モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

テーマ・物語に沿ったデザインは、個人の嗜好を凌駕する<機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ、楽園追放 -Expelled from Paradise-・所感>

 「不定期」の名をほしいままにする当ブログも、気が付けば前回の更新から1年が経とうとしています。1年間で一度も更新しないのは「不定期」を超えて「終了」という謗りを免れない。そんな現状への焦り、そして毎年のように更新を増やしたいと言ってる自身への不信感を募らせる2025年12月です。

 

そんな中で今年もブログクリーンアップ開催の一報を頂く。募る想いを振り払うかの如く参加を決意し、久しぶりにブログを更新しております。レッツ、ブロクリ!

 

(ブログクリーンアップ21日目の記事です。開催いただきありがとうございます。)

 

とは決めたものの、どの記事を掲載するか。ブログクリーンアップの趣旨は、「書き上げられなかった下書きを完成させること」。つまりはブログクリーンアップの記事で掲載できるのは下書きフォルダ等に記入途中のと言う制約があるということである。しかし、下書きフォルダに記事が溜まりまくっている私にとって、そうした縛りは無いに等しい。可能性は無限大である (1年近く1つも書き上げなかった奴が何か言っている)。

 

賞味期限は過ぎてしまったが消費期限が過ぎるのは避けたい。いや、消費期限が近づいている記事は寧ろ上げるタイミングが丁度の記事なのでは?

 

そう、来年の『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』と『楽園追放 心のレゾナンス』の公開が待っています。

 

機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』は2021年に公開された『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の続編であり、三部作の2作目。アニメーションでありながらまるで洋画実写を観ているような気分になる本作は、唯一無二の魅力を持っています。そのクオリティの高さ故に「早く観たい」という気持ちよりも、「クオリティ優先で、じっくりと作って欲しい」という気持ちが勝る一作。

 

(カメラのアングルやキャラクターの動きなど、アニメという言葉から想像する映像から一線を画すカットに惚れ惚れ)

 

 

そして『楽園追放 心のレゾナンス』は2014年に公開された『楽園追放 -Expelled from Paradise-』の10年ぶりの続編。3DCGでありながら手描きのような質感を有しているアニメーションは、当時台頭してきたセルルック3DCGを牽引していた作品の一つと言っても過言ではありません。

 

実験作としての側面もあった前作から10年。どれほどまでにセルルック3DCGが進化したのかを実感できる一作として楽しみで仕方ありません。

 

(『ガールズバンドクライ』や『スパイダーバース』などのヒット作が登場し手描きライクな3DCGが定着してきた中、どんな進化を遂げているのか楽しみで仕方ない。)

 

という訳で、来年に新作公開が控えている二作品に共通する魅力について書いていこうと思います(この書き出しからして、さては下書きすらなかったなとか言わないでください。頭の中ではずっと考えていたんです。信じてください)。

 


(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 ロボットへのビジュアル・デザインへの好みは千差万別。角ばったラインがいいとか、流線型のラインが好きとか。人型でありながら 手・腕が大きいアンバランスさが好ましい。逆関節のような非人間的なデザインが素晴らしい。と言った具合に。

 

そして、そうしたデザインや機能、装備が劇中でどんな活躍したのかが、各機体への印象に大きく影響を与える。

 

今回お話しする二作品における魅力は、デザインや設定単体ではなく、作品の鑑賞を経た上での話。そのデザインを物語・作品のテーマに則って観た時、考えた時、 作品一番として捉えた時、どのような意味を帯びてくるのか。そうした文脈により生まれる魅力・好きの話をしようと思います。

 

 

 

 『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』に登場する Ξ(クスィー)ガンダムガンダムの名を冠しながら非ガンダムな顔、おおよそ人型としては動きやすいとは言い難い肩・腕・脚。特徴は様々ですが、特筆すべきは胸部。

 

機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ メカニック&ワールド (双葉社MOOK)

 

コックピットハッチとしても機能する胸部は、非ガンダム的な顔に代わるが如くガンダムの顔のようなデザインになっています。黄色いアンテナと赤い二つの突起物は、ガンダムの額と口を連想させる。

 

劇中でも、その連想を観客に惹起させ錯覚させます。そして錯覚したことを前提とした演出が行われています。終盤になって漸く登場するΞガンダムは、暗闇の中で全貌は把握できません。その中で主人公のハサウェイ・ノアΞガンダムに語りかけます。兵器としての側面を押し出した演出がされている本作において印象的なシーンですが、本来であれば顔に向かって語りかけそうなところを胸に向かって語りかけています。

 

そして戦闘シーンに突入し敵機との鍔迫り合いで生じた発光で初めて全貌が明らかになる。その時、顔をすぐに見せるのではなく胸部から頭部の順番で見せていきます。まるで「こっちは顔ではありませんよ」と言っているかのように。

 

f:id:mori2_motoa:20251221223618p:image

- YouTubeより

 

ここで思い出されるのがティザービジュアルのキャッチコピー。「シャアの理想とアムロの情熱 2人の意志を継ぐ者」というハサウェイの在り方を指した内容ですが、Ξガンダムの顔と胸部の錯覚は、それを象徴しています。

 

アムロが乗っていたν(ニュー)ガンダムは胸部にコックピットが設置されています。対してシャアが乗っていたサザビーは頭部にコックピットが設置されています。加えて、ガンダムは劇中でも「白い悪魔」と呼称されていたように敵味方を問わず象徴的なアイコンとして扱われています。

 

そうした中で、ガンダムの顔らしくない頭部と、ガンダムの顔らしい胸部のΞガンダム。それを前に胸部に語りかけるハサウェイの姿は、彼の不安定な内面を象徴しています。

 

地球に惑星を落下させ地球に人が住めないようにしたシャアと、それを防ごうとしたアムロ

※「防ごうとした」という言い方をしているのは因果関係が不明確なためだが、惑星の落下は防がれた。

 

相対していた筈の2人の意思を継ぐという言葉に感じる矛盾は、劇中のハサウェイの振る舞いが裏付けていく。 陽動のために都市ダバオへ攻撃を自らが指示していながら、数多くの死者が出ている戦禍の中心で「ああ、そうだ、本当に酷い…」と呟く。

 

視座を高くし人類のため地球環境のために動く一方で、テロを行い沢山の命を奪っている。 これからテロで殺そうとしている人間の顔を直接見ておこうとする。内面が歪な状態であることは想像に難くないハサウェイ。

(ハサウェイのサインはいつ見てもゾッとします。)

 

そんな彼がガンダムの顔のような見た目の胸部に乗り込む。一方で実際の頭部はガンダムらしくはない見た目。彼はガンダムに乗っているつもりで、その実サザビーに乗っている。アムロの理想を継いでるつもりで、シャアの理想を継いでいる。と捉えることもできる。

 

胸部に顔があるデザインは、個人的に本作のリアリティにそぐわないと感じていたのですが、 彼の内面の解離を表す機体と捉えた時、Ξガンダムのデザインは秀逸だと思いました。

 

 

 

 次は 『楽園追放 -Expelled from Paradise-』に登場するニューアーハンです。本作の主人公アンジェラ・バルザックが搭乗する機体で、ずんぐりむっくりな従来機のアーハンと比較した時、スリムで人型に近いフォルムが特徴的です。

 

GSA 楽園追放 -Expelled from Paradise- ニューアーハン ノンスケール ABS製 塗装済み可動フィギュア

 

物語の終盤、アンジェラは所属していた組織(国、生活圏と言い換えてもいいかもしれない)から離反し、地球から飛び立とうとするAIを助けるため、相対することを決意します。その時に搭乗(奪取)する機体がニューアーハンです。

 

電脳世界ディーバで暮らすようになり、あらゆる物理的制約、肉体の不自由から解放された一方で、ディーバへ貢献して自らの価値を証明するという均質化された在り方を求められる構造が存在します。

 

従来機のアーハンは、球体から人型へ、人型から球体へ変形できることから、人型としては歪なシルエットをしています。まるでそれは、均質化された在り方(綺麗な球体)を求められた結果、人としての在り方が歪になっていることを表しているように感じられます。

 

(それはそれとして、新作のティーザーで球体への変形をアクションに組み込まれてたことに満面の笑み。)

 

そうした中で、ディーバから離反したアンジェラが搭乗するニューアーハンが、人型に近いフォルムになっています。

 

人としては歪だった在り方からの矯正と、ディーバからの離反をリンクさせるものであり、そのことの視覚的な表現としたものとして、人型に近づいたニューアーハンのフォルムが捉えられる。純粋な見た目への好みで言えば、歪な人型であるアーハンの方が好きなのですが、物語のカタルシスを作る要素の一つとして、ニューアーハンのデザインの方が軍配が上がります。

 

こういった物語の積み重ねやテーマが作る文脈が個人の嗜好を凌駕する。映像作品の醍醐味です。

(現時点で新作では見る影もないのが少し嬉しかったりする。もし「離反者の搭乗機」という烙印が押されて凍結されてたら、観賞中に口角が上がってしまうかも…)

 

 

 

 新作公開が控える二作品の魅力を話しました。秀逸な物語やテーマ、文脈は自分の好みを凌駕し、 自分の好みから外れたものを新たな好みに塗り替える。そんな魅力を持った作品の続編が公開される2026年が楽しみです。

 

オールタイムベスト<映画大好きポンポさん・感想>

 映画が好きだ。映画を観るのが好きだ。映画を映画館で観るのが好きだ。

 

視界一杯に広がる大画面。耳どころか全身を振動させるような大音量。映画以外の情報をシャットダウンする閉鎖された空間。

 

作品に没入できるシチュエーション込みで好きな一方、閉鎖されていることにより現実との繋がりを希薄に感じる。それでも、作品のジャンル・リアリティラインを問わず繋がりを感じることができるのは、作品を創るのも、観て楽しむのも人であり自分だからである。

 

そんなことを考えさせられた映画が『映画大好きポンポさん』。

 

 

 

 木本仮名太(@kimotokanata)さんが立ち上げられた『ブログクリーンアップ Advent Calendar 2024』という企画。ブログの下書きフォルダに、メモ帳に、頭の中に眠っているブログ記事を完成させるという主旨のものです。

 

 

実は既に本作の一度感想を書いたことがあったのですが、当時はまとまらない中捻り出すように書いたものでした。同企画を機に、改めて書いてみようと思います。

 

ブログクリーンアップ24日目の記事、宜しくお願いします。

 

f:id:mori2_motoa:20241225024305p:image

- YouTubeより

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 あらすじは下記のとおり。

 

銀幕の申し子と呼ばれる映画プロデューサーのジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット(以下、ポンポさん)。彼女の横でアシスタントとして働く映画マニアのジーン・フィニ(以下、ジーン君)。ポンポさんは自身が脚本を書いた新作『MEISTER(マイスター)』の監督に、予告編の編集で頭角をあらわしていたジーン君を抜擢する。

 

「銀幕の申し子が脚本を書いた映画を監督する」という命題に、映画マニアがどう立ち向かっていくのか。多くの人が感動できる映画にできるのか、何よりポンポさんを感動させることができるのか。これが本筋となるのですが、命題に対する答えへの到達と俯瞰が素晴らしかった。

 

映画にまつわるジーン君とポンポさんたちの物語が、現実とリンクさせるマトリョーシカのような作品の構造・在り方により感動と痛快さへと昇華されており、唯一無二の体験を作り出していました。

 

 

 

 

 個人の趣味趣向、価値観により、同じ作品を観ている人同士で受け取り方も違うように、同じ作品に関わっているクリエイター間でも注力ポイントが違ってきます。だからこそ、全体のバランス鑑みて監督などが調整する必要が生じるし、そこに葛藤が生まれます。

 

翻って、自分にはない発想などが生まれる。だからこそ、「傑作を作り出せるが故に、観客として本気で楽しめたことがない」ポンポさんを感動させることができる。

 

オーディションを受けにきた新人女優のナタリー・ウッドワード(以下、ナタリー)にインスピレーションを受けて、ポンポさんは『MEISTER』の脚本を当て書きしました。しかし、ナタリーが演じる人物にフォーカスしていたポンポさんとは異なり、ジーン君は、もう一人の登場人物であるダルベールに自分と重ね合わせ、彼の物語を補完するカットを追加で撮影しました。

 

『映画大好きポンポさん』というタイトルが象徴するように、本作におけるポンポさんの存在は大きいです。銀幕の申し子と呼ばれ、ジーン君に「審美眼の持ち主」とも評されるほどの敏腕っぷりを見せる彼女の持論には、説得力を超えた絶対性があるように感じます。

 

しかし、そうした絶対的なものを相対的なものへと変換してくれるのがジーン君と、エリート銀行員のアラン・ガードナー(以下、アラン)である(ここで重要なのが、「否定」ではないところ)。

 

「学生時代に居場所を見出せず自分の頭の中の想像の世界に居場所を作っており目が死んでいる人(つまりジーン君)は、クリエイターとしての潜在能力が高い」といったポンポさんの持論は、「じゃあ、学生時代を謳歌した人には映画制作に関われないというのか」と作品を受け取られかねない危うさを感じるが、ジーン君とアランの存在がバランスをとっている。

 

ジーン君は「上映時間は長いほうが、たくさん楽しめる」と忌憚のない意見を言うし、アラン君はジーン君の目を「輝いてるよ」と評する。そうすることでポンポさんの評価を相対化しており、そうしたバランス感覚が、「上映時間が90分以上の作品は、現代の娯楽として優しくない」といったプロデューサーとして職務上築いた(気付いた)方法論の中から「90分以上の作品は長い」というポンポさん個人の経験・価値観・趣向を炙り出していく。

 

様々な作品をプロデュースし、作り手としてその過程を楽しむ一方で、観客として楽しめたことのないポンポさんに「大好きだぞ」言わせたのが、ジーン君が力点に置いたダルベールの物語であった。

 

作品または登場人物への自己投影や感情移入が、他者の自己投影と感情移入を引き起こす。この映画を介したコミュニケーションは、作り手・観客を問わない普遍性を感じさせるものであり、多くの人が関わる総合芸術と言える映画の懐の深さとそれ故の面白さを体現している。社会に居場所を見出せず、映画のために様々なものを切り捨てたジーン君が、映画を通じてコミュニケーションを果たす。感動的でした。

 

 

 

 更に本作を傑作たらしめているのは、作り手の存在を意識させる演出・構成となっていることです。

 

トイ・ストーリー』のエンディングで、「実は登場人物たちが撮影をしていました」という体(てい)のNGシーン集が流されます。それと同じように、本作においても「『映画大好きポンポさん』という映画をジーン君たちが作っていた」ことを示唆されます。

 

ここでいう作り手というのは、『映画大好きポンポさん』を撮ったジーン君ということなのですが、「作り手の力点が作品に反映されること、故に観客へ届くこと」を描く中で、この示唆は「『映画大好きポンポさん』の作り手の力点は?」という疑問を浮かび上がらせる。

 

先輩であるコルベット監督がジーン君に「一番観てもらいたい誰かのために作ればいいんだ」とアドバイスするシーン。その時にカメラがフォーカスしているものは何なのか。そこを媒介に、作中のドラマが、上映時間や構成など映画の枠組み・メタ的な領域にまで流れ込んでいく。 この鮮やかさ、このカタルシス。思わず拳を突き上げたくなるほどの痛快さです。

 

エンドロール最後に出てくるポンポさんの会社ペーターゼンフィルムのロゴは、『映画大好きポンポさん』が壮大な劇中劇であると錯覚させ、作品を俯瞰させる。『MEISTER』という作品を通じたポンポさんとジーン君のコミュニケーションを疑似体験させてくれます。

 

ここで申し添えておきたいポイントが、エンディングテーマのMV。正に『映画大好きポンポさん』をジーン君たちが撮った体(てい)の内容であり、本作の感動と余韻を補強してくれます。最高。

 

 

 

 

 『映画大好きポンポさん』って凄いよな、最後まで感動たっぷりだもん。

 

これ以上の作品にこの先出会えるのだろうか。そう思わされるほどの傑作です。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。最後に本作の一番気に入っているところを述べたいと思います。それは、上映時間が90分ってところです。

 

 

2度食う仮面ライダーから「いただきます」の意味を感じる

 2024年9月1日(日)から放送・配信中の特撮ドラマ『仮面ライダーガヴ』を観てます。特撮・アクションに見応えがあることは勿論、主人公の「知らないなりの誠意」を感じさせる物語など見どころが満載で楽しんでいます。

 

中でも印象的なのは、主人公の眷属であるゴチゾウたち。主人公から見張りをするよう命令があれば元気よく跳び出し、問題があれば報告する。主人公のピンチとあらば、戦闘の真っ只中でも飛び込んでいく。

 

その健気さの塊のような眷属は、体の小ささも相まって可愛さ満載。仮面ライダーのベルトを買っていなくても、ゴチゾウだけでも買おうかと思わされます。

 

凄いぞゴチゾウ!

可愛いぞゴチゾウ!!

網に引っ掛かっちゃうおっちょこちょいなところを含めて魅力的!!!

その働きに感謝!!!!

いただきます!!!!!

 

 



 

 

 

………そう、いただくんです。正確には、お腹にあるガブと呼ばれる口のような器官で食べるんです。あんなに可愛くて、こんなに健気に尽くしてくれるゴチゾウを食べてしまうのです。

 

 

 

 ゴチゾウは、主人公がグミやポテトチップスなどのお菓子を食べることにより、主人公のお腹についているガヴから生成される眷属(けんぞく)です。主人公はそのゴチゾウをガヴから食べて、仮面ライダーに変身します。

 

つまり、主人公は変身するまでに、口とガヴで、計2回食べます。一度口に入れたものを出してから食べるなんて、あまり行儀が良くないですが、それは置いといて。ゴチゾウを食べることに伴う罪悪感を含め、「食べて力を得ること=命をいただくこと」を「変身」と結び付ける設定として、とても良いと思いました。

 

食べて力を得ることは、命をいただくことと表裏一体であり、故に有り難みが生まれる。それをゴチゾウの可愛さ、働き、健気さが具現化してくれている。

 

ゴチゾウを食べて変身することで食べ物が力になること表し、ゴチゾウの可愛さが食べることへの罪悪感を生み出し、ゴチゾウの奉仕が有り難みを感じさせる。

 

 

そしてガヴの構造は、食べる実感を強めています。変身する時にはガヴの顎を動かす代わりに、ハンドルを動かし咀嚼します。

 

変身時には「EAT グミ EAT グミ」と音声が流れ、必殺技を発動時には「CHARGE ME CHARGE ME」と音声が流れるなど、ゴチゾウから力をいただくことを印象付けます。

 

 

人間は、お前らに食われるために、幸せになるんじゃない!

 

主人公の台詞は、人間をお菓子にして食べる怪人に向けて発せられますが、人間にもささります。趣向として人間を消費しようとする怪人と相対するとき、同時に人間が趣向として命を消費する事実とも向き合うことになります。

 

「命の消費(特に趣向としての消費)とどう向き合うべきか」といった視点を感じさせ、ひいては「いただきます」という言葉の意味を考えさせてくれる。そんな本作が今後どのように展開して行くのか、とても楽しみです。

 

同じ視点で思い出す作品。シンプルなお仕事モノとしても楽しめるのでお勧めです。

 

 

 

 最後に、主人公へ献身的に尽くすゴチゾウたちへ、この歌を捧げます。ゴチゾウたちに幸あれ。

 

愛のうた

愛のうた

  • ストロベリー・フラワー
  • サウンドトラック
  • ¥255

 

 

命拾いしたな学生時代の俺、代わりに俺が喰らっておこう<コードギアス 奪還のロゼ 第1幕/感想>

 『コードギアス 奪還のロゼ(以下、奪還のロゼ) 第1幕』が5月10日(金)から公開されました。2006年から放送していたテレビアニメを始め、様々な媒体で展開している『コードギアス』シリーズの最新作。6月7日、7月5日、8月2日と4カ月連続で劇場上映されていく作品の1作目に当たります。

 

自分が本シリーズで観賞したことがあるのは、外伝・スピンオフに当たる『コードギアス 亡国のアキト(以下、亡国のアキト)』。3DCGで描写されたナイトメアフレーム(本作に登場するロボットのこと。以下、KMF)の活躍シーンに惹かれて第2章から見始め、最終章まで劇場で観賞。アスレチックのように作られた3DCGのバトルフィールドの中をパルクールのようなアクロバットなアクションで縦横無尽に駆ける3DCGで描画されたKMFが格好良く、この一点のみで最後まで観てしまった。

 

3DCGのロボットアクションに惹かれたためか、シリーズのメインである『コードギアス 反逆のルルーシュ(以下、反逆のルルーシュ)』など他の作品には触れることはありませんでした、ここに来て再び3DCGによるロボットアクションが観られる『奪還のロゼ』が公開。

 

『亡国のアキト』の時の興奮を再び、と早速映画館へ行ってまいりました………参りました。

 

『コードギアス 奪還のロゼ』エンディング主題歌 「ロゼ (Prod.TeddyLoid)」

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。) 

 

 

 

 

 

 面白い。凄く面白い。色やパースの付け方において更に作画のような質感が増したロボット描写もさる事ながら、物語に惹きつけられました。良くも悪くもロボットアクションで満足しきっていた『亡国のアキト』とは、明らかに「満足」を構成する要素が異なっています。

 

特筆すべきは、主人公2人の関係性。予告編などで事前に公開されていた情報、前提となる設定を第1話から初っ端から覆されるのである。なんということだ、ただでさえシリーズ本編には詳しくないからと、本作のHPやSNS、予告編で公開されてる情報だけでも抑えてきたというのに。

 

「主人公である兄弟2人が、囚われた姫様を助ける」ではなく、「変装した姫様が、親友でもある影武者を助ける」という構図であり、助けられる側だと思っていたらが実は助ける側だった。という事実が、「明かされる」では少々仰々しいと感じるくらいには早期に明かされる。勘のいい人であれば、最初のシーンで勘づいていたのではと思う(私は全然思い至らず結構驚いた)。

 

主人公の正体が明かされた時の「あれ、そうしたら、KMFで戦ってた兄さんは……」と思考がバチバチと巡る感覚。不安や疑心の輪郭が徐々にハッキリするのに比例して気持ちが動揺する中、ギアスを主人公が発動する。「皇サクヤが命じる___」

 

『亡国のアキト』の時は、主人公はギアスをかけられる側であったこともあり、主人公が繰り出す一手としてのギアスの発動を見るのは初めてなのですが、ヒロイックなギアスのシーン、特に主人公のとるポーズには…なにか…こう、長らく眠っていた学生時代、特に中学生の頃の自分を刺激される。

 

親指・人差し指・中指作ったJの字を首元に持ってくる所作。四肢の長さが特徴的なキャラクターデザインも相まって、本当に格好良い。昨年観たアニメ『アイドルマスター ミリオンライブ!』でも思ったことなのですが、腕が長いと一つ一つの所作の見栄えが圧倒的に良い。立ち絵だと少し長過ぎ…かな?と思っても、映像で観た時に映えるなら良いのだ、これは映像作品なのだから。

 

『奪還のロゼ』というか、『コードギアス』シリーズのキャラクターたちのような、等身の高いデザインあまり好みではなかったのですけれど、今回のギアス発動シーンを見て、この等身・キャラクターデザインだからこその格好良さなのだと納得させられます。一度観てしまえば、魅入られてしまえば、違和感グッバイ。オープニングの腕を振って前に指を突き出すシーンから放たれる、劇場の大画面で右から伸びる腕の格好良さを受け流すことができませんでした。ムーディ勝山キャンセラー。

 

f:id:mori2_motoa:20240612224449p:image

アニメ「コードギアス 奪還のロゼ」オープニング/MIYAVI「Running In My Head」 - YouTube より

(これを大画面で観た時の良さたるや。この長さを動きで観た時の映えっぷりたるや。)

 

子供の頃にウルトラマンのポーズに憧れて真似をしたことがありましたが、これの中学・高校生版の様な趣が、ギアス発動の所作にあると思います。きっと中学生の頃に喰らっていたら、間違いなく真似をしていたでしょう、重度の中二病を発症していたでしょう。良かったな、あの時の俺、代わりに俺が喰らっておk、うわーーー。

 

ワンオフ機体を活躍させるのはロボットアニメの定石だと思いますが、一つの機体・乗り手が現状を打破し世界を動かすしていくことで生み出すカタルシスが、この格好良さには内包されています。KMFの相手はKMFに引き受けてもらいながらも、敵の本陣には単身で乗り込み、ギアスの力を使って一人で制圧する。ロボット顔負けのスタイルの良さ・四肢の長さが特徴的な本作のキャラクターの所作には、3DCGで動き回るロボットに相当する力が備わっています。

 

3DCGのロボット目当てで来ていた自分も気が付けば作画によるキャラクターの所作に魅入られており、OP終盤の格好良さは病みつきになっています。

 

(それはそれとして、全12話構成の作品を4分割による全4幕公開としているが、第1話〜第3話をそのまま流すというのはいかがなものかと感じた。本作は全4作品の内の1作目としてパッケージしてる以上、専用の映像を作るとまでとはいかずとも、最初と最後のみでOPとEDを見せるなど、最低限の体裁は整えて欲しかった。OPとEDそのものは共に素晴らしかったので、複数回観られることには不満はないが、やはり第1幕という一つの作品を観にきている。そのまま流すのであれば、第1幕ではなく第1〜3話と明記すべk…)

 

 

 

 そうしたキャラクターの関係性や格好良さによって牽引していくという、ストロングポイントが明確な本作では、第2・3話での気の抜けた描写も納得がいきます。戦って回っているにも関わらず、命のやり取りをしていると言う意味での緊張感があまりありません。具体的に言うと、仲間の経営している喫茶店で接客するイベントを挟んだりなど、色んな意味で無防備な描写が挿入されます。

 

一見すると、緊張感を削いでしまう様に思えます(というか、最初はそう思った)が、本作が登場人物たちの関係性に重きを置いた作劇をしていると考えた上で振り返ると、途端に面白くなってきます。特に、変装した(というよりは姿をしている)サクヤに、兄さんが惚れてしまう展開。兄弟のフリをしてる(ギアスの力でさせている、いや思わせている?)けど、実は親の仇であるという因縁関係と、ただでさえ混み合った状態なのに、更に別人と勘違いして一目惚れした(された)という状態まで加わってくる。しかし、その中で垣間見る兄さんの素の部分を見せたことが、サクヤの思いや言動に影響を与えるであろうことは想像に難くない。一時の安息、というには長いと思える尺感(ここについては自分の感覚だが)は、緊張の糸は緩む代わりに複雑に絡ませていくと言わんばかりの作劇だったと思います。

 

主人公たちが生き死にをかけてミッションに臨むこと以上に、そうした状況の変化により、関係が悪くなるのか良くなるのか、拗れるのかほぐれるのか、全てが破綻してしまうのか。「主人公2人が兄弟」という、疑心を不可侵にもできる関係性を初っ端からひっくり返し、登場人物たちの関係性にフォーカスさせている。緩んでる内に絡まった糸が再び張った時どうなってしまうのか。

 

そうした可能性と危険の表裏一体の作劇が、これほどの緩急の激しさを許容させる。七煌星団のメンバーが飲んでばっかりに見えてくるのも、今後の活躍へ向けた布石なのだと期待できる。弛緩があってこその緊張だと肯定できる。

 

故に強制力、絶対性を持ったギアスの発動は並々際立って見えてきます。ワンオフ機体に乗るよりもミニマムで属人性が高く、だからこそ日常にも潜り込める要素であり、安住の地でも駆け引きを生み出す。

 

ギアスの力が今後物語をどう動かしていくのか、その絶対性が脅かされるのか。楽しみでしかたがありません。

 

 

 

 物語の牽引や緊張感の演出を、登場人物たちの関係性が担っている中で、ロボットアニメの花形であるロボットの戦闘シーンはどうなのか。下手したら、無くても成立するのかもしれない?

 

いやいや、まさか、上記でも述べたように、『亡国のアキト』では、3DCGで作った街中などを舞台にKMFが縦横無尽に動き回るアクションが魅力的でした。動きの手数で魅せていくと言わんばかりに、主役機であるアレクサンダが虫モードと人モードを使い分けて、右左前後上下と、観客の視点であるカメラと併せてガンガン動いてく。3DCGの軽やかさとKMFのサイズ感が絶妙にマッチしてたことも相まって、唯一無二のロボットアクションになっていました。

 

f:id:mori2_motoa:20240612223326p:image

コードギアス 亡国のアキト 第4章 劇場予告 - YouTube より

 

この安定感、立体感、臨場感を下地にしながら、『奪還のロゼ』では、更に手描きの質感に近付いたことで煙や火花などの二次元のエフェクトとの親和性が高くなっています。因みに、本作の3DCGを担当している武右衛門は、『亡国のアキト』にも参加しており、また、本作の監督のインタビューでも、『亡国のアキト』を意識したものになっていることが窺える。「『亡国のアキト』あってこそ」と思えると、なおアツい。

 

3DCGでセットを作り、その中を動き回るアクションとカメラワークに臨場感があった『亡国のアキト』に対し、手描きのパースを効かせたカットなどによって、ロボットとの距離(近さ)を演出し、ロボットの周りを動き回るような立体感と臨場感を作り出した『奪還のロゼ』。

 

f:id:mori2_motoa:20240612223545p:image

【第1幕】「コードギアス 奪還のロゼ」予告1 #コードギアス #geassp - YouTube より

 

スピーディな動きで翻弄し、ピンポイントの攻撃で仕留めるという、主人公の戦闘スタイルは共通しているのに、手描きの質感が増した3DCGに裏打ちされた表現で、これほど違う魅せ方になっている。最高です。

 

人間顔負けのアクロバットなアクションを繰り広げるKMFKMF顔負けのスタイルの良さで所作を魅せる人間。

 

やはり中学生の頃に喰らっていたら、ヤバかったでしょう。良かったな、あの時の俺、代わりに俺が喰らっておk、うわ〜〜〜⤴︎

 

 

 

 さて、十二分に楽しむことができた『奪還のロゼ 第1章』。数少ない不満点は、前述した通り、第1章という一つの作品にパッケージしておらず、別々にパッケージされた3作品を流す形をとっていること(OPとEDが素晴らしすぎて3回観ても苦じゃない、それどころか…の状態なのが幸い、いや、悔しい)。

 

(いや、本当に良いんですよ。毎回サビで涙腺が刺激される。)

 

そしてもう一つは、ZI-アポロを始めとするKMFがプラモデルで発売されていないことである(執筆当時(いつか発売されるよう祈りを込めて記す))。

 

感想を書いてる内に第2幕が公開しました。作品の展開とZI-アポロのアクション、2つのスピードに遅れず、存分に楽しんでいきたいです。

 

 

 

2023年回顧2024年抱負

 明けまして、おめでとうございます。ブログを始めて5年目に突入しました。弊ブログを読んでくださった方、記事に星をつけてくださった方、読者登録してくれた方、本当にありがとうございます。

 

本年も宜しくお願いします。昨年に引き続き、映画の感想をはじめ、様々な記事を書いていきたいと思いま…

 

 

 

と言いたいところなのですが、昨年公開した記事の数は6件。1年は365日もあるのに、記事は6件。「不定期って言いながらも定期的に更新してる」という感じを目指したいと思っていたのにこの体たらく。不定期にも程がある。

 

この際、不定期だと開き直ることも選択肢の一つなのですが、そんなことしたら本当に年1回更新なんてことにもなりかねない。「映画の感想を書くことを続けたい」という気持ちが潰えていないことを自覚している限りは、ブログの更新頻度を増やしていきたい所存です。

 

というわけで、本年一発目の記事を2023年の回顧と2024年の抱負の機会とし、現状の脱却を図っていきたいと思います(この記事が1月下旬の時点で…とは思わないでいただけると幸いです)。

 

 

 

 まずは2023年の回顧です。ここから始めないことには、2024年の抱負もあったものではありません。考えるべきは、これほどまで記事の更新が滞った原因ですが、それは「二兎を追う者ものは一兎をも得ず」状態に陥っていたことだと思われます。

 

映画、TV、ゲーム、プラモデル、ブログなど、「あれをやりたい。これもやりたい」という思考だけが膨らんでいき、頭の中で混在した結果、色んなやりたい事の境界線が曖昧になって、結局目の前のことに集中できなくなっていました。しかも、感想を書けずにいると記憶や気持ちが風化していくので、「早く書かないと」と焦りを感じてしまう。それが続くと、いつの間にか「やりたい」ことが「やらなければ」に寄っていってしまい、「あれも、これもやって」という義務感に染まった思考だけが回っている状態に陥ってました。

 

そうした頭の中の配線が間違えているかのような状態だと、自分の考えを文字におこすことも上手くいかず、ブログと同じタイミングで始めたTwitter(現X)でも、思うように感想を呟けていませんでした。ブログに比べると一度に書く文字数が圧倒的に少ないにも関わらず、無理やり捻り出すかのように書いて、辛うじて1ツイートの状態。書き出したことをまとめられないならともかく、書き出すことでさえ困難でした。

 

 

 

 そうした中でも、集中して臨めていたのが映画観賞です。外の情報を遮断し、巨大なスクリーン・スピーカーから出てくる情報を受けとることに特化した映画館。その環境は「今はこれしかできない」という状態を作り出し、「今はこれに集中する」とスイッチを入れてくれていました。時間も決まっている・限られているため、「やらなければ」思考にも陥らず頭の配線も狂っていませんでした。

 

自分がこれまでの人生で集中して取り組めた時はどんな状況だったかと考えてみると、学校・塾の自習室など、「特定のことをするための空間」だったことが思い出されます。自室ではなかなか集中できなかった自分にとって、「形から入る」という言葉は、自分が集中できる環境を構築するという点で一理あるのだと、今更ながらに実感しました。

 

やるべき事・やりたい事、仕事・趣味、それらが混在する中でも、時間・場所と一つ一つ整理して取り組んでいける環境作りに、意識して取り組んでいきたいと思います。最終的には自然とスイッチが切り替えられるようにできることを目指します。

 

当たり前のことかもしれませんが、自分はそれができているつもりでできていなかった。良くも悪くも色んなことに慣れてきた今だからこそ、自分の振る舞い・生き方・考え方を見直し意識し、新鮮な気持ちを忘れずに日々を過ごしていきたいです。

 

新鮮な気持ちといえば、自分にとっての初めてのことがございました。アニメ『アイドルマスター ミリオンライブ!』を観たことです。「アイドル」というコンテンツそのものに熱中したことがなかったのですが、『ゴジラ-1.0』で大迫力かつリアルな映像を作り上げた白組がアニメーション制作をしている情報を知り視聴を決意。ライブシアターのこけら落とし公演へ向けて、アイドルたちが一致団結する熱いドラマに心を鷲掴みにされ、最後まで完走してしまいました。特に全3幕の内の第3幕は全3回も観にいってしまいました。

 

他にも『BLUE GIANT』『アリスとテレスのまぼろし工場』『北極百貨店のコンシェルジュさん』『グリッドマン ユニバース』と、とにかくアニメーションが強い年で、本当に楽しい映画体験をすることができました。

 

 

 2023年の回顧はこれくらいにし…と思いきや、気付いたら2024年の抱負も話していました。今年も素晴らしい映画に出会えたらなと思っていたのですが、初手で傑作ともいえる作品に出会ってしまいました。

 

 

『BLOODY ESCAPE 地獄の逃走劇』という非常に物騒なタイトルなのですが、アクションのためのアクションではなく、ドラマのためのアクションが素晴らしい。彼らが戦うことそのものに哀愁を感じさせる作劇は素晴らしくて、ポリゴン・ピクチュアズがアニメーション制作する映画の中で最も楽しめた、と言っても過言ではありません。この作品の感想も投稿したいです。

 

映画観賞において幸先の良いスタートが切れた2024年。1月には『機動戦士ガンダムSEED』の劇場版が公開。2月には『映画大好きポンポさん』の再上映という、話題に事欠かない年になりそうですが、ブログの更新もそれに追いつけるように頑張っていきたいと思います。宜しくお願い致します。

 

 

 

 

簡易に積み重ねられるゲームの経験とプレイヤーの本気がリアルに勝る瞬間を目撃する<グランツーリスモ/感想>

 映画『グランツーリスモ』が最高だった。この文章を次の映画の観賞までの時間を使って、映画館で書いています。この熱量が失われる前に書き残しておきたいと思います。

 

モリオ on X: "『グランツーリスモ』観賞 ゲームで感じた感覚。ゲームで積み重ねた経験・知識。それらをリアルのレースと結びつける主人公のドライビングが、プロの世界にブチかましていく。その物語に興奮と感動が止まらない。 最高。最高。最高。 #グランツーリスモ https://t.co/Ig7xX1q3kK" / X

 

モリオ on X: "ゲーム・シミュレーターなどの擬似的な環境で得たものが、本物で得た経験と合わさることでドライビングを更なるレベルへ飛躍させていくのが、物語を擬似的に体験する映画との相性が良過ぎる。 映画館で観るべき最高の映画。 #グランツーリスモ" / X

 

 この作品は「『グランツーリスモ』というゲームをずっとプレイしてきた主人公が、本物のレースに挑戦する。」というのが、あらすじです。その中で、ことあるごとに「所詮ゲーム」といった趣旨の言葉、もしくはそうした意識を含有した言動を主人公は突きつけられます。

 

そうした「ゲームはリアルに敵わない」という意識から、「ゲームだからこそ」と思わされる描写の一つ一つ、主人公の言動・物語に心底興奮させられました。

 

ゲームは失敗しても直ぐにリトライできる。その一回一回のトライが簡易だからこそ、一回のミスが命取りになるリアルのレースでは敬遠される。

 

しかし、本作では、トライが簡易だから、簡易だからこそ、リアルでは不可能なほどのトライを重ねられる。そして、そこにプレイヤーのゲームをリアルを感じるほどの本気が加われば、その重ねられたトライは、ドライバーにとって、リアルにも勝る経験になる。

 

そうしたロジックから繰り出される終盤のレースシーン、車のパーツがバラバラに分解していく描写からドライバーである主人公の根っこにあるのはゲームで積み重ねたプレイヤーとしての経験だと感じさせるところからゴールまでのシーンは本当に痛快でした。

 

そこまでの登場人物たちのやりとりも、このカタルシスに大きく寄与していて素晴らしかった。主人公のヤンとチーフ・エンジニアで元プロドライバーでもあるジャックとの「ゲームで感じていた車との感覚はリアルにも通じる」ことが分かるやりとりにはグッとさせられました。こうした描かれる気付きが、主人公たちの互いの信頼関係とゲームもリアルに勝ることへの説得力が築いていて、勝利へのロジックに心底興奮させられていました。最高。

 

 

 

 驚くほどの興奮、驚くほどの感動。全力のプレイヤーと完璧な擬似体験が合わさった時のカタルシスが素晴らしい一作でした。

 

火傷しそうな夏に観る運命の炎はアツかった<キングダム 運命の炎/感想>

 灼熱の炎天下で、十分過ぎるほどに身体が熱せられている中、『キングダム 運命の炎』を観てきました。体温的には氷を所望なのですが、心情的には炎を所望させる実写版『キングダム』シリーズの最新作です。むせてしまうような煙たくて泥臭い環境、その中で全力で駆け、飛び、剣を振るう主人公・信をはじめとする登場人物たちのアクションは、炎こそがピッタリの熱さがあります。2019年に一作目『キングダム』、2022年に二作目『キングダム2 遥かなる大地へ』が公開されたシリーズの三作目となるのが本作であり、期待値の高い作品です。

 

まずは一作目と二作目(前作)について話しておこうと思います。一作目は同名の漫画を原作とした作品であることを実感させる人間離れした動きに見応えがある一方で、合間に挟まれるドラマパートの描写には、どうしても没入を削がれてしまう。それが非常に惜しい一作でした。特に終盤で主人公の信とラスボスの左慈(さじ)との間で行われる夢についての問答は、盛り上がりを削がれた描写としてで象徴的でした。夢への想いを力強く叫ぶこと以外(主に戦闘)の手を止めてしまう演出は、親玉である成蟜(せいきょう)の討ち取りを一分一秒でも早く成し遂げてくれることを信じて耐え凌いでいる仲間たちの切迫度合いからは、著しく乖離して見えてしまいました。

 

信の思いが理解できないわけではない。同じ志を胸に鍛錬を積んでいた漂(ひょう)が、共に肩を並べてスタート地点に立つことすら叶わず命を落としてしまった。彼の分まで夢を叶えるために戦う信の思いが十分伝わってくる。「夢があるから、」と想いを吐露する場面も、二作目における羌瘣(きょうかい)への説得に通じるものあり、芯の通った信念を感じる事ができる。(信だけに)

 

しかし、そうした想いを声にして発することによって生まれてしまう展開の停滞は、「それどころではない」というツッコミの隙を生んでしまい、そうしたツッコミと彼の本気度の間に矛盾を感じてしまう。間を沢山使い感情を表現する描写・演出は、「感情を吐き出す」こと以外の情報・状況に対して一気に無頓着になっているように見えてしまう事によって、作品への没入を削いでしまっている。

 

直前まで、「耐え凌げば俺たちの勝ちだ!」と鼓舞する嬴政(えいせい)をはじめ、命を削る覚悟で時間を稼いでいる者たちの姿を直前に観ている状態では、夢についての問答にもどかしさも感じてしまい、「せめて戦いながらで!」と思わずにはいられない。

 

そんな惜しさ・もどかしさを感じた一作目に対して二作目は最高でした。一つの国の内戦を描いた一作目とは異なり、他国との戦争、つまり本格的な合戦が描かれた二作目は、信にとって本当のスタートです。最初の突撃開始時の信が先陣を切って走っていくシーンは、信という一人(漂と合わせて二人)の夢が、戦場という舞台で一気に大きくなっていくのを見事に表現しています。

 

遠のいていく仲間の兵士、壁のように待ち構える敵の兵士。スケールがどんどん広がっていく映像が、舞台の壮大さと同時に信の持つ夢の壮大さを形にしていく。

 

圧倒な映像表現に対する興奮と物語に対する感動が見事に連動したシーンは、本作のハイライトであり、以降の没入感を強固なものにしていました。

 

そうした中でも、二作目で初登場する羌瘣(きょうかい)周辺の描写に象徴されるように、一作目にあった問題点は解消されているとは言い難い。一分一秒の間に情勢が大きく変化し、一秒一瞬の間に沢山の命のやり取りが行われている中で、「逃げろ」「生きろ」の押し問答が倒れ込んだ状態で行われる。物語の動線、感情の動線は理解し共感できるから「お前はまだ生きてるじゃないか!」という羌瘣の思いそのものには感動する。しかし、画面の奥で剣を持って戦っている兵士が今にでもこっちに向かってきてもおかしくない状況下では、「気持ちは分かるけど、5秒後に死ぬぞ!」と心の中で叫ばずにはいられない。

 

しかし、物語を最も引っ張る存在である主人公の信が戦争へ臨む動機・内面の描写は、基本的に一作目で終えているため、アクションとのバッティングが軽減されている。

 

また、信が突撃直前に構えた時に票が構えるカットを差し込む演出は、信と票のドラマが感じられるシーンであり、画でも十二分に伝わることができると確信が持てるものでした。(だからこそ、アクション等の流れを止めて登場人物に叫ばせることを優先した演出が、気になってしまうのだけれど)

 

頭の中で、アクションシーンに沸き立つ自分と、差し込まれる感情の演出が気になって仕方ない自分による押し問答が、自分にとっての映画『キングダム』シリーズの評価の土台となっています。二作目の時点では前者が優勢、本格的な合戦へのスケールアップに相応しい合成技術とアクションにより、前者が強くなる一方で、アクションと内面の描写とのバッティングの減少などにより、後者は弱くなっています。

 

敵陣に切り込んでいく信たちの綱渡りのような物語とともに、作劇に対してもスリリングを感じている本シリーズの最新作は、果たしてどう映るのか。

 

f:id:mori2_motoa:20230817220720p:image

映画『キングダム 運命の炎』予告②【2023年7月28日(金)公開】 - YouTubeより

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。) 

 

 

 

 

アクションで生まれる情動に振り切る構成

 面白かった。とても良かったです。次回予告があると身構えてなくて驚いた前作とは異なり、絶対、次回予告あるだろうと身構えさせる幕引きだったのに、次回予告がなくて驚いた本作。序盤のナレーションで一気に済まされてしまった信の修行編とか、なんだか非常に見応えのありそうなエピソードをすっ飛ばされてしまったかのような気もする本作。それでも、とても良かったです。各登場人物のドラマがアクションに集約されていくような作劇がとても魅力的であった作品でした。

 

前作の気になる部分を殆どそのまま引き継いだ点も、気になる部分に勝るスペクタクルが提供されていた点も、二作目と共通していました。本シリーズの魅力としては、やはりアクションシーンが挙げられるところですが、特に本作では飛信隊という名前の隊を率いて戦うことになる信のアクションを筆頭に、アクションそのものが、ドラマを物語る要素になっていました。回を重ねるごとに登場人物たちへの思い入れも登場人物同士の繋がりも強くなるに伴って、アクションから生まれる情動も強くなる。

 

アクションの停滞を生んでいた過去の回想やそれに伴う台詞による感情の発露も、本作では殆どありませんでした。それも、二作目における信と同様で、飛信隊の面々、特に羌瘣はアクションに専念していたおかげで、そのポテンシャルを最大限発揮していました。作戦は、先頭を走る信を鏃に見立て、隊全体が矢の如く一直線になって突っ込むというものなので、止まったら死ぬというシチュエーションになっています。結果としてアクション中の停滞が生まれいくい状態になっていました。加えて、羌瘣は信と連携技を繰り出すなど、単騎では成せない作戦と技が、アクションのみで飛信隊のドラマを作り出していました。

 

アクション中の台詞の介在を極力排しながら、既に築き上げられた登場人物間の絆をアクションそのものから感じさせる。そして、それを主人公の信が牽引しているのを飛信隊の作戦が具現化していき、最後の一手へ繋がっていく。本作の強みを最大限濃縮したかのような作劇に、後半は興奮させられっぱなしでした。

 

 

 

アクションと分離する嬴政の過去

 本作では、嬴政の過去が描かれるのですが、印象的だったのが、その描写は作品の前半に収まっており、合戦が始まってからは触れられなかったことです。嬴政が中華統一を目指す動機と思いの強さ、これまでの嬴政の言動を感じさせる重要な要素であり、今後の展開を牽引する要素にもなり得ると思われます。一作目・二作目の傾向であれば、こういった描写は、合間合間に挟まれていくのかと思っていたのですが、前半で最初から最後まで一気に描かれていきました。前半の過去編と後半の合戦を織り交ぜて描くことで一つの作品としての強度を高めるよりは、明確に分けて描くことで各パート単位での色を明瞭にする。そうしてアクションの流れを途絶えさせなかったことが、アクションに専念できた要因だったと思います。

 

そうした過去の描写・ドラマが後半の怒涛のアクションと分離したことは良かったと思うと同時に、本作において、嬴政の過去の描写が、王騎将軍に参戦の決心をさせた以上の作品における意味を見出せなかった点が気になってくる。原作があることを踏まえると、嬴政の過去の描写は、今後活きてくるのだろうと思われますが、映画である以上は本作全体に渡り意味を見出せる作劇であって欲しいという思いもある。一方で、こうした作劇が生まれるのも、原作漫画がある作品ならではだ、とも思える。こうして好意的に受け取ろうと思えるほどの魅力があることは間違いありません。

 

 

 

アクション大作への道

 個々のアクションにより作り出していたカタルシスが、群のアクションのカタルシスへ見事に昇華していたと言える本作。終盤の圧倒的強キャラ感に満ちた新しい敵の登場による「次回へ続く」といった感じの幕引き、ナンバリングが無くなったこと、顔出し程度の新しい登場人物など、一本の映画としての完成度を高めるというよりは、どちらかというと大河的な、連続ドラマのような構成にシフトしてきた『キングダム』シリーズ。その是非は次作次第かと思いますが、合戦スペクタクルとアクションで魅せることでは、現在の邦画では随一シリーズと言えるので、この調子でアクション大作の道を極めて欲しいと個人的には思う次第です。そうした今後への期待が高まる一作でした。