モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

2023年回顧2024年抱負

 明けまして、おめでとうございます。ブログを始めて5年目に突入しました。弊ブログを読んでくださった方、記事に星をつけてくださった方、読者登録してくれた方、本当にありがとうございます。

 

本年も宜しくお願いします。昨年に引き続き、映画の感想をはじめ、様々な記事を書いていきたいと思いま…

 

 

 

と言いたいところなのですが、昨年公開した記事の数は6件。1年は365日もあるのに、記事は6件。「不定期って言いながらも定期的に更新してる」という感じを目指したいと思っていたのにこの体たらく。不定期にも程がある。

 

この際、不定期だと開き直ることも選択肢の一つなのですが、そんなことしたら本当に年1回更新なんてことにもなりかねない。「映画の感想を書くことを続けたい」という気持ちが潰えていないことを自覚している限りは、ブログの更新頻度を増やしていきたい所存です。

 

というわけで、本年一発目の記事を2023年の回顧と2024年の抱負の機会とし、現状の脱却を図っていきたいと思います(この記事が1月下旬の時点で…とは思わないでいただけると幸いです)。

 

 

 

 まずは2023年の回顧です。ここから始めないことには、2024年の抱負もあったものではありません。考えるべきは、これほどまで記事の更新が滞った原因ですが、それは「二兎を追う者ものは一兎をも得ず」状態に陥っていたことだと思われます。

 

映画、TV、ゲーム、プラモデル、ブログなど、「あれをやりたい。これもやりたい」という思考だけが膨らんでいき、頭の中で混在した結果、色んなやりたい事の境界線が曖昧になって、結局目の前のことに集中できなくなっていました。しかも、感想を書けずにいると記憶や気持ちが風化していくので、「早く書かないと」と焦りを感じてしまう。それが続くと、いつの間にか「やりたい」ことが「やらなければ」に寄っていってしまい、「あれも、これもやって」という義務感に染まった思考だけが回っている状態に陥ってました。

 

そうした頭の中の配線が間違えているかのような状態だと、自分の考えを文字におこすことも上手くいかず、ブログと同じタイミングで始めたTwitter(現X)でも、思うように感想を呟けていませんでした。ブログに比べると一度に書く文字数が圧倒的に少ないにも関わらず、無理やり捻り出すかのように書いて、辛うじて1ツイートの状態。書き出したことをまとめられないならともかく、書き出すことでさえ困難でした。

 

 

 

 そうした中でも、集中して臨めていたのが映画観賞です。外の情報を遮断し、巨大なスクリーン・スピーカーから出てくる情報を受けとることに特化した映画館。その環境は「今はこれしかできない」という状態を作り出し、「今はこれに集中する」とスイッチを入れてくれていました。時間も決まっている・限られているため、「やらなければ」思考にも陥らず頭の配線も狂っていませんでした。

 

自分がこれまでの人生で集中して取り組めた時はどんな状況だったかと考えてみると、学校・塾の自習室など、「特定のことをするための空間」だったことが思い出されます。自室ではなかなか集中できなかった自分にとって、「形から入る」という言葉は、自分が集中できる環境を構築するという点で一理あるのだと、今更ながらに実感しました。

 

やるべき事・やりたい事、仕事・趣味、それらが混在する中でも、時間・場所と一つ一つ整理して取り組んでいける環境作りに、意識して取り組んでいきたいと思います。最終的には自然とスイッチが切り替えられるようにできることを目指します。

 

当たり前のことかもしれませんが、自分はそれができているつもりでできていなかった。良くも悪くも色んなことに慣れてきた今だからこそ、自分の振る舞い・生き方・考え方を見直し意識し、新鮮な気持ちを忘れずに日々を過ごしていきたいです。

 

新鮮な気持ちといえば、自分にとっての初めてのことがございました。アニメ『アイドルマスター ミリオンライブ!』を観たことです。「アイドル」というコンテンツそのものに熱中したことがなかったのですが、『ゴジラ-1.0』で大迫力かつリアルな映像を作り上げた白組がアニメーション制作をしている情報を知り視聴を決意。ライブシアターのこけら落とし公演へ向けて、アイドルたちが一致団結する熱いドラマに心を鷲掴みにされ、最後まで完走してしまいました。特に全3幕の内の第3幕は全3回も観にいってしまいました。

 

他にも『BLUE GIANT』『アリスとテレスのまぼろし工場』『北極百貨店のコンシェルジュさん』『グリッドマン ユニバース』と、とにかくアニメーションが強い年で、本当に楽しい映画体験をすることができました。

 

 

 2023年の回顧はこれくらいにし…と思いきや、気付いたら2024年の抱負も話していました。今年も素晴らしい映画に出会えたらなと思っていたのですが、初手で傑作ともいえる作品に出会ってしまいました。

 

 

『BLOODY ESCAPE 地獄の逃走劇』という非常に物騒なタイトルなのですが、アクションのためのアクションではなく、ドラマのためのアクションが素晴らしい。彼らが戦うことそのものに哀愁を感じさせる作劇は素晴らしくて、ポリゴン・ピクチュアズがアニメーション制作する映画の中で最も楽しめた、と言っても過言ではありません。この作品の感想も投稿したいです。

 

映画観賞において幸先の良いスタートが切れた2024年。1月には『機動戦士ガンダムSEED』の劇場版が公開。2月には『映画大好きポンポさん』の再上映という、話題に事欠かない年になりそうですが、ブログの更新もそれに追いつけるように頑張っていきたいと思います。宜しくお願い致します。

 

 

 

 

簡易に積み重ねられるゲームの経験とプレイヤーの本気がリアルに勝る瞬間を目撃する<グランツーリスモ/感想>

 映画『グランツーリスモ』が最高だった。この文章を次の映画の観賞までの時間を使って、映画館で書いています。この熱量が失われる前に書き残しておきたいと思います。

 

モリオ on X: "『グランツーリスモ』観賞 ゲームで感じた感覚。ゲームで積み重ねた経験・知識。それらをリアルのレースと結びつける主人公のドライビングが、プロの世界にブチかましていく。その物語に興奮と感動が止まらない。 最高。最高。最高。 #グランツーリスモ https://t.co/Ig7xX1q3kK" / X

 

モリオ on X: "ゲーム・シミュレーターなどの擬似的な環境で得たものが、本物で得た経験と合わさることでドライビングを更なるレベルへ飛躍させていくのが、物語を擬似的に体験する映画との相性が良過ぎる。 映画館で観るべき最高の映画。 #グランツーリスモ" / X

 

 この作品は「『グランツーリスモ』というゲームをずっとプレイしてきた主人公が、本物のレースに挑戦する。」というのが、あらすじです。その中で、ことあるごとに「所詮ゲーム」といった趣旨の言葉、もしくはそうした意識を含有した言動を主人公は突きつけられます。

 

そうした「ゲームはリアルに敵わない」という意識から、「ゲームだからこそ」と思わされる描写の一つ一つ、主人公の言動・物語に心底興奮させられました。

 

ゲームは失敗しても直ぐにリトライできる。その一回一回のトライが簡易だからこそ、一回のミスが命取りになるリアルのレースでは敬遠される。

 

しかし、本作では、トライが簡易だから、簡易だからこそ、リアルでは不可能なほどのトライを重ねられる。そして、そこにプレイヤーのゲームをリアルを感じるほどの本気が加われば、その重ねられたトライは、ドライバーにとって、リアルにも勝る経験になる。

 

そうしたロジックから繰り出される終盤のレースシーン、車のパーツがバラバラに分解していく描写からドライバーである主人公の根っこにあるのはゲームで積み重ねたプレイヤーとしての経験だと感じさせるところからゴールまでのシーンは本当に痛快でした。

 

そこまでの登場人物たちのやりとりも、このカタルシスに大きく寄与していて素晴らしかった。主人公のヤンとチーフ・エンジニアで元プロドライバーでもあるジャックとの「ゲームで感じていた車との感覚はリアルにも通じる」ことが分かるやりとりにはグッとさせられました。こうした描かれる気付きが、主人公たちの互いの信頼関係とゲームもリアルに勝ることへの説得力が築いていて、勝利へのロジックに心底興奮させられていました。最高。

 

 

 

 驚くほどの興奮、驚くほどの感動。全力のプレイヤーと完璧な擬似体験が合わさった時のカタルシスが素晴らしい一作でした。

 

火傷しそうな夏に観る運命の炎はアツかった<キングダム 運命の炎/感想>

 灼熱の炎天下で、十分過ぎるほどに身体が熱せられている中、『キングダム 運命の炎』を観てきました。体温的には氷を所望なのですが、心情的には炎を所望させる実写版『キングダム』シリーズの最新作です。むせてしまうような煙たくて泥臭い環境、その中で全力で駆け、飛び、剣を振るう主人公・信をはじめとする登場人物たちのアクションは、炎こそがピッタリの熱さがあります。2019年に一作目『キングダム』、2022年に二作目『キングダム2 遥かなる大地へ』が公開されたシリーズの三作目となるのが本作であり、期待値の高い作品です。

 

まずは一作目と二作目(前作)について話しておこうと思います。一作目は同名の漫画を原作とした作品であることを実感させる人間離れした動きに見応えがある一方で、合間に挟まれるドラマパートの描写には、どうしても没入を削がれてしまう。それが非常に惜しい一作でした。特に終盤で主人公の信とラスボスの左慈(さじ)との間で行われる夢についての問答は、盛り上がりを削がれた描写としてで象徴的でした。夢への想いを力強く叫ぶこと以外(主に戦闘)の手を止めてしまう演出は、親玉である成蟜(せいきょう)の討ち取りを一分一秒でも早く成し遂げてくれることを信じて耐え凌いでいる仲間たちの切迫度合いからは、著しく乖離して見えてしまいました。

 

信の思いが理解できないわけではない。同じ志を胸に鍛錬を積んでいた漂(ひょう)が、共に肩を並べてスタート地点に立つことすら叶わず命を落としてしまった。彼の分まで夢を叶えるために戦う信の思いが十分伝わってくる。「夢があるから、」と想いを吐露する場面も、二作目における羌瘣(きょうかい)への説得に通じるものあり、芯の通った信念を感じる事ができる。(信だけに)

 

しかし、そうした想いを声にして発することによって生まれてしまう展開の停滞は、「それどころではない」というツッコミの隙を生んでしまい、そうしたツッコミと彼の本気度の間に矛盾を感じてしまう。間を沢山使い感情を表現する描写・演出は、「感情を吐き出す」こと以外の情報・状況に対して一気に無頓着になっているように見えてしまう事によって、作品への没入を削いでしまっている。

 

直前まで、「耐え凌げば俺たちの勝ちだ!」と鼓舞する嬴政(えいせい)をはじめ、命を削る覚悟で時間を稼いでいる者たちの姿を直前に観ている状態では、夢についての問答にもどかしさも感じてしまい、「せめて戦いながらで!」と思わずにはいられない。

 

そんな惜しさ・もどかしさを感じた一作目に対して二作目は最高でした。一つの国の内戦を描いた一作目とは異なり、他国との戦争、つまり本格的な合戦が描かれた二作目は、信にとって本当のスタートです。最初の突撃開始時の信が先陣を切って走っていくシーンは、信という一人(漂と合わせて二人)の夢が、戦場という舞台で一気に大きくなっていくのを見事に表現しています。

 

遠のいていく仲間の兵士、壁のように待ち構える敵の兵士。スケールがどんどん広がっていく映像が、舞台の壮大さと同時に信の持つ夢の壮大さを形にしていく。

 

圧倒な映像表現に対する興奮と物語に対する感動が見事に連動したシーンは、本作のハイライトであり、以降の没入感を強固なものにしていました。

 

そうした中でも、二作目で初登場する羌瘣(きょうかい)周辺の描写に象徴されるように、一作目にあった問題点は解消されているとは言い難い。一分一秒の間に情勢が大きく変化し、一秒一瞬の間に沢山の命のやり取りが行われている中で、「逃げろ」「生きろ」の押し問答が倒れ込んだ状態で行われる。物語の動線、感情の動線は理解し共感できるから「お前はまだ生きてるじゃないか!」という羌瘣の思いそのものには感動する。しかし、画面の奥で剣を持って戦っている兵士が今にでもこっちに向かってきてもおかしくない状況下では、「気持ちは分かるけど、5秒後に死ぬぞ!」と心の中で叫ばずにはいられない。

 

しかし、物語を最も引っ張る存在である主人公の信が戦争へ臨む動機・内面の描写は、基本的に一作目で終えているため、アクションとのバッティングが軽減されている。

 

また、信が突撃直前に構えた時に票が構えるカットを差し込む演出は、信と票のドラマが感じられるシーンであり、画でも十二分に伝わることができると確信が持てるものでした。(だからこそ、アクション等の流れを止めて登場人物に叫ばせることを優先した演出が、気になってしまうのだけれど)

 

頭の中で、アクションシーンに沸き立つ自分と、差し込まれる感情の演出が気になって仕方ない自分による押し問答が、自分にとっての映画『キングダム』シリーズの評価の土台となっています。二作目の時点では前者が優勢、本格的な合戦へのスケールアップに相応しい合成技術とアクションにより、前者が強くなる一方で、アクションと内面の描写とのバッティングの減少などにより、後者は弱くなっています。

 

敵陣に切り込んでいく信たちの綱渡りのような物語とともに、作劇に対してもスリリングを感じている本シリーズの最新作は、果たしてどう映るのか。

 

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映画『キングダム 運命の炎』予告②【2023年7月28日(金)公開】 - YouTubeより

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。) 

 

 

 

 

アクションで生まれる情動に振り切る構成

 面白かった。とても良かったです。次回予告があると身構えてなくて驚いた前作とは異なり、絶対、次回予告あるだろうと身構えさせる幕引きだったのに、次回予告がなくて驚いた本作。序盤のナレーションで一気に済まされてしまった信の修行編とか、なんだか非常に見応えのありそうなエピソードをすっ飛ばされてしまったかのような気もする本作。それでも、とても良かったです。各登場人物のドラマがアクションに集約されていくような作劇がとても魅力的であった作品でした。

 

前作の気になる部分を殆どそのまま引き継いだ点も、気になる部分に勝るスペクタクルが提供されていた点も、二作目と共通していました。本シリーズの魅力としては、やはりアクションシーンが挙げられるところですが、特に本作では飛信隊という名前の隊を率いて戦うことになる信のアクションを筆頭に、アクションそのものが、ドラマを物語る要素になっていました。回を重ねるごとに登場人物たちへの思い入れも登場人物同士の繋がりも強くなるに伴って、アクションから生まれる情動も強くなる。

 

アクションの停滞を生んでいた過去の回想やそれに伴う台詞による感情の発露も、本作では殆どありませんでした。それも、二作目における信と同様で、飛信隊の面々、特に羌瘣はアクションに専念していたおかげで、そのポテンシャルを最大限発揮していました。作戦は、先頭を走る信を鏃に見立て、隊全体が矢の如く一直線になって突っ込むというものなので、止まったら死ぬというシチュエーションになっています。結果としてアクション中の停滞が生まれいくい状態になっていました。加えて、羌瘣は信と連携技を繰り出すなど、単騎では成せない作戦と技が、アクションのみで飛信隊のドラマを作り出していました。

 

アクション中の台詞の介在を極力排しながら、既に築き上げられた登場人物間の絆をアクションそのものから感じさせる。そして、それを主人公の信が牽引しているのを飛信隊の作戦が具現化していき、最後の一手へ繋がっていく。本作の強みを最大限濃縮したかのような作劇に、後半は興奮させられっぱなしでした。

 

 

 

アクションと分離する嬴政の過去

 本作では、嬴政の過去が描かれるのですが、印象的だったのが、その描写は作品の前半に収まっており、合戦が始まってからは触れられなかったことです。嬴政が中華統一を目指す動機と思いの強さ、これまでの嬴政の言動を感じさせる重要な要素であり、今後の展開を牽引する要素にもなり得ると思われます。一作目・二作目の傾向であれば、こういった描写は、合間合間に挟まれていくのかと思っていたのですが、前半で最初から最後まで一気に描かれていきました。前半の過去編と後半の合戦を織り交ぜて描くことで一つの作品としての強度を高めるよりは、明確に分けて描くことで各パート単位での色を明瞭にする。そうしてアクションの流れを途絶えさせなかったことが、アクションに専念できた要因だったと思います。

 

そうした過去の描写・ドラマが後半の怒涛のアクションと分離したことは良かったと思うと同時に、本作において、嬴政の過去の描写が、王騎将軍に参戦の決心をさせた以上の作品における意味を見出せなかった点が気になってくる。原作があることを踏まえると、嬴政の過去の描写は、今後活きてくるのだろうと思われますが、映画である以上は本作全体に渡り意味を見出せる作劇であって欲しいという思いもある。一方で、こうした作劇が生まれるのも、原作漫画がある作品ならではだ、とも思える。こうして好意的に受け取ろうと思えるほどの魅力があることは間違いありません。

 

 

 

アクション大作への道

 個々のアクションにより作り出していたカタルシスが、群のアクションのカタルシスへ見事に昇華していたと言える本作。終盤の圧倒的強キャラ感に満ちた新しい敵の登場による「次回へ続く」といった感じの幕引き、ナンバリングが無くなったこと、顔出し程度の新しい登場人物など、一本の映画としての完成度を高めるというよりは、どちらかというと大河的な、連続ドラマのような構成にシフトしてきた『キングダム』シリーズ。その是非は次作次第かと思いますが、合戦スペクタクルとアクションで魅せることでは、現在の邦画では随一シリーズと言えるので、この調子でアクション大作の道を極めて欲しいと個人的には思う次第です。そうした今後への期待が高まる一作でした。

 

今だけ最新作のパート1にどっぷりと浸りたい<スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース/感想>

 マルチバースという概念が定着して久しい昨今、2019年に公開された『スパイダーマン:イントゥ・ザ・スパイダーバース』の続編である『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』が公開されました。異なる世界観のスパイダーマンが一堂に会した一作目は、共通点のある物語・登場人物を一つの作品の中に共存させながら、一人のスパイダーマンの誕生譚を描いており、ミクロとマクロを両立した素晴らしい作品でした。観客が認識している「スパイダーマンといえば」を、スパイダーマン同士の間に生まれる共感という形に落とし込むことで、スパイダーマンという(敢えて言うと)非現実的な存在を、普遍的なもののように感じさせていました。スパイダーマンという作品・コンテンツ・アイコンの積み重ねを最大限に生かした快作であり傑作でした。

 

2002〜2007年にはトビー・マグワイアスパイダーマンを演じる『スパイダーマン』三部作、2012・2014年にはアンドリュー・ガーフィールドスパイダーマンを演じる『アメイジングスパイダーマン』二部作、2017年からはトム・ホランドが演じるマーベル・シネマティック・ユニバース版『スパイダーマン』三部作+αが公開されています。「自分にとっての〇〇」が定着してるのに間を置かずに物語がリセットされること、何より別の人が同名のキャラクターを演じることに、初めは抵抗感がありました。『スパイダーマン』三部作に続く三部作(4〜6)が一度は計画されていながら中止となりました。『アメイジングスパイダーマン』二部作は、壮絶な戦いを予感させるクリフハンガーを仕掛けていながら続編は制作されないまま。マーベル・シネマティック・ユニバース版『スパイダーマン』も、いつ終了の報が届いても不思議ではない危うい状況下で展開されています。新たなスパイダーマンの誕生に、しこりを感じさせてしまう幕切れ・引き継ぎは、いずれも円満だったとは言い難かった。

 

そうしたモヤモヤを感じていた『スパイダーマン』シリーズ。一つの作品の中で「スパイダーマン」の名を持つキャラクターが沢山登場する今回の『スパイダーバース』シリーズは、映画のみでしか『スパイダーマン』に触れたことのなかった自分にとっては、一種の開き直りのようにも映るような、映らないような…

 

しかし、これまでの仕切り直しが繰り返されたおかげか、スパイダーマンのイメージが固定されていません。原作では珍しくないであろう数多のスパイダーマンの誕生を図らずも追体験できたおかげで、前作『スパイダーマン:イントゥ・ザ・スパイダーバース』を楽しむことができたのだと思います。あの仕切り直し・リセットがあったからこそ、と思わせてくれて、『スパイダーマン』に感じていたしこりを魅力に昇華してくれました。様々な在り方のスパイダーマンから共通項を感じ取り、差異を楽しむと同時に、新しいスパイダーマンの誕生を見守る。これまでの歩みを全肯定させてくれる『スパイダーマン』でした。

 

そしてなんと言っても本シリーズの魅力は規格外のアニメーションです。まるでコミックの絵が動いてるかのようなルック、それも画風・リアリティライン・ジャンルが異なるキャラクターたちが一つの空間・画面に収まっている。さっきまで鞄やケースに服や本を必死に詰め込んでいたスパイダーマンのすぐ横に、何処からともなくハンマーを取り出すスパイダーマンがいる。それが一つの映像として成立する奇跡、その奇跡が作り出すスパイダーマン同士の共演。二次元と三次元の垣根も越えるアニメーションは現代の黒船来航とも言える衝撃で、3DCGで手描きの質感を再現できるか否か、というレベルを超えている。『スパイダーマン』の共演だけではなく、それを成立させているアニメーションそのものが見どころです。

 

そんな最高にクールな映画の続編がついに公開、しかも二部作。あの続きを、彼らのその後を、見ることができる。いやしかし、あれ以上の進化を望めるのか?自分は果たして満足できるのか?「一作目の方が良かったな」なんて思ってしまないか?

 

という期待9不安1の状態で、劇場に行ってまいりました。

 

Spider-Man: Across the Spider-Verse: The Art of the Movie

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。) 

 

 

 

 

 一作目のポイントは、スパイダーマン同士の「共感」にあったと思います。彼らがスパイダーマンになった経緯、スパイダーマンになってからの経験。「世界でたった一人のスパイダーマン」だった彼らにとって、叶うことのなかった秘め事の共有。同じ経験をして、同じく乗り越えた人の存在を知ることができたのは、彼らにとって救いだった。孤独感とそれ故の幸福感。「良かった、一人じゃないって分かって」というペニー・パーカーの台詞はスパイダーマンだからこそ、『スパイダーバース』だからこその情動に満ちていました。

 

そして二作目である本作ではどうだったのかと言うと、救いだったはずの「共感」が転じて「運命」として襲いかかってくるという物語になっていました。

 

一時的な共演だからこそ気付くことのなかった、もしくはスルーできた「同じ経験をした、ではなく、同じ経験をすることになるとしたら?」という問いかけをすることは、続編において必然のようにも思えるし、それを描いていることに非常に好感を持てました。(スパイダーマンたちからすれば迷惑な話ですが)

 

本作では、スパイダーマンたちに共通する経験を「カノンイベント」と定義しており、運命という概念は世界を維持する為に重要な要素として捉えられています。そしてスパイダーマンたちがそのカノンイベント=運命を経ることが、世界の維持に繋がると説明されます。

 

主人公マイルス・モラレスは、多数を救う結果に繋がることを理由に、父親の死ぬ未来・運命を受け入れるよう迫られます。スパイダーマンたちがマイルスを説得しようとするこのシーンは、「みんな経験してきた」という励ましだったはず言葉が彼らを縛りつける言葉に転換されていくものでした。しかし、「こうしたスパイダーマンの運命を作ってしまった一因は、観客である自分にもあるのではないか?」という疑問が湧いてくる。スパイダーマンの力を手に入れ、大事な人の死を経て、人々を助ける。そんな「親愛なる隣人」の物語を手を替え品を替え繰り返し作られた、自分はそれを観て(読んで)楽しんできました。「カノンイベントを回避し続ければ、世界が崩壊する」趣旨のミゲルの説明は、逆を言えば、作り手と観客が繰り返してきたことで数多くのスパイダーマンの物語が存在するのだし、同時に彼らを運命(物語)を縛り付けている。だからこそ、パンクの「資本主義の象徴」という台詞は心にブッ刺さる。流石パンク、画面を飛び越えて観客に届く台詞を言ってくれる。

 

ミゲルやパンクの台詞を踏まえると、「大切な人を救うな」とマイルスを説得するスパイダーマンたちの構図に観客である自分が完全に無関係とは思えない、メタ的には寧ろ、スパイダーマンたちに「そうさせている」真の黒幕とも言える。そう考えると、他のスパイダーマンたちを単に「マイルスにとっての障害」と見なすことができない。

 

「楽しいスパイダーマン作品が観たい。でも彼らには幸せになって欲しい」というスパイダーマンたちからしたら矛盾した我々の願いが観客という立場を喪失させ、どうすれば良いのか分からなくなっていく。救いであるとも言えたマルチバースの世界観に、不幸になることが正しい道筋のように語られることへの疑念が渦巻いていく。

 

だからこそ、そうした中でマイルスが提示する答えは、観客を導く指標として輝き、彼の放つ電撃・アクションが痛快なものに感じられる。「親愛なる隣人」スパイダーマンとしての最初の原動力として物凄く真っ当で「そうでなくちゃ!」と思わされる。

 

しかし、そんな中で、マイルスを噛んだ蜘蛛が別の次元の蜘蛛であった事実が明かされる。マイルスがスパイダーマンになったことそのものが、マルチバースを不安定にする原因の一つであった。それは、マイルスは自分の世界にいようがいまいが、スパイダーマンになった時点でイレギュラーな存在であり、マルチバースとは切っても切り離せないということを意味する。

 

目の前の人を助ける、というシンプルだったはずの話が複雑になる中で、更に、マイルスがスパイダーマンになった代わりに「スパイダーマンが誕生しなかった世界」と、そこに生きる別のマイルスも登場します。人助けを以て、スパイダーマンになる運命を受け入れてきたところに、「スパイダーマンになったことによって、救えなくなってしまった世界が有ったとしたら?」という問いが投げかけられる。

 

そうした混乱の中で本作の幕は降りるのですが、正直、スッキリするかと言われれば、諸手を上げてYesと言うことはできない。マルチバースの行く末、メインの敵であるスポットの阻止(と言いつつ、ここでようやく名前が出てくる程度の存在感。そりゃあスポットも怒る訳だ)、マイルスの父親は死んでしまうのか(いや流石にそれは無い…はず)など、あらゆる問題が解決されていない。

 

しかし本作は素晴らしかった。それはスパイダーマンとしての原動力を、マイルスは勿論、登場するスパイダーマンたちが示していたからです。

「場所は分からない、でも探し方なら分かる」「これだけは分かる、友達を失いたくない」

これらの台詞に象徴されるように、答えは分からないけど、何を指針に動くべきなのかを本作では示している。

 

スパイダーマンの「親愛なる隣人」という呼び名は、手が届く範囲で人々を助けるスパイダーマンのヒーローとしての在り方・精神性を表しています。手が届く範囲でという一方で、糸によってその範囲を極限まで拡張していく。糸が建物に届くことで街を自由自在に移動することができるし、糸が人々に届くことで助けることができる。スパイダーマンの糸は、スパイダーマンの手でもあります。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

しかし糸で手の届く範囲を広げることはできても、全てに届くわけではありません。なんでもできるようで、なんでもはできない。物理的な限界を可視化されるから、それを変えようとする姿に共感する。だからこそ、届いた時の嬉しさ、届かなかった時の悲しさを感じる。

 

本作では、グウェンが伸ばした糸をマイルスが切って逃げていくシーンが印象的です。糸を伸ばしたグウェンはマイルスには行ってほしくないように手を伸ばしているように見えるし、糸を切るマイルスはそれを拒絶して手で振り払っているように見える。そうしたキャラクター同士の関係性を感じられる。

 

そうした糸の飛ばし合いから生まれるスパイダーマンたちの思いの交錯。そこから浮き彫りになる彼らの葛藤。それらが、スパイダーマンたちの指針を雄弁に語っている。

 

そうした葛藤ひいてはスパイダーマンとしての原動力を感じさせる存在として、前作以上の存在感を放っていたのがグウェン・ステイシーでした。彼女の親友を殺したと勘違いしている父親と関係が拗れてしまい、一度は自分の世界・父親の元を去り、逃げ込むようにスパイダーソサイエティへ参加するグウェン。マイルスの味方になる、でもスパイダーソサイエティに居続けるために積極的にマイルスの手助けができない。そうした葛藤の中で、結局は自分の世界へ帰されてしまう。しかし、マイルスとの再会の中で勇気をもらい、父親と話し合ったことで父親の思いを知り、「友達を失いたくない」という自分の思いも明確になる。そうして彼女が仲間を集いマイルスを助けに向かうシーンで本作の幕を引きます。

 

本作における事態解決には至らない幕引きであっても、これほどの満足感に満たされながら劇場を後にできました。それは『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に近いものを感じる。鬼殺隊における継承する者・される者たちの在り方を鬼の断絶した在り方と対比することで、主人公たち人間が何を以て鬼を倒すのかを明確に描いています。物語の結末までたどり着いたと錯覚するほどの明確なそれは、物語がここで終わりでも良いと思わず考えてしまうほどの満足感を与えてくれました。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

これほど明確なクリフハンガーを設けている以上、本作が「これで終わりでも良い」とまでは流石に言えませんが、本作で完結しないことへの不満を感じさせず、次作への期待を膨らませるものでした。

 

前作では先輩ヒーローという立ち位置の側面が強かったグウェンが本作では、彼女自身の悩みや葛藤が物語の動向にダイレクトに繋がっていく作劇はとても良かった。本作で主となるマイルスは混乱の渦に巻き込まれていくからこそ、もう一人の主人公と言っても過言ではないグウェンの存在は大きかった。

 

本作では父親になったピーター・B・パーカーもまた、マイルスとの出会いをきっかけに前に進めた一人。本作の子育て中・親バカ全開の言動とビジュアルは、一見コメディリリーフに全振りのように思ってしまうが、「お前に会えたから!」と振り絞るように発せられるピーターの叫びは、「今はそれどころではない!」という思考で頭が一杯になったところに、不意にブッ刺さしてくる。子供であるマイルスに出会い、子供との交流を体験したからこそ、親になる決意ができた。ピーターにとって、子供が産まれた今の幸せがあるのは、マイルスがスパイダーマンになったおかげなのだ。

 

本作で初登場のスパイダーマンに焦点を当てよう。2099(彼の場合は正確には違いますが)、パンク、ジェシカ・アンドリュー、みんな良かったけど、中でも一番グッときたのは、スパイダーバイトことマーゴ・ケスです。

 

マイルスがゴー・ホーム・マシーンで元の世界に帰ろうとするシーンで、マイルスとマーゴの目線が合うカットには、物凄く情動の嵐が吹き荒れていました。劇伴は激しく劇的である一方で、2人の各カットは物凄く静的。マイルスが眼だけで何を訴えていて、マーゴは何を感じていたのか。手に取るように分かるこのシーンでは、スパイダー「バース」だからこその共感が炸裂しまくっており、とても良かった。

 

マルチバースで別の世界に繋がることができたから、つまりはマイルスがスパイダーマンになったからこそ、救われた・前に進むことができた存在であるグウェンたちが、チームを組みマイルスを助けに向かうラストは、混迷を極める中でも、確かな一歩を強く感じることができた。

 

「親愛なる隣人」という言葉は、スパイダーマンと市民との繋がりを象徴する言葉であるが、『スパイダーバース』においては、スパイダーマン同士の繋がりを象徴している。マイルスにとっての親愛なら隣人たち助けにいく瞬間は、ラストを飾るのに相応しい幕引きと次作へ向けたスタートを見事に両立しており気分は最高潮の状態で次作のタイトルを目にすることができる。

 

 

 

 舞台を拡張しながらも、芯の部分の魅力を損なわず拡張した部分と密接に連動している。そして「楽しいスパイダーマン作品が観たい。でも、観客の都合を超越(ビヨンド)した結末へ辿り着いて欲しい」という矛盾した観客の願いを叶えてくれるのではないかと感じさせれる。スパイダーマンの良さを存分に味わえたと思えると同時に、控えている次作への期待が膨らむ一作でした。

 

次回が早く観たいと思いつつ、今は最新作と呼べる期間が定められた本作の魅力にどっぷりと浸りたいと思います。

 

変身とは、何だ。リアリティとは、何だ。<仮面ライダー BLACK SUN/感想>

 大人向けの特撮作品。一般向けの特撮作品。夢想することは数多くあれど、実際に目にする機会は十年以上前は稀少でした。しかし、近年はその機会に恵まれており、「自分にとって当たり外れ」なんて考えられる余地がある、本当に有難い状況が生まれています。そうした中で発表された作品が、『仮面ライダーBLACK SUN』です。

 

仮面ライダーBLACK』のリメイク作品であり、大人向けに製作された特撮作品。監督を担当されるのは白石和彌さん。警察とヤクザの間で維持してきたバランスが音を立てて崩れていく時の無力感と無情感が印象的だった『孤狼の血』及び『孤狼の血 LEVEL2』を監督された方です。コンセプトビジュアルを担当されるのは樋口真嗣さん。『ウルトラマンパワード』や平成ガメラ3部作などの特撮作品はもちろん、実写版の『進撃の巨人』や『シン・ウルトラマン』などを製作されています。一般向け・大人向けに製作される特撮作品としては、新しい風と安定感の両方を感じさせる座組みで、それがどう転ぶのかは未知数です。

 

そして、最も驚きと歓迎の共振が大きかったのが、特撮監督を担当される田口清隆さん。『ウルトラマンX(エックス)』と『ウルトラマンオーブ』、『ウルトラマンZ(ゼット)』のメイン監督を担当された方です。空想が地に足をつけているかのような、現実と地続きに思える設定や描写が魅力的です。例えば、『ウルトラマンX(エックス)』の第一話では、ウルトラマンXがザナディウム光線を放つ時、その反動で踏ん張ることで地面がえぐれていく描写がありました。我々が普段歩いている道路を介してウルトラマンの重さ、光線の威力を実感する。その表現力に以上に、その着眼点に感激しました。子供の頃とは違う視点で、再び『ウルトラマン』シリーズを見始めたきっかけとなる映像でした。劇中で起こることを「どうやって」表現するのかよりも、「何を」表現するか。映像表現としての特撮の魅力を教えてくれたと言っても過言ではない存在です。

 

空想の存在である仮面ライダーを如何にして本物に見せることができるのか。怪人がいる世界、変身する人間、それらを一般向けにも通用する表現で魅せることができるのか。そうした期待と不安を胸に、全10話のドラマ『仮面ライダーBLACK SUN』を完走しました。

 

Did you see the sunrise?

 

 

 (以下、ドラマ本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 仮面ライダーや怪人を表現している着ぐるみや3DCGが精巧にできていて生々しさを感じさせる。しかし、本物に見えなかった、というのが正直な感想です。では、何が足りないと感じてしまい本物に見えなかったのか。それは、物理的整合が取れていないことだったのではないかと思います。それが気になってしまったから、人が人ならざるものへ変わっていく中で、仮面ライダーや怪人「元は人だった。」だという実感を得られなかった。

 

仮面ライダーを演じた西島秀俊さんと中村倫也さんの迫真の演技による「変身」ポーズと轟く掛け声。変身時に登場人物を包み込むエフェクト。変身後の仮面ライダーの肉体を表現する着ぐるみ。数々の高いクオリティの要素は目を見張るものでしたが、変身前と変身後が同じものだと認識できない。

 

仮面ライダーや怪人は、人の身体が変化したものであり、主人公の南光太郎仮面ライダーブラックサンであるように、姿形は違えど人の身体と同じまたは延長にある存在です。しかし、そう感じられなかったのは、変身前と後を繋ぐ「=」および「⇄」の描写が不明瞭にだったことが原因だと思います。

 

人から怪人(仮面ライダー)へ、または怪人(仮面ライダー)から人に変身が直接的には描写されない。例えば、主人公の二人が仮面ライダーへ変身の構えをするときの変身ベルトの出現の仕方ですが、一体どうやって出てきたのか?体内から出てきたのだとしたら、身体はともかく、服はどうやって透過したのか?身体に巻き付いたベルトよりも外側にある上着は、変身した後はどうなったのか?仮面ライダーになっている時は、皮膚と同化しているのか?人に戻った後、戦闘で体は傷ついているのに服は特に破れている様子は無いのはどうして?変身は、厳密には身体が変化したものではなく、あくまで身体の上に装甲をまとっていて、服装は装甲の内側に収まっている?そうだとしたら、やはりベルトの外側にあった上着は………

 

こうした変身前後の物理的な整合を視聴者の想像に委ねる描写もしくは「そういうもの」として割り切った描写は、本作に限った話ではなく多くの特撮作品にも言えることです。

 

肉体変化しているだけなのに着ていた服はどこに消えたのか、嵩張る変身アイテムを普段どこに仕舞っているのか、というような疑問は「そういうもの」として定着しており特に言及されたり議論されたりすることはありません。

 

だからこそ、本作のように大人向けとして制作された作品にこそ、特撮作品が内包し許容されてきた「そういうもの」を見直し普段観ていない人にも通用する描写に落とし込んでこそ、大人に向けた作品たりえるのではないかと(普段から特撮作品を観ている大人向け、という意味だった可能性がありますが…)。しかし本作は、そうではなかった。であるならば、「そういうもの」に則った作品だと頭を切り替えて観ようと思っても、社会問題を感じさせる作劇に引っ張られてしまうから、スタンスが定めきれない。

 

特撮監督である田口清隆さんの参加が発表された時、自分が期待したことの一つが、「そういうもの」へのエクスキューズでした。監督を担当された『ウルトラマン』作品を観賞して感じた魅力の一つは、現実(人)と空想(ヒーロー)の間を埋めてくれるような細かい描写・設定の積み重ねです。例えば、変身シーンで変身者の服装が場面を問わず統一されてしまうことに対して、専用の服装を用意したり、初変身時の服装(装備)に変わってることに変身者自身が驚く描写を入れることで、観る側の違和感を生じさせませんでした。

 

ウルトラマンという空想と私たち人間の間に物理的な整合を取るロジックを取っていることが素晴らしかった。そうした田口清隆さんが担当する作品に感じていた美点が、本作からは感じられませんでした。

 

変身ベルトだけではなく、身体の変化でもそうした不明瞭さが気になってしまう。身体が煙に包まれたかと思えば、気が付けば既に変化が終わっている。大きな目、突き出した嘴、生えた脚、それらの人間から乖離した怪人の身体が人の身体が変化したものに見えない。演じている俳優と着ぐるみと着たスーツアクターが入れ替わっていると感じてしまう描写は、結果として、本当に存在しているようには見えず、人間がスーツを着ている・被っているようにしか見えませんでした。仮面ライダーを始め、沢山の怪人が登場し、そのどれもが造形されたスーツを着ることによって表現されていますが、目や口、耳、手、足、それらが同じ生物には見えませんでした。

 

 

 

 では、自分にとって理想的な変身は何なのか。3つ例示しておきたい。まず1つ目はマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)に登場するヒーローのアイアンマンです。パワードスーツを身に付けて戦うヒーローなのですが、スーツの内側のインナーや靴はどうなっているのか、そうした点を意識した装着などの描写とスーツの発展が、アイアンマンというヒーローのリアリティを格段に高めています。発展途上のスーツは、専用のインナーでなければ着られないものや、出先で装着できるが機能や強度が限定的なものがあり、「何でも有り」と思わせない絶妙なリアリティラインの設定と変化でした。中でも印象的なのがマーク50からマーク85の進化。マーク50では、ナノテクノロジーを用いることで身体に密着できるほどスッキリとした構造を実現した一方、装着するにはタイツのような専用のインナーが必要になってしまう。しかしマーク85では、装着過程の中にパワードスーツの各パーツの稼働を挟むことで、専用のインナーでなくても装着することができるようになりました。新しい技術だけでなくそれまでに培ってきた技術も盛り込むことで、更に汎用性を高めていく(服装を限定しないことが劇中でも役に立っていました。)。そうした装着時の利便性も含めた進化の積み重ねが、パワードスーツによる変身のリアリティを確固たるものにしています。

 

同じくMCUで活躍するソーやドクター・ストレンジなどの他のヒーローの変身と比較すると、相互の説得力と魅力が増します。ソーもドクター・ストレンジも、変身する時は一瞬であり、着ている服がどうなったとか、どうやって変化しているのかは厳密には描写していない。そういう意味では『仮面ライダーBLACK SUN』の変身と似ていますが、全く気にならないのは、現実から飛躍した能力または世界観だからであり、「自分の想像できない力・仕組みによるもの」と認識しているから。ソーは神様で、ドクター・ストレンジは魔法を使っているから、「想像できない」方が寧ろリアリティを感じる。

 

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では『仮面ライダーBLACK SUN』の変身はどうだったのか。人間が怪人・仮面ライダーに変身することは空想である一方で、見える風景、使う道具、身に付ける服、立っている建物の一つ一つが、本作の世界観が何処までも現実と地続きである印象を受ける。「自分の想像できない力・仕組みによるもの」には見えない怪人の技術・変身は、「想像できる」方がリアリティを感じる。本作において、怪人の技術は人が作り出したものであり、また、それが魔法のように思えるほど技術が発達した世界ではない。である以上、アイアンマンのように、物理的整合による説得力を求めてしまう。変身で、骨格の大きな変化が不明瞭だったり、服が変身の影響を受けないと感じる描写には、そうした説得力を感じられない。

 

 

「作中でできること・できそうなこと」だと感じさせる描写が重要だと思うのですが、2つ目は、まさに、そうした設定・ロジックにより説得力のある変身を観ることができる、『人形の国』です。2017年〜2021年に連載されていた漫画家の弐瓶勉さんによるSF漫画。本作では主人公をはじめとする正規人形と呼ばれるものたちが鎧化(便宜上、以下、変身)するのですが、この変身の特徴は、身に付けている物も含めて変化することです。肉体を始め、身に付けている服、鞄、靴などは、エナと呼ばれる物質にやって形作られています。それは、正規人形が人間に擬態するために行われていることであり、服装は場面に応じて自由に変化させることができます。肉体を変化させるのと同様に服なども変化させることができるため、変身前後の服装の問題はクリアしています。

 

最早、魔法と言っても差し支えないほどに発達した技術と現実離れした遠未来の世界観が、「作中でできること・できそうなこと」を拡張しており、それでいて「骨格(体格)は変化しない」といった、変化の上限を設けています。「何でもできそうだけど、何でもありではない」というバランスが、元々人間だった者たちの変身にリアリティを与えてくれています。

 

人形の国(1) (シリウスコミックス)

 

3つ目は、『ロックマンエグゼ AXESS(アクセス)』です。ゲームソフト『ロックマンエグゼ』を原作とするアニメで、本作では、クロスフュージョン(便宜上、以下、変身)という原作にはない独自の要素が登場するのですが、その変身の描写がとても丁寧。手を包み込む時、服の袖がしっかりと皺ができている。肌との間に隙間ができるくらいにはゆとりを持った普段着の上にタイトな服を身につけていくと、当然

普段着は折れたりする。こうした描写を入れることで、内側はどうなっているのか、変身した時に身体や身につけていたものはどのような状態になっているのかが想像できて、気にならない。

 


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以上の変身に共通していることは、「変化する・しない部分を明確にしていること」と「それに忠実な変身が行われていること」だと思います。変身に用いられる力・技術が、人間由来のものなのか否か。人間由来の技術だとしても、それは果てしないほど未来の発達した技術なのか。そうした脳内Yes/Noチャートを経て確立される作品の技術・世界観に、変身の描写が逸脱していないか。それがリアリティに繋がっていく。

 

仮面ライダー BLACK SUN』の変身は、逸脱していたように感じる。魔法のようなファンタジックな力が用いられた訳でもなければ、飛躍的に発展した技術が確立している訳でもない。そうした中で、骨格レベルで変わる変身にリアリティを感じない。せめて変身の過程を観たいのに、文字通り、けむに巻かれてしまう。それでいて、変身時は服を外骨格が包み込んで守ってくれるから無傷という、肉体変化という生々しい物なのに妙に機械のようなシステマチックな点が、精錬された生物学的な技術というよりは、作劇上の都合として受け取ってしまう。本作における技術・世界観、Yes/Noチャートそのものが不明瞭で、どこまでが出来て、どこからは出来ないのか不明なのが、そうした印象を強くしている。

 

 

 

 勿論、アクションを彩る合成自体は素晴らしかったし、特に主人公の南光太郎=ブラックサンがクモ怪人が戦う第1話の戦闘シーンは身体の大きさが違うもの同士の戦闘をSFXとVFXの組みわせで見事に具現化されていて見応えがありました。

 

しかし本作では、現実の物理法則に縛られる空間に仮面ライダーという空想の存在を立たせるだけの説得力が生み出せていませんでした。人間サイズの重量を持っている筈のスズメ怪人が周りを吹き飛ばすほどの風を出さずに魔法のように垂直に飛んだり、怪人たちの目や口の動きが限定的であるなど、違和感がつきまとってしまい、最後までどう見ても本物に見える状態にはなりませんでした。仮面ライダーの作品で言えば、『仮面ライダーアギト』に登場するG3、近年の作品なら『仮面ライダーゼロワン』のバルカン・バルキリーといった、武装を装着するタイプの変身の方が、現実味を感じられ、説得力がありました。似た意味で、今年公開予定の『シン・仮面ライダー』も、そうした違和感はなく楽しめそうだと思いました。

 


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各場面、部分ごとに観ると見応えがあったり、感動するのですが、それらの要素の接続が弱いため、作品全体で連動はせず『仮面ライダーBLACK SUN』の感動には繋がっていませんでした。怪人はどのような場面で、どのような差別を受けているのか。キングストーンは何が特別なのか。変身ベルトは変身にどのように作用しているのか。仮面ライダーは他の怪人と何が違うのか。それらが不明瞭だから、怪人と人間の駆け引きが各登場人物の心情にどのように影響しているのか分かりにくい。

 

 

 

 そんなふうに接合部分が緩く、全体的にガタガタな状態の中でも(だからこそ、のような気もする)、役者陣の熱演は怪人と人間の不明瞭で複雑に入り組んだ設定・事情を取っ払ってくれるかのような、真に迫ったものを感じた。特に終盤の中村倫也の「あの頃に…」と心情を吐露するシーンには、目頭が熱くなりました。そうした作品の歪さが怪人のように思えて、それはそれで良いなと思ったり(良くない)。

 

作品の在り方として、生々しくも洗礼されたものであって欲しかった。

 

 

 

NOMAN'S LANDに立つガンマンの一発が見逃せない<TRIGUN STAMPEDE トライガン・スタンピード 第一幕/感想>

 2023年1月現在、テレビ東京系列で毎週日曜日23時から放送または配信中のアニメーション作品『TRIGUN STAMPEDE』が最高です。アニメーション制作を担当しているオレンジは、『宝石の国』や『ゴジラS.P(シンギュラ・ポイント)』、『マジェスティックプリンス』、『BEASTARS』などを作ったCGアニメ会社であり、その魅力は何と言っても、手描きらしい表現とCGらしい表現を両立したCGアニメーションです。手描きにしか見えないというルックを目指していると言うよりは、3DCGならではの表現をベースにしながら、手描きのエッセンスを随所に入れていて、「これはCG・手描きっぽい」と感じる部分が明瞭であるのに、違和感なくアニメーションという一つの表現として成立しています。

 

そんなオレンジの新作である『TRIGUN STAMPEDE トライガン・スタンピード』は、これまでと同様に、手描きアニメ・CGアニメのそれぞれの特徴が有りながら、それぞれの表現を横断する気持ち良さを感じます。異なる表現手法・方法が融合している本作について、第一幕が終了した現時点で感じていること・考えていることを以下に書き残しておきたい。

 

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 夕陽をバックに荒地に立つただ1人のガンマンが、銃を掲げて一点を撃ち抜く。流動的でありながら一枚絵(ポーズ・構図)がキマっている映像。その動きを作り出すアニメーション、それを切り取るカメラの構図、その構図になるまでのカメラワーク、映像を構成する全ての要素が、手描きアニメっぽさやCGアニメっぽさを感じさせだかと思えば、実写映像っぽさも感じる。常に新しい視覚的な刺激をもたらす映像が素晴らしい。

 

そんな素晴らしいアニメーションの中で大立ち回りを演じていたのが、本作の主人公であり、「ヒューマノイドタイフーン(人間台風)」の異名で呼ばれているヴァッシュ・ザ・スタンピード。穏やかとは言い難い世界を旅するガンマンでありながら、戦うのは苦手と言いなかなか銃を抜かない平和主義者。そんな彼が見せる明るい笑顔や振る舞い、コミカルなリアクションはとても印象的で、「出来れば争いたくはないんだけど。」といった台詞は彼のそうした印象を強化する。だからこそ、いざという時に見せる流れるようなアクションの格好良さが際立つ。更に、ピンポイントで撃ち抜く活躍が、アクションシーンをピンポイントで差し込む作品の構成そのものに符合することで、作品全体のカタルシスに繋がっていく。

 

第1話 「NOMAN’S LAND」

 

そんなヴァッシュを取り巻く登場人物の存在が、ヴァッシュの存在感と本作の魅力を高めています。「ヒューマノイドタイフーン」を追う新人記者のメリル・ストライフと彼女の先輩記者であるロベルト・デニーロ。彼らの反応の一つ一つが、架空の世界のレギュラーとイレギュラーを教えてくれる。例えば、巨大生物が砂中から飛び出して空中の生物を捕食して再び潜っていく、なんて凄いことが自分たちのすぐ後ろで起こっていても、ロベルトはおろかメリルでさえも全く動じない。劇中で見せる2人のリアクションが、本作の世界観をグッと広くしてくれています。

 

決闘における相手の振る舞いに異を唱えるメリルに対しては、「恵まれた奴の意見」だとロベルトが諭す。新人特有の青臭さを感じさせるお嬢様気質なメリルと、酒を片手に仕事に取り組む達観したロベルト。そうした共通または異なる反応が、一筋縄ではないかない本作の世界の在り方を雄弁に語っており、第一幕では登場していなかったまだ見ぬ舞台への想像も膨らませられます。

 

「光よ、闇を照らせ」

 

「こう在りたい」理想と「こうせざるを得ない」現実を秤にかけた時の傾きが大きく感じられる世界。本作で印象的なのは、ヴァッシュに銃を向けることが本意ではない、戦わずに済むのなら戦わない人たちの姿です。そうした人たちがいるからこそ、人助けをしようとするヴァッシュの存在感が増していく。

 

それと同じく強調されるのが、人の命を奪うことに躊躇いを感じさせないミリオンズ・ナイヴズ。ヴァッシュの双子の兄である彼の存在は、ことの発端と思われる序盤の出来事や生体動力炉プラントに対して意識させ、この状況が単純なものではないと感じさせます。それらを踏まえると、暴力をやんわりと拒絶しながらも人を助けるためなら銃を抜くことを躊躇わないヴァッシュの在り方が、世界の謎・在り方に直結していくのではないかと予感させます。

 

第3話 「光よ、闇を照らせ」

(メインPVの時とは全く違って見える、「あまりにも…あまりにも…!」なカット。本作の複雑さを象徴しています。)

 

それが可視化している本作のビジュアルとアニメーションが、その魅力を加速させていきます。3DCGアニメ特有の長尺のカットによって、ヴァッシュの縦横無尽なアクションはもちろんのこと、ふとした瞬間の表情などが印象に残り、彼の過去や信念が垣間見えてきます。「こう在りたい」理想を許さない世界だからこそ、「こう在ろう」とするガンマンの姿にカタルシスが生まれ、彼が放つ一発の弾丸にこの上ない痛快さを感じます。

 

 

 

 原作の『トライガン』(マキシマムを含め)は、名前は知っていたのですが未読でした。本作を観ようと思ったのはオレンジのアニメーション目当てで、どう言った内容なのかはPVから把握できる情報のみ。殆どまっさらな状態で見始めましたが、第3話まで観終えた今、本作に完璧に魅了されています。NOMAN'S LANDに立つ一人のガンマンの物語がどのような結末を迎えるのか、その物語に二人の記者、そして十字架を背負った関西弁で話す葬儀屋がどう関わっていくのか、興味が尽きません。(あの十字架に!どんなからくりが仕込まれているのか!)

 


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漫画のキャラクターを動かす3DCGアニメーション、その先にある一瞬の脈動に涙する<THE FIRST SLAM DUNK/感想>

 手描きの画の質感を3DCGで表現しているアニメーション作品が好きです。立体的な正確さを担保したことで生まれる臨場感を持ちながら、手書き特有の立体的な嘘を入れた躍動感のある見栄を表現していく。手描きと3DCG、両方の利点を活かしながら、画が動いている快感を追求していく表現は、何処かで観たことがあるようで、今までに観たことのない映像を見せてくれる。そして何より、「手書きの画を素因数分解して3DCGで再構築する」という試みそのものに魅力を感じる。手描きであるが故に起きていた「こうならざるを得ない」要素を3DCGで再現する。3DCGであるが故に起きる「こうならざるを得ない」を生かしつつ、如何に手描きの「こうならざるを得ない」要素に肉薄していくのか。

 

そうした魅力は特撮に近いものを感じます。模型や着ぐるみを使って、街の中に巨大な怪獣や巨人が立っている映像を作り出す。等身大であるが故に生じる「こうならざるを得ない(スケールの違い)」をどう料理して、本物に見せるのか、あるいは「こうならざるを得ない」からこその表現を追求するのか。ゴールをどこに設定し、どうやってアプローチしていくのか、そのルート設定から始まるメイキングを含めて成果物に魅力を感じます。

 

近年、セルルック3DCGという手描きアニメーションを3DCGで表現した作品または、手描きアニメーションと併用した作品が増えてきています。背景は3DCGでキャラクターは手描きの作品もあれば、背景もキャラクターも3DCGの作品もあるように、その配分や作り方は作品や制作会社ごとに異なります。手描きアニメーションが積み上げてきたメソッドやエッセンスを如何にして3DCGに溶かし込むのか、方法自体が画期的な作品もあれば、溶かす精度にも高い作品もある。その幅広さは、観る側を飽きさせない。

 

そんな中、手描きの質感を再現した3DCGアニメの決定版とも言える作品が誕生した。

 

それは、『スパイダーマン:スパイダーバース』です。

 

コミックの質感を3DCGで再現してみせた最高のアニメーションは、「手描きが立体的な映像になったら、こうなるのだろう。」という説得力の塊となっており、2018年の公開時には、その精度の高さに歓喜し、衝撃を受けました。

 

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各社が新たな溶かし方または高い精度の溶かしによる日本のアニメーションの質感を追求してきた中、漫画の質感という、手書きは手書きでも日本のアニメーションとは異なるアプローチで、かつ完成系とも言える精度で突如繰り出してきた『スパイダーバース』の衝撃。きっと黒船来航を実際に目撃した人は、こんな気持ちだったに違いない(多分違う)。

 

3DCGアニメーションの更なる可能性を感じると同時に、セルルック3DCGとは似て非なる新たなるアニメーションへの渇望。『スパイダーバース』以外でも観られることを待ちに待ち続けて、飢えと言っても差し支えないレベルにまで到達する中、出会った作品が、『THR FIRST SLAM DUNK』。公開された特報を観て驚愕しました。

 


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SLAM DUNK』のロゴの向こうに映る登場人物の見た目、動き、映像全体の質感。それらは自分がこれまでに観てきたセルルック3DCGからは乖離しており、カットは短く映像は少ないながらも、引きつけられるには十分過ぎるものでした。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』特報【2022.12.3 公開】 - YouTube より

 

キャラクターの動きを立体的に見せている輪郭線のチラつきや動き、その線と線の間を埋める色の塗り、紙の上に書かれたかのような質感の一つ一つが漫画のページ越し・コマ越しに観ているかのように錯覚させる。デフォルメされた画でありながら、単調でも簡素でもないリッチな映像から伝わってくる圧が半端ない。漫画とアニメ、実写とアニメ、あらゆる垣根を超越した映像が見られることへの期待に満ちていました。

 

漫画『SLAM DUNK』は、子供の頃に、たまたま親が借りていた全巻セットを1度だけ読んだことがあります。世代というには遅かった自分にとっては、優れた作品の再映像化ということ以上に、漫画のアニメーション化への関心・期待が高かったです。

 


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続く予告編。ベールを剥がされ鮮明に見える映像には、生きたキャラクター達が映っている。立体的な正確さからは3DCGアニメのような・実写のような生々しさを感じるのに、どのタイミングで再生を停止しても漫画の一コマに出来そうな映像。眼福と言う他ありませんでした。

 

もう一つ気になった点は、宮城リョータにフォーカスしていたこと。読んだのは一度だけとはいえ、印象的なコマは勿論、大筋やキャラクターについてはある程度覚えていて、主人公が桜木花道である認識はありました。しかし本作では、そうではなく異なる視点から描かれていく可能性がある。その予感は、自分にとって「一つの映画」としての期待値を高める要因になりました。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』予告【2022.12.3 公開】 - YouTube より

 

というのも、長期に渡る連載及び展開がされていた漫画を原作とした場合、ハイコンテクストな作劇になる可能性があります。映画を観賞する上で1から10まで全てを理解する必要はないと思うし、1から10の中で1つでも楽しめる取っ掛かりが掴めるなら、それで充分だと思ってもいます。しかし、そうした作劇は、原作への理解度が低い新参者が楽しむ余地・取っ掛かりを無くしてしまう。

 

フォーカスする人物の変更には、そうした懸念を払拭してくれる可能性を感じます。原作にはなかった新しい視点や展開は、一つの映画で完結する要素になり得るし、宮城リョータのドラマが『SLAM DUNK』の新たな背骨になってくれるかもしれない。映画が好きな身としては「単体でも楽しめる」ということへの重要度は高い。

 

その点で素晴らしかった作品が『GANTZ:O』です。漫画『GANTZ』を原作とした3DCGアニメーション映画で、原作の中盤にあたる大阪編を描きながら、記憶をリセットされる設定などを生かし、物語の始めと終わりを「単体でも楽しめる」形に落とし込んでいました。

 

とてつもない映画になる予感しかない『THE FIRST SLAM DUNK』は、私の心に最高のスラムダンクを決めてくれるのか(何を言ってるんだ…?)。映画館という名のコートに入場してきました。

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 始まりから描かれる宮城リョータと彼の兄であるソータとの別れ、二人を繋げるバスケットボールの存在によって、バスケットボールに向き合うこと、試合で体を全力で動かすことが生きることに直結していると印象付けている。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』公開後PV 30秒 【絶賛上映中】 - YouTube より

 

続くOPでは、鉛筆の線で描かれた白黒のキャラクターたちが動き出す瞬間が描かれていきます。キャラクターを形作る線の濃淡や太さ、影などの黒い部分の塗りのムラ、動きの大小を問わず変わっていく要素が、キャラクターたちに命が吹き込まれているのを感じさせる。アニメーションにおいて、動くことこそがキャラクターにとっての生きる第一歩であると印象付けている。

 

物語とアニメーションを「動く」というキーワードで符合させ、本作において「動く」ことが最上のカタルシスに繋がることを提示してみせる。そんな本作の最高のスタートに興奮が止まりませんでした。初っ端から桜木花道が決めてみせるアリウープを始め、自分の高揚感に答えてくれるかのようなキャラクター=選手たちのプレイが素晴らしかった。

 

 

 

 本作において外せないのが、時間の流れの自然さです。漫画をアニメーション化する上で越える必要のあるハードルの一つは、漫画の中の時間の流れ方をリアルに近い映像作品の時間の流れ方に如何に翻訳できるか、ということだと思います。漫画では流れている時間の中から一瞬を切り取った一つのコマの中に、台詞などの情報が多い場合があります。しかし、その切り取られたコマの直前・直後の動きを描いていないからこそ、読者の中で補完、辻褄を合わせることができ、違和感を生じさせない。しかし、そのことを失念して映像化してしまうと、違和感が噴出してしまう。

 

例えば、昨年放送された『鬼滅の刃 遊郭編』では、終盤で神速で動いている善逸に追いついて話している伊之助という、熱い展開が揺らぎかねない珍妙な映像が繰り出されました。原作は未読であるため、原作ではどのように描写されたのかは不明ですが、神速で流れていく背景の中で宙に浮きながら数秒間話し続ける伊之助の姿には違和感を禁じ得なかった。

 

「漫画をそのままアニメ化してほしい」という意見に対して、自分が同意できない理由はそこにあります。一瞬を切り取る形式で時間の流れ方が独特だからこそ、コマとコマの間にある余白で保管できる漫画という表現を、補完の余地が比較的少なくなる映像表現においては、適切に翻訳する必要があると思うからです。

 

しかし、漫画の印象的なコマを映像でも同じくらい印象に残す、ということも同じくらい重要だと思います。ピンポイントで静止画を用いる作品もありますが、前後の動きが補完されることで、どんな流れの中のあの構図・コマが決まるのかを観られるアニメーションの魅力が楽しめないのは勿体無いように思えます。


本作では、試合の流れが整地されていることで、その上で起こる劇的な動きが必然的に感じられる。そうしたリアルに作り込まれたアクションを、漫画・アニメ的な切り取り方・構図や漫画の質感を再現したアニメーションによって強調していく。そうすることで、流れを止めず、かつ、一瞬の劇的なカットも印象に残る。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』公開後PV 30秒 【絶賛上映中】 - YouTube より

 

時折挟まれるスローモーションも流れを阻害しておらず、寧ろキャラクターの体感時間にリンクしており、キャラクターたちの内面に自然とフォーカスできるようになっています。流れを止めない試合から、キャラクターたちの、特に宮城リョータの回想シーンが展開されていきます。

 

 

 

 本作で描かれる回想シーンは、キャラクターとバスケットボールとの接点の解像度を高めていきます。バスケットボールをすることで兄弟・家族の絆を深めていましたが、兄が亡くなってしまったことで失ったものの象徴になってしまった。更には母親との距離感すら見失ってしまう。しかし、バスケットボールをプレーすることは生き甲斐であり、居なくなってしまった兄との繋がりを保ってくれるものでもあります。だからこそ、兄が付けていたリストバンドを付けて試合に臨むことは、バスケットボールを教えてくれた兄の死を受け止め、それでも・だからこそ、バスケットボールを続けることを決めた宮城リョータの想いを象徴しています。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』予告【2022.12.3 公開】 - YouTube より

 

バスケットボールを全力でプレーすることが、彼にとってどういう意味があるのか、ということへの理解を深めてくれます。試合の中で見せる動きが彼の記憶と結び付いて、一挙手一投足に気持ちが乗ってくる。彼がゾーンプレスを突破した時のカタルシスは、試合の中だけでは生まれることができないほど強大なものでした。

 

試合、バスケットボールの試合、1人による個人プレーではなく5人の選手のチームプレーで構成されるバスケットボールの試合です。宮城リョータから発せられたドラマがボールのパスを介して他のキャラクターへ伝播していく。

 

背番号4番センターの赤木剛憲、通称ダンナ。背番号14番シューティングガード三井寿、通称ミッチー。ダンナは、見た目以上の圧と迫力を感じるダンクを決め、ミッチーは、腕がもう上がらないのに3ポイントシュートを決めまくる。「試合に勝つ」という共通するシンプルな思いが、ドリブルやパスなどのゴールを目指すプレイによって可視化されている。そうすることで、宮城リョータと同じベクトルの熱量を感じ取ることができる。また、宮城リョータの回想にも登場する二人は、過去と試合との結び付きを強固にしています。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』公開後PV 30秒 【絶賛上映中】 - YouTube より

 

その熱量の伝播を促進しているのが、1年組。背番号11番スモールフォワード流川楓。スタンドプレーを可能にするほどのテクニックを持つルカワがパスによる連携をするシーンは、チームプレーの醍醐味を感じさせ、ドラマの伝播を加速させる。ルカワ自身もプレイにおいて、パスという手数が増えたことで、戦術も無限に広がっていく。「そんなタマじゃねぇよな?」「一つ忘れているぜ…」のセリフに象徴されるように、戦術的にも、ドラマ的にもルカワの活躍がチームを刺激していく。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』公開後PV 30秒 【絶賛上映中】 - YouTube より

 

背番号10番パワーフォワード桜木花道(問題児)。バスケットボール素人の我らが天才は、宮城リョータとの回想シーンからは最も遠い存在。しかし、これほど強い存在感を放っているのは、やはり本作において重要な要素である「動く」を最も実践していることに起因していると思われます。「主役は、この天才桜木だ!」と言わんばかりの花道の主張の強さは、主で映っている訳ではないカットでも、端っこにチラッと映り込むほど。その規格外な問題児の活躍は、カート内の熱を外に波及させるだけではなく、画面の向こう側の我々の視野を広げていく。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』CM30秒 試合開始まであと1日【2022.12.3 公開】 - YouTube より

 

そんな花道に訪れるのが、選手生命を脅かす背中の怪我です。「動く」ことに力点を置いてきた本作において、「動く」ことを阻む怪我は最大の障害であると言える。それに対して「俺(の栄光時代)は今なんだよ…!」と花道は言い放ち、コートへ戻っていく。湘北高校はもちろん、対戦相手の山王工業高校を含めた選手たちの思いは、花道と相違ないことを確信させる彼らの表情も相まって、選手の「動く」ことと生きることをより密接にしています。

 

 

 

 そうして選手たちの情動で画面が満たされた末に訪れるラスト20秒。それは、あまりにも劇的で感動的でした。雪崩のように流れ始める時間の中でキャラクター・空間の動きに付与される線は、漫画の画の再現に見えます。キャラクターや読者の視点に動きを与える線であり、静止画の前後をイメージさせるための線。動かすことができない漫画だからこそ必要だった線が土壇場でアニメーションと合わさることで、一連の流れを表現するアニメーションでありながら「一瞬」の表現に変貌する。映画・試合としてクライマックスであり、心身ともに極まっている選手たちの体感を表現するものとして、線が機能している。そしてそれが、最後の無音のスローモーションの静寂と緊張感の表現にも繋がっていく。

 

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映画『THE FIRST SLAM DUNK』予告【2022.12.3 公開】 - YouTube より

 

そして音、山王の逆転のシュートが決まり、心の中で絶叫をアウトプットする暇も余裕もなく「!!!!!!!」と言葉にならない声を頭の中で響かせている内に聞こえてくる、

 

 

 

ド!

 

 

 

ド!!

 

 

 

ド!!!

 

 

 

ド!!!!

 

 

 

ド ! ! ! ! !

 

 

 

自分の心臓の音に錯覚する鈍い音、見えてくる桜木の足。この土壇場でも「動く」ことを止めない天才桜木の姿は「諦めらたら、そこで試合終了ですよ。」という幻聴を呼び起こす。自分の頭の中と映像で起こっていることの区別ができなくなるほどの作品と同期した状態で目に映る光景は、作品が意図して脱色しているのか、自分の意識がそうさせているのか分からない。託されるボール、最後のシュートチャンス、放たれるパス、添える左手。

 

 

 

 

 

行け!

 

 

 

 

 

 

行け!!

 

 

 

 

 

 

行け!!!

 

 

 

 

 

 

行け!!!!

 

 

 

 

 

 

行 け ! ! ! ! !

 

 

 

 

 

 

静寂に包まれる中で頭の中で響く自分の声。ゴールが決まった瞬間の歓喜と脱力。体の中に広がる感覚は、実際に40分の試合を経たかのようでした。

 

 

 

 流れる時間が一瞬に圧縮されたかと思えば、無限にも思える長さに延びていく。自分の体感時間がキャラクター・作品と一致していく体験は唯一無二のものであり、それを作り出す3DCGアニメーションは、漫画と現実を繋ぐ、とてつもないものでした。今回の映画化に当たり、足された物語と同じくらいかそれ以上に削られた物語もあったと思います。しかし、宮城リョータの物語に端を発し、試合中のプレー・チームプレーへ熱が伝播していくことで一つの映画に形作られた本作は素晴らしかった。そして何より、画が「動く」原初的な素晴らしさがビジュアルと物語の両方から伝わってくる、これ以上にない3DCGアニメーション映画を観られたこと、本当に嬉しかったです。