モリオの不定期なblog

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今だけ最新作のパート1にどっぷりと浸りたい<スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース/感想>

 マルチバースという概念が定着して久しい昨今、2019年に公開された『スパイダーマン:イントゥ・ザ・スパイダーバース』の続編である『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』が公開されました。異なる世界観のスパイダーマンが一堂に会した一作目は、共通点のある物語・登場人物を一つの作品の中に共存させながら、一人のスパイダーマンの誕生譚を描いており、ミクロとマクロを両立した素晴らしい作品でした。観客が認識している「スパイダーマンといえば」を、スパイダーマン同士の間に生まれる共感という形に落とし込むことで、スパイダーマンという(敢えて言うと)非現実的な存在を、普遍的なもののように感じさせていました。スパイダーマンという作品・コンテンツ・アイコンの積み重ねを最大限に生かした快作であり傑作でした。

 

2002〜2007年にはトビー・マグワイアスパイダーマンを演じる『スパイダーマン』三部作、2012・2014年にはアンドリュー・ガーフィールドスパイダーマンを演じる『アメイジングスパイダーマン』二部作、2017年からはトム・ホランドが演じるマーベル・シネマティック・ユニバース版『スパイダーマン』三部作+αが公開されています。「自分にとっての〇〇」が定着してるのに間を置かずに物語がリセットされること、何より別の人が同名のキャラクターを演じることに、初めは抵抗感がありました。『スパイダーマン』三部作に続く三部作(4〜6)が一度は計画されていながら中止となりました。『アメイジングスパイダーマン』二部作は、壮絶な戦いを予感させるクリフハンガーを仕掛けていながら続編は制作されないまま。マーベル・シネマティック・ユニバース版『スパイダーマン』も、いつ終了の報が届いても不思議ではない危うい状況下で展開されています。新たなスパイダーマンの誕生に、しこりを感じさせてしまう幕切れ・引き継ぎは、いずれも円満だったとは言い難かった。

 

そうしたモヤモヤを感じていた『スパイダーマン』シリーズ。一つの作品の中で「スパイダーマン」の名を持つキャラクターが沢山登場する今回の『スパイダーバース』シリーズは、映画のみでしか『スパイダーマン』に触れたことのなかった自分にとっては、一種の開き直りのようにも映るような、映らないような…

 

しかし、これまでの仕切り直しが繰り返されたおかげか、スパイダーマンのイメージが固定されていません。原作では珍しくないであろう数多のスパイダーマンの誕生を図らずも追体験できたおかげで、前作『スパイダーマン:イントゥ・ザ・スパイダーバース』を楽しむことができたのだと思います。あの仕切り直し・リセットがあったからこそ、と思わせてくれて、『スパイダーマン』に感じていたしこりを魅力に昇華してくれました。様々な在り方のスパイダーマンから共通項を感じ取り、差異を楽しむと同時に、新しいスパイダーマンの誕生を見守る。これまでの歩みを全肯定させてくれる『スパイダーマン』でした。

 

そしてなんと言っても本シリーズの魅力は規格外のアニメーションです。まるでコミックの絵が動いてるかのようなルック、それも画風・リアリティライン・ジャンルが異なるキャラクターたちが一つの空間・画面に収まっている。さっきまで鞄やケースに服や本を必死に詰め込んでいたスパイダーマンのすぐ横に、何処からともなくハンマーを取り出すスパイダーマンがいる。それが一つの映像として成立する奇跡、その奇跡が作り出すスパイダーマン同士の共演。二次元と三次元の垣根も越えるアニメーションは現代の黒船来航とも言える衝撃で、3DCGで手描きの質感を再現できるか否か、というレベルを超えている。『スパイダーマン』の共演だけではなく、それを成立させているアニメーションそのものが見どころです。

 

そんな最高にクールな映画の続編がついに公開、しかも二部作。あの続きを、彼らのその後を、見ることができる。いやしかし、あれ以上の進化を望めるのか?自分は果たして満足できるのか?「一作目の方が良かったな」なんて思ってしまないか?

 

という期待9不安1の状態で、劇場に行ってまいりました。

 

Spider-Man: Across the Spider-Verse: The Art of the Movie

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。) 

 

 

 

 

 一作目のポイントは、スパイダーマン同士の「共感」にあったと思います。彼らがスパイダーマンになった経緯、スパイダーマンになってからの経験。「世界でたった一人のスパイダーマン」だった彼らにとって、叶うことのなかった秘め事の共有。同じ経験をして、同じく乗り越えた人の存在を知ることができたのは、彼らにとって救いだった。孤独感とそれ故の幸福感。「良かった、一人じゃないって分かって」というペニー・パーカーの台詞はスパイダーマンだからこそ、『スパイダーバース』だからこその情動に満ちていました。

 

そして二作目である本作ではどうだったのかと言うと、救いだったはずの「共感」が転じて「運命」として襲いかかってくるという物語になっていました。

 

一時的な共演だからこそ気付くことのなかった、もしくはスルーできた「同じ経験をした、ではなく、同じ経験をすることになるとしたら?」という問いかけをすることは、続編において必然のようにも思えるし、それを描いていることに非常に好感を持てました。(スパイダーマンたちからすれば迷惑な話ですが)

 

本作では、スパイダーマンたちに共通する経験を「カノンイベント」と定義しており、運命という概念は世界を維持する為に重要な要素として捉えられています。そしてスパイダーマンたちがそのカノンイベント=運命を経ることが、世界の維持に繋がると説明されます。

 

主人公マイルス・モラレスは、多数を救う結果に繋がることを理由に、父親の死ぬ未来・運命を受け入れるよう迫られます。スパイダーマンたちがマイルスを説得しようとするこのシーンは、「みんな経験してきた」という励ましだったはず言葉が彼らを縛りつける言葉に転換されていくものでした。しかし、「こうしたスパイダーマンの運命を作ってしまった一因は、観客である自分にもあるのではないか?」という疑問が湧いてくる。スパイダーマンの力を手に入れ、大事な人の死を経て、人々を助ける。そんな「親愛なる隣人」の物語を手を替え品を替え繰り返し作られた、自分はそれを観て(読んで)楽しんできました。「カノンイベントを回避し続ければ、世界が崩壊する」趣旨のミゲルの説明は、逆を言えば、作り手と観客が繰り返してきたことで数多くのスパイダーマンの物語が存在するのだし、同時に彼らを運命(物語)を縛り付けている。だからこそ、パンクの「資本主義の象徴」という台詞は心にブッ刺さる。流石パンク、画面を飛び越えて観客に届く台詞を言ってくれる。

 

ミゲルやパンクの台詞を踏まえると、「大切な人を救うな」とマイルスを説得するスパイダーマンたちの構図に観客である自分が完全に無関係とは思えない、メタ的には寧ろ、スパイダーマンたちに「そうさせている」真の黒幕とも言える。そう考えると、他のスパイダーマンたちを単に「マイルスにとっての障害」と見なすことができない。

 

「楽しいスパイダーマン作品が観たい。でも彼らには幸せになって欲しい」というスパイダーマンたちからしたら矛盾した我々の願いが観客という立場を喪失させ、どうすれば良いのか分からなくなっていく。救いであるとも言えたマルチバースの世界観に、不幸になることが正しい道筋のように語られることへの疑念が渦巻いていく。

 

だからこそ、そうした中でマイルスが提示する答えは、観客を導く指標として輝き、彼の放つ電撃・アクションが痛快なものに感じられる。「親愛なる隣人」スパイダーマンとしての最初の原動力として物凄く真っ当で「そうでなくちゃ!」と思わされる。

 

しかし、そんな中で、マイルスを噛んだ蜘蛛が別の次元の蜘蛛であった事実が明かされる。マイルスがスパイダーマンになったことそのものが、マルチバースを不安定にする原因の一つであった。それは、マイルスは自分の世界にいようがいまいが、スパイダーマンになった時点でイレギュラーな存在であり、マルチバースとは切っても切り離せないということを意味する。

 

目の前の人を助ける、というシンプルだったはずの話が複雑になる中で、更に、マイルスがスパイダーマンになった代わりに「スパイダーマンが誕生しなかった世界」と、そこに生きる別のマイルスも登場します。人助けを以て、スパイダーマンになる運命を受け入れてきたところに、「スパイダーマンになったことによって、救えなくなってしまった世界が有ったとしたら?」という問いが投げかけられる。

 

そうした混乱の中で本作の幕は降りるのですが、正直、スッキリするかと言われれば、諸手を上げてYesと言うことはできない。マルチバースの行く末、メインの敵であるスポットの阻止(と言いつつ、ここでようやく名前が出てくる程度の存在感。そりゃあスポットも怒る訳だ)、マイルスの父親は死んでしまうのか(いや流石にそれは無い…はず)など、あらゆる問題が解決されていない。

 

しかし本作は素晴らしかった。それはスパイダーマンとしての原動力を、マイルスは勿論、登場するスパイダーマンたちが示していたからです。

「場所は分からない、でも探し方なら分かる」「これだけは分かる、友達を失いたくない」

これらの台詞に象徴されるように、答えは分からないけど、何を指針に動くべきなのかを本作では示している。

 

スパイダーマンの「親愛なる隣人」という呼び名は、手が届く範囲で人々を助けるスパイダーマンのヒーローとしての在り方・精神性を表しています。手が届く範囲でという一方で、糸によってその範囲を極限まで拡張していく。糸が建物に届くことで街を自由自在に移動することができるし、糸が人々に届くことで助けることができる。スパイダーマンの糸は、スパイダーマンの手でもあります。

 

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しかし糸で手の届く範囲を広げることはできても、全てに届くわけではありません。なんでもできるようで、なんでもはできない。物理的な限界を可視化されるから、それを変えようとする姿に共感する。だからこそ、届いた時の嬉しさ、届かなかった時の悲しさを感じる。

 

本作では、グウェンが伸ばした糸をマイルスが切って逃げていくシーンが印象的です。糸を伸ばしたグウェンはマイルスには行ってほしくないように手を伸ばしているように見えるし、糸を切るマイルスはそれを拒絶して手で振り払っているように見える。そうしたキャラクター同士の関係性を感じられる。

 

そうした糸の飛ばし合いから生まれるスパイダーマンたちの思いの交錯。そこから浮き彫りになる彼らの葛藤。それらが、スパイダーマンたちの指針を雄弁に語っている。

 

そうした葛藤ひいてはスパイダーマンとしての原動力を感じさせる存在として、前作以上の存在感を放っていたのがグウェン・ステイシーでした。彼女の親友を殺したと勘違いしている父親と関係が拗れてしまい、一度は自分の世界・父親の元を去り、逃げ込むようにスパイダーソサイエティへ参加するグウェン。マイルスの味方になる、でもスパイダーソサイエティに居続けるために積極的にマイルスの手助けができない。そうした葛藤の中で、結局は自分の世界へ帰されてしまう。しかし、マイルスとの再会の中で勇気をもらい、父親と話し合ったことで父親の思いを知り、「友達を失いたくない」という自分の思いも明確になる。そうして彼女が仲間を集いマイルスを助けに向かうシーンで本作の幕を引きます。

 

本作における事態解決には至らない幕引きであっても、これほどの満足感に満たされながら劇場を後にできました。それは『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』に近いものを感じる。鬼殺隊における継承する者・される者たちの在り方を鬼の断絶した在り方と対比することで、主人公たち人間が何を以て鬼を倒すのかを明確に描いています。物語の結末までたどり着いたと錯覚するほどの明確なそれは、物語がここで終わりでも良いと思わず考えてしまうほどの満足感を与えてくれました。

 

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これほど明確なクリフハンガーを設けている以上、本作が「これで終わりでも良い」とまでは流石に言えませんが、本作で完結しないことへの不満を感じさせず、次作への期待を膨らませるものでした。

 

前作では先輩ヒーローという立ち位置の側面が強かったグウェンが本作では、彼女自身の悩みや葛藤が物語の動向にダイレクトに繋がっていく作劇はとても良かった。本作で主となるマイルスは混乱の渦に巻き込まれていくからこそ、もう一人の主人公と言っても過言ではないグウェンの存在は大きかった。

 

本作では父親になったピーター・B・パーカーもまた、マイルスとの出会いをきっかけに前に進めた一人。本作の子育て中・親バカ全開の言動とビジュアルは、一見コメディリリーフに全振りのように思ってしまうが、「お前に会えたから!」と振り絞るように発せられるピーターの叫びは、「今はそれどころではない!」という思考で頭が一杯になったところに、不意にブッ刺さしてくる。子供であるマイルスに出会い、子供との交流を体験したからこそ、親になる決意ができた。ピーターにとって、子供が産まれた今の幸せがあるのは、マイルスがスパイダーマンになったおかげなのだ。

 

本作で初登場のスパイダーマンに焦点を当てよう。2099(彼の場合は正確には違いますが)、パンク、ジェシカ・アンドリュー、みんな良かったけど、中でも一番グッときたのは、スパイダーバイトことマーゴ・ケスです。

 

マイルスがゴー・ホーム・マシーンで元の世界に帰ろうとするシーンで、マイルスとマーゴの目線が合うカットには、物凄く情動の嵐が吹き荒れていました。劇伴は激しく劇的である一方で、2人の各カットは物凄く静的。マイルスが眼だけで何を訴えていて、マーゴは何を感じていたのか。手に取るように分かるこのシーンでは、スパイダー「バース」だからこその共感が炸裂しまくっており、とても良かった。

 

マルチバースで別の世界に繋がることができたから、つまりはマイルスがスパイダーマンになったからこそ、救われた・前に進むことができた存在であるグウェンたちが、チームを組みマイルスを助けに向かうラストは、混迷を極める中でも、確かな一歩を強く感じることができた。

 

「親愛なる隣人」という言葉は、スパイダーマンと市民との繋がりを象徴する言葉であるが、『スパイダーバース』においては、スパイダーマン同士の繋がりを象徴している。マイルスにとっての親愛なら隣人たち助けにいく瞬間は、ラストを飾るのに相応しい幕引きと次作へ向けたスタートを見事に両立しており気分は最高潮の状態で次作のタイトルを目にすることができる。

 

 

 

 舞台を拡張しながらも、芯の部分の魅力を損なわず拡張した部分と密接に連動している。そして「楽しいスパイダーマン作品が観たい。でも、観客の都合を超越(ビヨンド)した結末へ辿り着いて欲しい」という矛盾した観客の願いを叶えてくれるのではないかと感じさせれる。スパイダーマンの良さを存分に味わえたと思えると同時に、控えている次作への期待が膨らむ一作でした。

 

次回が早く観たいと思いつつ、今は最新作と呼べる期間が定められた本作の魅力にどっぷりと浸りたいと思います。