モリオの不定期なblog

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変身とは、何だ。リアリティとは、何だ。<仮面ライダー BLACK SUN/感想>

 大人向けの特撮作品。一般向けの特撮作品。夢想することは数多くあれど、実際に目にする機会は十年以上前は稀少でした。しかし、近年はその機会に恵まれており、「自分にとって当たり外れ」なんて考えられる余地がある、本当に有難い状況が生まれています。そうした中で発表された作品が、『仮面ライダーBLACK SUN』です。

 

仮面ライダーBLACK』のリメイク作品であり、大人向けに製作された特撮作品。監督を担当されるのは白石和彌さん。警察とヤクザの間で維持してきたバランスが音を立てて崩れていく時の無力感と無情感が印象的だった『孤狼の血』及び『孤狼の血 LEVEL2』を監督された方です。コンセプトビジュアルを担当されるのは樋口真嗣さん。『ウルトラマンパワード』や平成ガメラ3部作などの特撮作品はもちろん、実写版の『進撃の巨人』や『シン・ウルトラマン』などを製作されています。一般向け・大人向けに製作される特撮作品としては、新しい風と安定感の両方を感じさせる座組みで、それがどう転ぶのかは未知数です。

 

そして、最も驚きと歓迎の共振が大きかったのが、特撮監督を担当される田口清隆さん。『ウルトラマンX(エックス)』と『ウルトラマンオーブ』、『ウルトラマンZ(ゼット)』のメイン監督を担当された方です。空想が地に足をつけているかのような、現実と地続きに思える設定や描写が魅力的です。例えば、『ウルトラマンX(エックス)』の第一話では、ウルトラマンXがザナディウム光線を放つ時、その反動で踏ん張ることで地面がえぐれていく描写がありました。我々が普段歩いている道路を介してウルトラマンの重さ、光線の威力を実感する。その表現力に以上に、その着眼点に感激しました。子供の頃とは違う視点で、再び『ウルトラマン』シリーズを見始めたきっかけとなる映像でした。劇中で起こることを「どうやって」表現するのかよりも、「何を」表現するか。映像表現としての特撮の魅力を教えてくれたと言っても過言ではない存在です。

 

空想の存在である仮面ライダーを如何にして本物に見せることができるのか。怪人がいる世界、変身する人間、それらを一般向けにも通用する表現で魅せることができるのか。そうした期待と不安を胸に、全10話のドラマ『仮面ライダーBLACK SUN』を完走しました。

 

Did you see the sunrise?

 

 

 (以下、ドラマ本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 仮面ライダーや怪人を表現している着ぐるみや3DCGが精巧にできていて生々しさを感じさせる。しかし、本物に見えなかった、というのが正直な感想です。では、何が足りないと感じてしまい本物に見えなかったのか。それは、物理的整合が取れていないことだったのではないかと思います。それが気になってしまったから、人が人ならざるものへ変わっていく中で、仮面ライダーや怪人「元は人だった。」だという実感を得られなかった。

 

仮面ライダーを演じた西島秀俊さんと中村倫也さんの迫真の演技による「変身」ポーズと轟く掛け声。変身時に登場人物を包み込むエフェクト。変身後の仮面ライダーの肉体を表現する着ぐるみ。数々の高いクオリティの要素は目を見張るものでしたが、変身前と変身後が同じものだと認識できない。

 

仮面ライダーや怪人は、人の身体が変化したものであり、主人公の南光太郎仮面ライダーブラックサンであるように、姿形は違えど人の身体と同じまたは延長にある存在です。しかし、そう感じられなかったのは、変身前と後を繋ぐ「=」および「⇄」の描写が不明瞭にだったことが原因だと思います。

 

人から怪人(仮面ライダー)へ、または怪人(仮面ライダー)から人に変身が直接的には描写されない。例えば、主人公の二人が仮面ライダーへ変身の構えをするときの変身ベルトの出現の仕方ですが、一体どうやって出てきたのか?体内から出てきたのだとしたら、身体はともかく、服はどうやって透過したのか?身体に巻き付いたベルトよりも外側にある上着は、変身した後はどうなったのか?仮面ライダーになっている時は、皮膚と同化しているのか?人に戻った後、戦闘で体は傷ついているのに服は特に破れている様子は無いのはどうして?変身は、厳密には身体が変化したものではなく、あくまで身体の上に装甲をまとっていて、服装は装甲の内側に収まっている?そうだとしたら、やはりベルトの外側にあった上着は………

 

こうした変身前後の物理的な整合を視聴者の想像に委ねる描写もしくは「そういうもの」として割り切った描写は、本作に限った話ではなく多くの特撮作品にも言えることです。

 

肉体変化しているだけなのに着ていた服はどこに消えたのか、嵩張る変身アイテムを普段どこに仕舞っているのか、というような疑問は「そういうもの」として定着しており特に言及されたり議論されたりすることはありません。

 

だからこそ、本作のように大人向けとして制作された作品にこそ、特撮作品が内包し許容されてきた「そういうもの」を見直し普段観ていない人にも通用する描写に落とし込んでこそ、大人に向けた作品たりえるのではないかと(普段から特撮作品を観ている大人向け、という意味だった可能性がありますが…)。しかし本作は、そうではなかった。であるならば、「そういうもの」に則った作品だと頭を切り替えて観ようと思っても、社会問題を感じさせる作劇に引っ張られてしまうから、スタンスが定めきれない。

 

特撮監督である田口清隆さんの参加が発表された時、自分が期待したことの一つが、「そういうもの」へのエクスキューズでした。監督を担当された『ウルトラマン』作品を観賞して感じた魅力の一つは、現実(人)と空想(ヒーロー)の間を埋めてくれるような細かい描写・設定の積み重ねです。例えば、変身シーンで変身者の服装が場面を問わず統一されてしまうことに対して、専用の服装を用意したり、初変身時の服装(装備)に変わってることに変身者自身が驚く描写を入れることで、観る側の違和感を生じさせませんでした。

 

ウルトラマンという空想と私たち人間の間に物理的な整合を取るロジックを取っていることが素晴らしかった。そうした田口清隆さんが担当する作品に感じていた美点が、本作からは感じられませんでした。

 

変身ベルトだけではなく、身体の変化でもそうした不明瞭さが気になってしまう。身体が煙に包まれたかと思えば、気が付けば既に変化が終わっている。大きな目、突き出した嘴、生えた脚、それらの人間から乖離した怪人の身体が人の身体が変化したものに見えない。演じている俳優と着ぐるみと着たスーツアクターが入れ替わっていると感じてしまう描写は、結果として、本当に存在しているようには見えず、人間がスーツを着ている・被っているようにしか見えませんでした。仮面ライダーを始め、沢山の怪人が登場し、そのどれもが造形されたスーツを着ることによって表現されていますが、目や口、耳、手、足、それらが同じ生物には見えませんでした。

 

 

 

 では、自分にとって理想的な変身は何なのか。3つ例示しておきたい。まず1つ目はマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)に登場するヒーローのアイアンマンです。パワードスーツを身に付けて戦うヒーローなのですが、スーツの内側のインナーや靴はどうなっているのか、そうした点を意識した装着などの描写とスーツの発展が、アイアンマンというヒーローのリアリティを格段に高めています。発展途上のスーツは、専用のインナーでなければ着られないものや、出先で装着できるが機能や強度が限定的なものがあり、「何でも有り」と思わせない絶妙なリアリティラインの設定と変化でした。中でも印象的なのがマーク50からマーク85の進化。マーク50では、ナノテクノロジーを用いることで身体に密着できるほどスッキリとした構造を実現した一方、装着するにはタイツのような専用のインナーが必要になってしまう。しかしマーク85では、装着過程の中にパワードスーツの各パーツの稼働を挟むことで、専用のインナーでなくても装着することができるようになりました。新しい技術だけでなくそれまでに培ってきた技術も盛り込むことで、更に汎用性を高めていく(服装を限定しないことが劇中でも役に立っていました。)。そうした装着時の利便性も含めた進化の積み重ねが、パワードスーツによる変身のリアリティを確固たるものにしています。

 

同じくMCUで活躍するソーやドクター・ストレンジなどの他のヒーローの変身と比較すると、相互の説得力と魅力が増します。ソーもドクター・ストレンジも、変身する時は一瞬であり、着ている服がどうなったとか、どうやって変化しているのかは厳密には描写していない。そういう意味では『仮面ライダーBLACK SUN』の変身と似ていますが、全く気にならないのは、現実から飛躍した能力または世界観だからであり、「自分の想像できない力・仕組みによるもの」と認識しているから。ソーは神様で、ドクター・ストレンジは魔法を使っているから、「想像できない」方が寧ろリアリティを感じる。

 

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では『仮面ライダーBLACK SUN』の変身はどうだったのか。人間が怪人・仮面ライダーに変身することは空想である一方で、見える風景、使う道具、身に付ける服、立っている建物の一つ一つが、本作の世界観が何処までも現実と地続きである印象を受ける。「自分の想像できない力・仕組みによるもの」には見えない怪人の技術・変身は、「想像できる」方がリアリティを感じる。本作において、怪人の技術は人が作り出したものであり、また、それが魔法のように思えるほど技術が発達した世界ではない。である以上、アイアンマンのように、物理的整合による説得力を求めてしまう。変身で、骨格の大きな変化が不明瞭だったり、服が変身の影響を受けないと感じる描写には、そうした説得力を感じられない。

 

 

「作中でできること・できそうなこと」だと感じさせる描写が重要だと思うのですが、2つ目は、まさに、そうした設定・ロジックにより説得力のある変身を観ることができる、『人形の国』です。2017年〜2021年に連載されていた漫画家の弐瓶勉さんによるSF漫画。本作では主人公をはじめとする正規人形と呼ばれるものたちが鎧化(便宜上、以下、変身)するのですが、この変身の特徴は、身に付けている物も含めて変化することです。肉体を始め、身に付けている服、鞄、靴などは、エナと呼ばれる物質にやって形作られています。それは、正規人形が人間に擬態するために行われていることであり、服装は場面に応じて自由に変化させることができます。肉体を変化させるのと同様に服なども変化させることができるため、変身前後の服装の問題はクリアしています。

 

最早、魔法と言っても差し支えないほどに発達した技術と現実離れした遠未来の世界観が、「作中でできること・できそうなこと」を拡張しており、それでいて「骨格(体格)は変化しない」といった、変化の上限を設けています。「何でもできそうだけど、何でもありではない」というバランスが、元々人間だった者たちの変身にリアリティを与えてくれています。

 

人形の国(1) (シリウスコミックス)

 

3つ目は、『ロックマンエグゼ AXESS(アクセス)』です。ゲームソフト『ロックマンエグゼ』を原作とするアニメで、本作では、クロスフュージョン(便宜上、以下、変身)という原作にはない独自の要素が登場するのですが、その変身の描写がとても丁寧。手を包み込む時、服の袖がしっかりと皺ができている。肌との間に隙間ができるくらいにはゆとりを持った普段着の上にタイトな服を身につけていくと、当然

普段着は折れたりする。こうした描写を入れることで、内側はどうなっているのか、変身した時に身体や身につけていたものはどのような状態になっているのかが想像できて、気にならない。

 


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以上の変身に共通していることは、「変化する・しない部分を明確にしていること」と「それに忠実な変身が行われていること」だと思います。変身に用いられる力・技術が、人間由来のものなのか否か。人間由来の技術だとしても、それは果てしないほど未来の発達した技術なのか。そうした脳内Yes/Noチャートを経て確立される作品の技術・世界観に、変身の描写が逸脱していないか。それがリアリティに繋がっていく。

 

仮面ライダー BLACK SUN』の変身は、逸脱していたように感じる。魔法のようなファンタジックな力が用いられた訳でもなければ、飛躍的に発展した技術が確立している訳でもない。そうした中で、骨格レベルで変わる変身にリアリティを感じない。せめて変身の過程を観たいのに、文字通り、けむに巻かれてしまう。それでいて、変身時は服を外骨格が包み込んで守ってくれるから無傷という、肉体変化という生々しい物なのに妙に機械のようなシステマチックな点が、精錬された生物学的な技術というよりは、作劇上の都合として受け取ってしまう。本作における技術・世界観、Yes/Noチャートそのものが不明瞭で、どこまでが出来て、どこからは出来ないのか不明なのが、そうした印象を強くしている。

 

 

 

 勿論、アクションを彩る合成自体は素晴らしかったし、特に主人公の南光太郎=ブラックサンがクモ怪人が戦う第1話の戦闘シーンは身体の大きさが違うもの同士の戦闘をSFXとVFXの組みわせで見事に具現化されていて見応えがありました。

 

しかし本作では、現実の物理法則に縛られる空間に仮面ライダーという空想の存在を立たせるだけの説得力が生み出せていませんでした。人間サイズの重量を持っている筈のスズメ怪人が周りを吹き飛ばすほどの風を出さずに魔法のように垂直に飛んだり、怪人たちの目や口の動きが限定的であるなど、違和感がつきまとってしまい、最後までどう見ても本物に見える状態にはなりませんでした。仮面ライダーの作品で言えば、『仮面ライダーアギト』に登場するG3、近年の作品なら『仮面ライダーゼロワン』のバルカン・バルキリーといった、武装を装着するタイプの変身の方が、現実味を感じられ、説得力がありました。似た意味で、今年公開予定の『シン・仮面ライダー』も、そうした違和感はなく楽しめそうだと思いました。

 


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各場面、部分ごとに観ると見応えがあったり、感動するのですが、それらの要素の接続が弱いため、作品全体で連動はせず『仮面ライダーBLACK SUN』の感動には繋がっていませんでした。怪人はどのような場面で、どのような差別を受けているのか。キングストーンは何が特別なのか。変身ベルトは変身にどのように作用しているのか。仮面ライダーは他の怪人と何が違うのか。それらが不明瞭だから、怪人と人間の駆け引きが各登場人物の心情にどのように影響しているのか分かりにくい。

 

 

 

 そんなふうに接合部分が緩く、全体的にガタガタな状態の中でも(だからこそ、のような気もする)、役者陣の熱演は怪人と人間の不明瞭で複雑に入り組んだ設定・事情を取っ払ってくれるかのような、真に迫ったものを感じた。特に終盤の中村倫也の「あの頃に…」と心情を吐露するシーンには、目頭が熱くなりました。そうした作品の歪さが怪人のように思えて、それはそれで良いなと思ったり(良くない)。

 

作品の在り方として、生々しくも洗礼されたものであって欲しかった。