸を熱くする一方で、登場する技術を用いて大きな争いを起こしたり、技術自体が争いの火種になったりする。勿論全てがそうではないと思いますが、自分が今までに観たSF作品における技術にはネガティブなものを纏っていることが多かった。

 

だからこそ、劇中で「サトミを幸せにする。」ために高らかに歌い上げるAIのシオンの姿はたまらなく輝いて見えるし、自分の中の暗かったSF観を照らしてくれるかのようでした。純粋に物語としてだけでなく、未来を照らしてくれるかのような明るさが眩しく、そして心底嬉しかったんです。

 

You've Got Friends ~あなたには友達がいる~

You've Got Friends ~あなたには友達がいる~

  • 土屋太鳳
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 

 また、本作が非常にクレバーに感じたのが、そういったAIの可能性を手放しに謳うのではなく、AIの特性(一途さとも言い換えていいかもしれません。)故に悲劇を招いてしまう可能性もしっかりと踏まえていることです。

 

トウマの告白のためにサトミを呼ぶ場面におけるホラー演出。その直前に行われるサトミとサトミの母・美津子との会話でAIの危険性を示唆した直後であることも相まって、AIであるシオンの行うことに対して一瞬でも疑念や恐怖心を抱かせる。そうして危険になる可能性がゼロとは言い切れないことを示した上で、AIの可能性を描いていくバランス。

 

そのバランス感覚だからこそ、本作で描かれていくAIの可能性が決して絵空事ではなく、しっかりと地に足のついたものであると受け止めることができる。感動できる。

 

 

 

 また、本作で物凄く胸を打たれたことは、「AIにどうやって感情が芽生えるのか、どうやって本人が自覚するのか。」という思考実験を圧倒的な説得力を以って答えを示してくれたことです。

 

本作は中盤で登場するバックアップの概念を私たちが普段行う写真を撮ることと結びつけています。思い出を写真という形で残すことをシオンはバックアップという形で模倣する。そこでシオンが残したものを通じて、シオンの出自が明らかになるだけではなく、AIのシオンの感情をも浮き彫りにすることに成功しています。

 

だからこそ、物語終盤でシオンが「幸せだったんだね…」と自らの感情を自覚することに揺るぎない説得力が生まれていて物凄く感動しました。

 

 

 

 自分がAIを題材にした作品に求めていたことを言語化してくれたかのような秀逸な物語。その中で、AIの感情に寄り添いながら人とAIの在り方や共存の可能性を示していく。AIの可能性、AIを題材にした作品の未来を明るく照らし出す最高のエンターテインメントである本作を、是非沢山の人に観て欲しいと思いました。

 

繋がりの消失した世界で描かれるストレートな面白さとモヤモヤに向き合う。<シャン・チー/テン・リングスの伝説:感想>

 在り方や見え方が大きく変わっていく世界を描いてきたマーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)に魅了された、2008年から2019年。(もうそんなに経ったんですか…)そんなMCUの変貌を彷彿としてしまう大きな変化があった2020と2021年。作品の受けても送り手も互いに望んだペースでキャッチボールができなくなっただけでなく、映画館か配信のどちらにするのか投げ方も定まらない。そんな中、新たなる第一投である『シャン・チー テン・リングスの伝説』が遂に公開されました。

 

『エンドゲーム』後に誕生したヒーロー(時系列的には厳密には違うが。)という意味で、MCUの新たなスタートとなる一本として、非常に楽しみにしていた作品です。観てきました。

 

 

シャン・チー/テン・リングスの伝説:ザ・アルバム

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 まずはアクションが良かったです。『キャプテン・アメリカ ウィンターソルジャー』を彷彿とさせる早さと手数の多さ、『ブラックパンサー』のようなアクロバティックさ、それらを内包したアクションは気を抜くと目で追う事が出来なくなるほど見応えがあります。それをテン・リングスというアイテムによって拡張されていく終盤は壮快でした。

 

ハイスピードなアクション、テン・リングスを初め情報量が増していくアクションシーン。でありながらも、決して観る者を振り落とす事のないようにしてくれるランドマークの設置もまた凄かった。例えばシャン・チーとデス・ディーラーが戦う場面のクナイ。戦闘開始時に二本持っていたデス・ディーラーからシャン・チーが一本奪い、その後奪い返されるけど再び奪う。そして最後には、デス・ディーラーの首元にクナイを突き付ける。

 

「敵の持つクナイは二つ!こっちは丸腰!まずい!」「クナイを弾いた!取った!凄い!」「クナイを取り返された!手強い!」みたいな具合に、敵に対して優勢なのか劣勢なのか、情報量の多い動きの中でも、戦いの駆け引きがしっかりと理解できます。

 

その少し前のマカオビル横で落とされそうになるケイティを助けに行くシーンも最高でした。ゲームだったら「ケイティを助けろ!」「ケイティのもとへ急げ!」なんてミッションが出てきそうなくらい分かりやすい状況。迫る敵をいなしながら、突き進むシャン・チー。誰かを助けようとするヒーローの姿は、それだけで気持ちが良い。「Coming!」と言う台詞の格好良さが忘れられない。あれを聞くために『シャン・チー』を観賞する価値はあるかもしれません。

 

この理解のしやすさは終盤でも同様で、タイトルにもある武器テン・リングスによって優勢劣勢が理解できます。テン・リングスも型も自分のものにする瞬間を画を見せつけられる瞬間は、勝負の決着をこれほど分かりやすく可視化されるものなのかと感嘆すら覚えるほどでした。更にはそこにキャラクター物語が伴ってくる。父と母から継承したものがアクションの中で可視化されていく終盤の戦闘はカタルシスが凄かった。

 

 

 

 しかし、これだけアクションを楽しめたにも関わらず、何故か引っかかるものを感じてしまいました。作品に完全に乗ることが出来ませんでした。最初は自分でも理由が分からず、どうにか違和感の正体を言語化しようとしましたが上手くいかない。

 

 

しかし他の人の感想も見て改めて考え、ようやく自分の中で整理されてきました。

 

 

 

 『シャン・チー』の世界が「MCUの一部に思えなかったこと」に起因するのではないかと思われます。終盤辺りから登場する舞台、そして怪獣映画の如く暴れる龍達の姿。とてもファンタジックな光景が繰り広げられる中で、あの世界がトニー・スタークやスティーブ・ロジャース、ピーター・パーカーが住んでいる世界から地続きに感じられなかった。『ソー』の舞台のように宇宙ならまだしも、地球を舞台にファンタジーが繰り広げられた事が、その違和感を強めていたと思います。

 

しかし、本作のようなファンタジーな作品は、ソーやドクターストレンジなど、これまでのMCUにもありました。

 

ではこれまでのMCUと比べて今回の『シャン・チー』の違いは何なのかというと、「インフィニティストーンが無い」ことです。『アベンジャーズ エンドゲーム』にて、インフィニティストーンは無くなり、サノスもいなくなりました。この二つの要素はこれまで数多のMCU作品を繋げてきた存在であり、物語の中で起こる事象、用いられる術はそれらから派生したものです。インフィニティストーンを媒介にすることで、世界の繋がりを感じる事ができる。

 

そして何より、インフィニティストーン、ひいてはサノスという物語の目的地が提示されていた事こそが、繋がりを確固たるものにしていたのではないかと思います。

 

アベンジャーズの一作目と二作目の最後に登場するサノスを代表されるように、この物語が進んだ先にあるものは度々提示されてきました。ヒーローたちは如何なる理由でアッセンブル(集結)するのか。一見バラバラの方向を向いているように見える物語でも目的地が同じであり、そこから遡るように作品の繋がりを感じる事ができる。

 

少しずつ近づいていき同じ方向に向いていく実感が、唯一無二と言っていい高揚感を生み出してくれる。『アベンジャーズ  インフィニティウォー』における、ガーディアンズとソーが合流した時の「繋がった」という感覚と高揚は今でも忘れられません。単に「ヒーロー達が一つの画面に収まっている。」というだけではなく、各ヒーローが背負っている作品、流れが集約されていく。様々な部分に生じている作品間の質感の差異も、同じ方向を向いていく事で中和されていく。だからこそ、ヒーロー達のそれぞれの作品が一つの世界の中で起こっているんだと感じる事ができる。

 

そんな目的地を通過してしまった今、自分にとって作品を繋げていた強力な接着剤が無くなってしまいました。だからこそ、『シャン・チー』の世界がMCUの一部だと思う事ができなかった。

 

 

 

 しかし、別にMCUの一作目である『アイアンマン』からサノスやインフィニティストーンが登場した訳ではない。まだ見ぬ新たな出発の準備の段階です。本作はMCUの新たなスタートを飾る作品の一つです。本作は新たなアッセンブル(集結)へ向けた「スタート位置につく」段階の物語なのだという結論至り、ようやく自分の中で腑に落ちました。一作目である『アイアンマン』を想起させる展開等があったのは、再スタートを意識したものだった、というのは考え過ぎでしょうか…?

想起させるといえば、闘技場でシャン・チーが「バスボーイ!」って紹介されていましたが、『スパイダーマン』でピーターが「蜘蛛男」って言ってるのに「スパイダーマン!」って紹介されていた場面を思い出して口角が上がってしまいました。懐かしい。

 

先ほど「トニー・スタークやスティーブ・ロジャース、ピーター・パーカーが住んでいる世界から地続きに感じられなかった。」と述べましたが、「地続き」がキーワードだったんだ、と思いました。

 

MCUの始まりである『アイアンマン』は「現実でも起こり得るんじゃないか。」と思わせてくれる作品でした。自分の世界と地続きだと思わせてくれるリアリティがあるアイアンマンスーツのデザイン、世界観。そしてアイアンマンスーツの変貌に象徴されるように、そうした現実に地続きの世界からから"少しづつ"現実離れした世界に変貌していく。その積み重ねの結果、現実と『アベンジャーズ エンドゲーム』が地続きに感じることができる。初手で同じ世界観が提示される場合では感じる事のできない世界を作り出せた。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

だからこそ、地続きに思わせていたものが無くなった影響は自分の想像以上に大きかったんだと思います。また、自分が地続きに感じていた『アイアンマン』の頃から、地球は割とファンタジックな舞台だったと明かされる事に抵抗を感じていたのだと思います。(色々言いましたが、これが一番ストレートな原因だと思います。)

 

だからこそ、公開が目前に迫っているMCUの次作『エターナルズ』に対して既に厳戒態勢になっている事は否めません。予告編を見る限りだと、またぐるぐる考えてしまいそうな内容ですが、なるべく考え過ぎずに楽しみたいと思う所存です…少なくとも観賞している瞬間は…

 

 

 

 インフィニティストーンやサノスといった存在が、自分にとって如何に世界観を強固に結びつける存在であったのかを痛感させる一作でした。ヒーローの集結と世界観の接続で生まれる面白さを提示してきたMCU。その中でキャラクターが作品を横断する事が珍しくなくなった今、たとえ単独作であっても単体で楽しむものとして認識する事は難しくなっているのではないかと思う。

 

我ながら面倒くさい。先程も結論だなんてもっともらしく言っているが、結局は当たり前のことを言っているだけな気がする。「もっと気楽に見ろよ。」とか「考えすぎだぞ。」とか自分で思わなくもない。しかし、それだけMCUが生活に染み付いてしまった結果とも言えます。そして、あれこれ考えることは楽しいから結果オーライな気もしています。

 

今回のように変に構えすぎたり個人の趣向によって、必ずしも全ての作品や展開が好きになることはないです。でもせめて、「成るべくしてそうなった」と納得したいと思う自分がいます。自分にとってMCUの世界は分岐したもう一つの現実だと思っているからです。

 

色々ぐるぐる考えてしまいましたが、物語もアクションも、その二つの親和性を含めて最高であった事は間違いないです。母の使っていた型、父の使っていた道具、その二つの継承自体がとても情緒的だし。それがストレートに戦闘に反映されていき、遂には一つの偉業を成し遂げる。カタルシスを感じるには十分過ぎるものです。

 

次回作では更にパワーアップしたアクションは勿論ですが、父ウェン・ウーがそうであったように、身体を動かす度にテン・リングスの音を響かせるシャン・チーの姿を是非見たいです。

 

 

 

人造だからこそ、人の創りしもの故に映画から受け取る力<シン・エヴァンゲリオン劇場版/感想>

 7月21日(水)、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の上映が終了しました。それも興行収入100億円突破という快挙を達成して。

 

今だに感染症の流行収束の兆しが見られない状況下で無事に映画が上映されるのか、上映されたとしても劇場に足を運ぶことができるのか。そんな不安に包まれる中で出された「約1週間後の月曜日から上映開始」という突然の発表。新劇場版から数えても14年、テレビシリーズの放送開始から数えるとおよそ26年もの時間が経過したシリーズが遂に終劇を迎える高揚感、それをじっくりと噛みしめる余裕もない困惑感。「エヴァンゲリオンが終わりを迎える。」この事実だけでも十分に記憶に残る作品であったのに、その最後の幕開けもまた、非常に記憶に残るものでした。

 

「この状況下で上映されただけでも儲けもの。」という思いと、「煽りを食って欲しくない。」という思いが混在していましたが、蓋を開けてみれば100億円突破という快挙。本当に凄い。関わった全ての方々に、全力の「おめでとう」を送りたいです。

 

さて、それはそれとして、本作の感想はまた別の話。果たして自分にとって『シン・エヴァンゲリオン劇場版』がどうだったのか。それを記しておきたい。

 

CGWORLD (シージーワールド) 2021年 08月号 vol.276 (特集:『シン・エヴァンゲリオン劇場版』)

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 結論から書くと大号泣しました。それはシリーズの完結に感極まったとか、万感の思いに浸ったからという訳ではなく、本作の終盤の描写に観客へのエールを感じ、いたく感動した訳です。具体的な場面を説明すると、シンジがマリの迎えを待っている場面から最後まで。シンジはマリが迎えに来るのを砂浜で座って待っているのですが、何故かその映像が未完成ものに遡っていきます。映像の色が無くなり、線も下書きになり、完成した映像から遠ざかっていく。遂には作業を行った人が書いたと思われる「よろしくおねがいします。」という言葉までが確認できる始末。つまりは、本来は未完成であるはずの絵が映されているんです。

 

実在のものから情報を抽出し、取捨選択し、それを見た目だけではなく動きに落とし込む。本物ではない存在を本物であるかのように見せてくれることが、アニメーションの醍醐味であり最大の魅力の一つであると思います。しかし、この作りかけの映像を流すことは、それらを台無しにし、没入している状態から一気に素に戻すことに繋がるし、そもそも完成したものではなく作りかけの状態のものを見せるということが有り得るのか、と思います。

 

しかし、自分は涙しました。だからこそ涙を流しました。それは、空想の産物である作品と現実に繋がりを感じさせられたからです。

 

 

 

 アニメーションに限った話ではありませんが、作品に没入する傍らで、現実に存在するものではないということ、造られたものであることも冷静に認識しています。(だからこそ、メイキングを見て楽しんだりすることもできる。)

 

碇シンジをはじめとする登場人物たちは現実に存在している訳でもなければ、当然エヴァンゲリオンという名前の兵器も存在しない。物語の展開を固唾を飲んで見守る一方で、空想上の出来事であることを認識している。

 

しかしそうであったとしても、人が創ったものである以上、作品の中で描かれるものの中に人の思いが込められていると感じるんです。想像上の出来事でありならがら、現実の自分の血肉となり明日を生きていく力となっている訳です。意図的に差し込まれた未完成の絵は、まさに「人が創りしもの」であることを意識させるものでした。

 

そして更にそんな中で見せられた最後の光景は、実写の風景の中を走り去っていくシンジとマリの姿です。本作の総監督である庵野秀明氏の妻である安野モヨコ氏の漫画『監督不行届』の後書きにて、庵野秀明氏は以下のことを述べています。

 

嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。(中略)マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。

 

ラストシーンは正に、物語が終了して観客が現実へ出ていくエネルギーを与えてくれるようなシーンだったと思うんです。アニメーション(映画)などの創作物は、決してその中で完結するものではなく、現実と地続きのものである。だからこそ、上記で述べたシーンは、これまで作中で起こった全ての出来事が、転じて観客である自分に向けたエールのように思えた訳です。

 

安心して生活することのできない中で元の世界を取り戻そうと必死に生きている登場人物たちの姿が、全て、自分へ向けた「がんばろう」というメッセージとして雪崩のように流れ込んできました。

 

だからこそ、本作のラストに感動しました。

  

 

 登場人物に感情移入し作品に没入する自分と、登場人物たちや世界観を俯瞰している自分。今回は後者の自分までもが作品に引きずり込まれたかのような体験でした。

 

生きる上で力や勇気を与えてくれるものは人それぞれだと思いますが、自分にとって映画やアニメーションは、その一つなのだと実感した作品でした。本当に力を貰いました。ありがとうございました。