モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

張り詰めた空気の中の「笑い」に揺さぶれ惹きつけられる<鎌倉殿の13人/感想>

 10月から放送していたTVアニメの放送が終わったり、特番により毎週放送しているバラエティがお休みになるなど、年末の香りを感じ始める12月中旬、1年に渡り描かれてきた物語が幕を閉じました。

 

NHKにて放送されていた大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。最終回が18日(日)に放送された本作は、人を殺すことが今以上に身近な時代で生きること、争わずして収めること、盃を交わした仲間との繋がりを保つこと、それらの難しさが描かれてました。そして、同時に描かれていた、何とかしようと踠き苦しみ、遂には折れてしまった者の物語。彼が抱いた希望と、もたらされた報いには、彼が戦った過程と結果があったからこそ感じる優しさや悲しみなど、一言では言い表せないほどの思いが込められていました。

 

そんな本作において、物語を感じる上で重要な要素となっていたと感じた部分を含め、物語の終盤について書いておきたいと思います。

 

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 本作の特徴は、人の生き死にがかかる話が続く物語でありながら、ユーモアを交えている点です。脚本を担当した三谷幸喜さんによる部分が大きいと思われる「笑い」が、本作を観賞し登場人物たちに感情移入する上で、非常に大きな役割を果たしていたように思います。観ていて思わず箸を動かす手が止まってしまうほどの緊張感漂う中で唐突に差し込まれる一見場違いな「笑い」は、安らぎをもたらすだけではなく、時にはエグ味の詰まった残酷さを強調していました。

 

作中の「笑い」によってもたらされるのは、登場人物の破顔または動揺の顔。登場人物にとって想定外のことにより崩される表情。そのから垣間見える彼らの内面こそが、より身近な生きた人間に感じられる。階級、勢力、家など、強いしがらみが彼らの顔を建前で覆い尽くし、場合によっては、それが拭えなくなって、元々どんな顔だったのかも分からなくなってしまう。そうした仮面を取っ払ってくれたのが、「笑い」でした。

 

舞台も登場人物も過去のもので、遠い存在のように思えてしまう。彼らの生活、仕事、身に付けているもの、口にするものなど、何もかもが違います。そんな中で「笑い」は、建前をなくし(ているように感じさせ)、彼らの思いを感じ取るランドマークとなってくれました。

 

最終回「報いの時」にて、「女子(おなご)はキノコが好き、というのは嘘だ。」と平六に伝えられた時の小四郎の表情は、最終話に至るまで小四郎の顔を覆ってきたあらゆるものが溶け落ちていくように見えて、とても印象的でした。その前、小四郎と平六の関係が最悪の形で終わることを予感させる展開からの、毒ではなく酒だと種明かしされ平六が「あ、本当だ。」とケロッとして見せる描写も相まって、懐かしさと安堵を強く感じました。

 

観ているこちらが思わずずっこけてしまいそうになる間の抜けた描写・やりとりが、気の張り詰めた中で不意打ちのように訪れる。相手の裏をかき不意をつくことが、あらゆる勢力・人物の間で行われていた本作ですが、その番組自身は、視聴者に対して「笑い」で不意を突いてきます。ある意味では、『鎌倉殿の13人』と視聴者の戦いの一年であったようにも思えます。

 

そうした戦いの中心にいたのが他ならぬ小四郎であり、最も感情移入をさせられたのも彼でした。初代・鎌倉殿である源頼朝が亡くなって以降、ことが起こった際、小四郎が誰かを討ち取らずに済むようにあちこちに根回しをしていましたが、その努力は水泡に帰す。そうした経験を重ねるうちに、いつしか小四郎の心は折れてしまい、誰かを切り捨てることで、ことを納めるようになってしまう。そうして遂には自らの命を以てことを納めようとするにまで至ってしまった小四郎を繋ぎ止めてくれたのが、姉である政子でした。第47回「ある朝敵、ある演説」で見せた小四郎を救わんとするための政子の演説。初めは取り繕うとした建前を取っ払い、戦うことを呼びかける政子の姿と、その時に見せた小四郎の表情は心を打つものでした。

 

そして、最後に小四郎が命を落とす最後の一手を打ったのも、姉である政子でした。一見すると矛盾しているように思えますが、一貫していることは、小四郎だけに重荷を背負わせないこと。小四郎がやってきたことを見てきたからこそ、心が折れてしまったこと、それでもまだ息子に託すという形で完全には諦めていないこと、そのために自らが全てを背負ってこの世を去ろうとしたことを理解していた。だからこそ、弟である小四郎一人に背負わせることはさせまいと、小四郎の命を永らえさせない選択をした。

 

政子のその思い、そうせざるを得なかった現実、その全てに感動させられました。

 

 

 

 「笑い」により時に救われ、時に突き落とされるなど、揺さぶりを受けてきたこの1年。その最後を飾るのが笑いではなく政子の悲しみであったことが、心に突き刺さる作品であった『鎌倉殿の13人』。視聴を止めてしまおうと幾度となく思いましたが、「笑い」で引き出される人の情、そこから紡がれる人の優しさを感じることができて、最後まで見届けて良かったと思いました。

 

 

 

映画の中に広がる世界、その世界と現実をつなぐ映画<映画大好きポンポさん・感想>

 映画が好きだ。映画を観るのが好きだ。映画を映画館で観るのが好きだ。

 

視界一杯に広がる大画面。耳どころか全身を振動させるような大音量。映画以外の情報をシャットダウンする閉鎖された空間。

 

そうした、映画にしかないもの、映画館でしか感じられないものを感じるために、これまで映画観賞が趣味だと言っても差し支えないだろうと思うくらいには映画館に足を運んできました。そしてこれからも、映画館に足を運ぶのだろうと思います。

 

そんな中で最近、「何故、映画が好きなのだろう。」と思う事があります。迫力のある映像・音を大画面・大音量で楽しむ、という理由は勿論です。それがテレビではなく映画館で観るようになった理由だし、これまでは、それが一番の理由だと思っていました。

 

しかし、何度も映画館へ足を運び、何度も大画面・大音量で楽しむ経験を繰り返していくと、慣れていきます。半券を片手に圧迫感のある空間内を歩いて座席に座る、そうした非日常的な体験が少しずつ日常的になっていきながらも、絶え間なく公開されていく新作が少しずつ日常を更新していってくれる。それを求めて映画に足を運んでいるのだと思っていました。

 

でも、自分が映画を映画館で観ることを続けてきた理由は、それだけではなかった。「何故、映画館へ足を運ぶのか。何故、映画を観たいのか。何故、映画が好きなのか。」そうした問いに対する答えを教えてくれた映画が『映画大好きポンポさん』でした。

 

 

 

映画大好きポンポさん

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 本作のあらすじは以下の通り。銀幕の申し子と呼ばれるジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット(プロデューサー。以下、ポンポさん)。そして彼女の横でアシスタントとして働くジーン・フィニ(映画マニア。以下、ジーン君)。予告編の編集等で頭角をあらわしていたジーン君が、ポンポさんの新作「MEISTER(マイスター)」の監督に指名されることになり、初めて制作者という立場から映画と向き合っていくことになる。

 

本作で特筆すべき点は、ジーン君の映画作りの過程が、「何故、映画が好きのか。」という問いに対する回答になっていたことです。作り手が作品の完成形を模索し、悩み、苦しむ。その過程を経て、作り手の想い・執念が作品に染み込んでいく様子が、雄弁に語っています。

 

自分が作っている作品の中に自分の存在を見出す。そうすることで、作品の中で交わされる会話や描写の一つ一つが自らへの問いかけ、自らの想いの吐露へと変貌していき、作品を通じて伝えたいこと、伝えたい相手が定まっていく。

 

そうした作り手が自らの経験を土台にした作品とのやり取りを行うことで、作品が完成する。そして、そうしたやりとりは作り手だけではなく観客も行なっている、ということを描いているのが素晴らしい。

 

監督やプロデューサーを始めとする作り手が、制作の過程で他の作り手の成果物を見聞きする。制作者の間でインプットとアウトプットを相互に行うことで、個々の制作者自身が予期しない映画が最終的にアウトプットされる。色んな技術・考えを持つ作り手たちが共同で一つの作品を作るから、総合芸術である映画だから、映画を作る立場でありながら未知の映画に出会うことができる。それこそが、「MEISTER」の脚本を書いたポンポさんが、完成した「MEISTER」に感動することができた理由です。

 

映画と向き合い、何かに感情移入し自分を見出す。作り手が映画と向き合いアウトプットし、観客もまた映画と向き合いアウトプットする。そうしたことが可能なのは他の情報をシャットダウンし集中力を求める映画館だからこそとも思う。勿論、作り手のアウトプットと観客のアウトプットが必ずしも一致することはない。しかしだからこそ、映画の形・捉え方が豊かになり、沢山の人の心に届く。

 

ポンポさんは、ナタリーから受けたインスピレーションから「MEISTER」の脚本を書き、リリーというキャラクターを生み出しました。ポンポさんにとって作品の中心はリリーです。対して、ジーン君にとって作品の中心はリリーではなくダルベールという別のキャラクターでした。映画を作る人間として、音楽と向き合う彼に感情移入し、彼の物語を指針に映画の取捨選択を行い、脚本にはなかった物語を追加した。その結果として、同じく映画を作る人間であるポンポさんの心を打つ作品になった。

 

この作品でポンポさんは、映画作りにおいて絶対的な存在として登場しています。スタッフやキャストの能力を見分ける審美眼を持ち、どんな映画でも一級品に仕上げてみせる。更には、作品の宣伝や売り上げといったマーケティング、関わった人間の生活などの部分まで思慮が及ぶ隙のなさ。そうして面白い作品を「自分で作れてしまう」が故に、自分の想像を超える作品を観たことがない。感動したことがない。

 

だからこそ、そんなポンポさんに感動させる本作のラストは感動的であると同時に痛快なのだ。そうした痛快さが集約されるラストシーンには、思わず拳を握らずにはいられませんでした。

 

 

 

 痛快さと完成度が非常に高い本作。しかし本作のとんでもない点は、そのラストカットの後、エンドロールで更にその高さにブーストがかかっていくことです。本作のエンドロールで流れる映像の中に「映画大好きポンポさん」という映画を『映画大好きポンポさん』のキャラクター達が撮影している」様子を収めた映像があります。実写のような撮影はないはずのアニメで、キャラクター達が撮影をしたという体の映像は「『映画大好きポンポさん』が公開されたこの世界にポンポさんたちが生きている」という想像を誘発させられる。

 

実際に作られた『映画大好きポンポさん』とポンポさんたちが作った「映画大好きポンポさん」を意図的に混同する・されることで、ハリウッドを模した架空の舞台ニャリウッド、そこで映画を作るポンポさんやジーン君たちの存在が現実のことのように感じられる。

 


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ジーン君やポンポさんたちが「映画大好きポンポさん」を撮った、という想像の解像度を高めてくれる主題歌のMV。映画と観客の世界を繋いでくれる。

 

また、本作の中で語られた映画作りの理論や趣向が実践されている。上記で述べた混同を踏まえると、ポンポさんを感動させるという本筋の痛快さを増幅させている。「映画大好きポンポさん」という作品が、誰に向けて作られたのか。それに対する回答となる演出の数々は、作り手の思いが作品に投影されることの尊さを映画を題材にしている本作の物語の解像度を高め、実感させてくれます。

 

 

 

 作品を通じて、作り手の思いや考えを感じると同時に、自分のことを見つめて、映画を通じて得られた体験を現実に持ち帰る。映画と映画だけに向き合う映画館という空間を自分が好きな理由は、そうした対話を求めているからなのだと、本作を観賞して思いました。そして、多くの人の手によって作られる総合芸術としての魅力・尊さを気づかせてくれた本作が大好きです。

 

最後に本作の一番気に入っているところを述べます。

それは、上映時間が90分であることです。

 

 

目一杯の祝福をエアリアルに<機動戦士ガンダム 水星の魔女/感想1>

 ガンダムへ、モビルスーツへ、ロボットへ、乗ることに子供の頃は憧れていました。パイロットスーツを着て、ヘルメットを被り、コックピットに座って、操縦桿を握る。劇中でキャラクターたちの色んな操作とロボットの動きを見て、「このボタンを押せば、これが作動する。操縦桿を前に出してペダルを踏めば、前に進む。組み合わせれば、こんな複雑な動きができる。」と想像を膨らませていました。

 

格好良い乗り物として憧れていた自分が、ロボットへ、モビルスーツへ、ガンダムへ、エアリアルへ、一乗り物ではなく一キャラクターに対して感じるものに近い感情を抱いていることに、動揺し、また、感動しています。

 

HG 機動戦士ガンダム 水星の魔女 ガンダムエアリアル 1/144スケール 色分け済みプラモデル

 

 2022年10月2日(日)午後5時、『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第1話が放送されました。2017年4月までに放送されていた『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』から約5年ぶりに放送されるガンダムシリーズの最新作。劇場版や配信などの他媒体での展開や、ガンダムのプラモデルを題材とした『ビルドシリーズ』の誕生など、シリーズ全体としては途絶えることなく展開していたものの、メインストリームの位置付けとなる作品としては久しぶり、満を辞しての放送となります。

 

そんな本作は放送開始に先駆けて、前日譚となる『PROLOGUE』が配信・放送されました。人がモビルスーツに乗り相手の命を奪う、これまでに観たガンダムシリーズの作品のように、人の死が描かれる物語。だからこそ、これまでのイメージを払拭するガンダムの姿がとても印象的でした。

 

遠隔操縦の武装ガンダムに初期から装備されていたり、ガンダムに乗る主人公が女の子であったり、シリーズに定着していたイメージを見直すような設定が随所に確認されます。また、シリーズの顔である、モビルスーツガンダム」。その再定義は、多くの作品を積み上げてきたガンダムシリーズならではの見所であり、特に、題材や媒体の多様化により楽しみ方が大きく広がってきた近年のガンダムシリーズを踏まえると、その期待はより大きくなりました。

 

『水星の魔女』の名を冠して訪れる一つの回帰が、自分へどんな懐かしさと新しさをもたらしてくれるのか。そんなワクワクを胸に放送当日を迎えました。

 

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 生身の人間が歩く通路とモビルスーツの顔が同じ高さになっている学園の構造。代理闘争の様相を呈している決闘などの学園のシステム。巨大なロボット・戦争がより生活へ地続きに感じられる世界観からは、「学園が舞台のガンダム」ならではの軽快さとその中で見え隠れする世界の重苦しさを同時に感じさせられました。

 

前日譚である『PROLOGUE』との繋がりを感じさせる展開の一つ一つは、人の死や戦争の匂いを濃くしていました。だからこそ、そんな大人の世界へ一矢報いる主人公のスレッタとエアリアルたちの姿、第1話終盤の決闘シーンにて、ガンビットという武装を自分の身体の一部のように扱う姿に感動しました。

 

しかし、今回の感動はこれまでのガンダム作品・ロボットアニメとは少し異なるものでした。搭乗者のドラマを感じさせるものとしてロボットが機能していたのは勿論ですが、同時に、そのロボットを1人のキャラクターとして認識させられたことで、その感動が複合的なものになっていました。

 


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 第1話において最も感動した場面は、前述の通り、終盤の決闘でエアリアル(スレッタ)がガンビットを動かすシーン。装甲だったガンビットが、身体から分離し、集まって一つの盾になり、再び分離して一斉に掃射する。この一連のガンビットの動きが、エアリアルの身体の一部のように見えました。

 

ガンビットの滑らかな動き、それを一部としているエアリアルの在り方が、ガンダムの存在を否定した世界を動かしたことによるカタルシスがあったこと。もう一つは、エアリアルに人格があったことです。

 

感動した一つ目の理由は、エアリアルの姿が人類(≒ガンダム)の可能性を体現していたことです。本作では、欠損した身体を補う義肢というだけでなく人間が宇宙の過酷な環境に適応するための技術として、GUND(ガンド)という身体機能拡張技術が存在します。そしてその技術が用いられて造られたモビルスーツがGUND-ARM=ガンダムと呼ばれています。『水星の魔女』におけるガンダムは、人間の能力を補う義肢の延長としての存在であり、宇宙へ進出している人類にとって未来の可能性を象徴する存在です。

 

義肢のように後天的に取り付けるものでありながら自分との境界線は限りなく曖昧になり、身体の一部となっていく。ガンダムに搭乗し操縦することを、車や戦闘機などの乗り物の延長として捉えるのではなく、自分の身体の延長のように捉えていることが本作の特徴です。

 

『PROLOGUE』では、GUNDとガンダムを創り上げた人たちが登場します。人類が過酷な環境の宇宙で生きていくために必要なGUNDに、人類の未来を救ってほしい。創った人たちの希望が託されていました。しかし、ガンダムの存在を危険視する人たちによって、ガンダムは否定されて幕を下ろします。

 

存在することを否定されたガンダムが大地に立つ。否定されたGUND、ビットを身体の一部のように操る。人が元来持ち得ない能力をガンダム(GUND)によって身に付け、宇宙に立つ。GUNDが目指すものを体現しているエアリアルが否定した人間たちが作り上げた決闘で勝つからこそ、カタルシスが生まれる。

 

 

 

 二つ目の理由について。ガンダムと搭乗者との新しい距離感を持っている本作ですが、それを印象付けるものの一つが、エアリアルが想い・意志・人格を持っていることです。

 

実際に声を出す訳ではありませんが、第1話ではスレッタに言葉が通じてる描写があったり、『PROLOGUE』では博士がスレッタへの説明に「生まれたての赤子」という表現が用いられていたりと、エアリアルは意志を持っていることが印象付ける描写が確認できます。

 


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先程はガンダムは身体の延長として捉えていると述べました。しかし、そのガンダムにも人格があります。ここで思うことは、自分という領域はどこまでのことを指しているのか、ということです。肌や爪、髪など先天的に備えているもののみを指すのか、それとも、身に付けたりしている服や使っている道具も含めて自分なのか。そうした認識は人それぞれですが、自己の境界線をどこに引こうとも、必ずしも思い通りにならないことが共通しています。先天的に持つ身体も、病気を患うなど、自分が意図・予期しない状態になってしまう。まるで自分とは異なる意思を持っているかのように。

 

自己の拡張であると同時に異なる意思を持つ。盾にもなり身体の一部にもなるガンビット、それを操るエアリアルはスレッタを守る存在でもあるし、彼女の一部でもある。そんな曖昧な存在をエアリアルは象徴しているように思います。

 

曖昧ではあるけれど、だからこそスレッタとエアリアルの繋がりが強固に感じられると同時に、一つの在り方を確立しているエアリアルとスレッタの姿が尊く思える、

 

人が先天的に持つ身体だけではできないこと、人の身体の一部のように滑らかに淀みなく動かしていること、その二つを両立しているガンビットの動きに感動しました。

 

 

 

 

 ガンダムの否定から始まった『機動戦士ガンダム 水星の魔女』。ガンダムの新たなる可能性、人類の可能性をどのように見せてくれるのか。今後の展開が楽しみであると同時に、もはや一キャラクターとしか認識できないエアリアルが心配で仕方がありません。

 

スレッタへの祝福を胸に抱くエアリアル。目一杯の祝福を君に。

 

 

 

祝福

 

空想と現実。その狭間を一直線に翔る巨人に涙する。<シン・ウルトラマン/感想>

 『シン・ウルトラマン』に求めるもの。リメイクに求めるものは何か。特撮に求めているものは何か。『ウルトラマン』に求めているものは何か。

 

それは『ウルトラマン』というコンテンツに触れた時代、触れた媒体、触れた作品によって異なるものであり千差万別です。自分が『シン・ウルトラマン』に求めるものは「現実に存在するウルトラマンの姿」です。

 

 2019年12月15日日曜日。開催された円谷コンベンション2019にて、『シン・ウルトラマン』の姿が発表されました。

 

 

公開されたウルトラマンのデザインは、リメイクすることの意義を感じさせるものであり、同時に作品の方向性をこれ以上にないほど雄弁に語っているものでした。オリジナル制作当時できなかった事、変えざるをえなかったもの。あらゆる制約、特に物理的な制約から解放されたウルトラマンが楽しみでした。

 

2016年に公開された『シン・ゴジラ』がそうであったように、長い歴史で定着したハプラックイメージが取り除かれ、初邂逅のような体験を作り出してくれるのではないか。宇宙人然とし良い意味で親しみやすさのない彼の姿からは、そんな期待をさせてくれました。「このテイスト、アプローチでウルトラマンを観てみたいな。」と思った自分の需要を狙い撃ちするかのようなタイトルとウルトラマンの姿からは、期待の二文字が浮び上らざるをえませんでした。

 

そして結果として約2年半の時を経て、遂に公開された『シン・ウルトラマン』。その間にも大きく世相が変わった現在で、50年以上前に誕生したウルトラマンがどのように降り立つのか。確かめるため、観てきました。

 

 

シン・ウルトラマン音楽集(通常盤)

 

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 観賞までに期待を膨らませる中で思っていたことは、「そもそも、制約から解放された表現とは何だろう。」ということ。例えば飛行の仕方は、どんなポーズであれば正解なのだろう。ウルトラマンの肌はどんな質感なんだろう。デザインした人や関わった人たちは、着ぐるみのスーツのような質感がウルトラマンの肌の質感だと考えていたのでしょうか。

 

物理的制約から解放されたVFXという表現手段がある中で提示されたものは、着ぐるみのスーツのような質感であり、周辺の建物なども模型のような質感で表現されていました。

 

特撮作品において、ウルトラマンや怪獣が登場する特撮シーンとそれ以外の生身の人間が登場するシーンに分けられます。特撮の面白い点は、その分けられている二つのシーンが時に接続することで、現実と空想の境目が曖昧になる瞬間です。

 

空想の起点は現実である。故に現実との接続が強固であればあるほど空想の強度が上がります。だからこそ、自分が眺める日常の風景にウルトラマンや怪獣の姿を頭の中で投影してしまうことがあるし、そうした想像は楽しいです。

 

ニュージェネレーションと呼ばれている近年のウルトラマンの作品において何が素晴らしいのかというと、そうした日常の風景への投影、現実との接続が高いレベルで行われていることです。ウルトラマンや怪獣が立つセットの中で撮影される空想の世界と、その他で撮影される現実の世界。その2つを繋げる映像や演出が高いレベルで行われています。

 

ウルトラマンが人の領域(実写の風景)に入ることがあれば、逆に人がウルトラマンの領域(セット)に入ることもある。空想(特撮)と現実(実写)の境目が不明瞭になる瞬間をいくつも用意することでウルトラマンと人間のドラマが連動し、大きな興奮と感動の波を作り上げてくれます。

 

自分が最も好きな変身シーンがある『ウルトラマンゼアス2』もまさにそうした理由からだと、今になって思います。勝人兄ちゃんが変身しウルトラマンゼアスが飛んでいくまでがシームレスに描かれている。そうした接続があるからこそ、それまでの勝人兄ちゃんの成長がそのままセットの中で戦うゼアスの成長と必殺技に昇華されていました。

 

しかし、現行のTVシリーズウルトラマンのそうした接続が高い水準で行われていたとしても、「着ぐるみと模型がどこからどう見ても100%本物に見える!」とまでは言えません。(凄く言いたいですが。)あらゆる創意工夫が施された映像・演出であっても、「本当にウルトラマンがいたらこうだろう。」という空想と現実が100%融合した映像にはなりません。着ぐるみや模型を用いた現行のTVシリーズウルトラマンが実現していることは、ウルトラマン(空想)と現実の接続であって、ウルトラマン(空想)と現実の融合とは異なります。

 

人が住む街の中にウルトラマンが立ったり、ウルトラマンが立つ模型の中に人がいたり、それらを織り交ぜることで、模型が並ぶセットが本物であると感じさせ、そこに立つウルトラマンもまた本当に存在していると観ている者に思わせてくれる。ですがそれは、本物に「感じられる」アプローチであって、本物に「見える」アプローチとは違うと思っています。

 

近年のVFXの技術の向上で、空想の物が現実のものと並び立つ事が決して珍しいことではなくなった現在。限りなく本当に存在するかのように見える映像技術がある中で、『シン・ウルトラマン』に目指して欲しかった映像は、本物に「見える」映像なんです。刹那的な接続により空想が現実味を帯びる映像ではなく、継続的な接続によって現実と空想の境界線が完全に不明瞭になった映像が見たかったんです。

 

これだけ大きな規模で制作される機会は限りなく少ないことも、そういった思いを強めていると思います。50年前に出来なかった表現は勿論ですが、現行のウルトラマン作品では出来ない表現も観たい。ハリウッド大作のような、と言うと酷ですが、でも着ぐるみと模型メインの表現では出来ない映像を観たかった。

 

そういった意味で言えば、着ぐるみや人形のように感じるウルトラマンと怪獣の質感や模型然としたウルトラマンと怪獣が戦う空間が表現されていた『シン・ウルトラマン』という作品は、自分が求めていた映像は観られなかったと、断定するほかありません。

 

 

 

 

 

 

しかし、

 

 

 

 

 

 

だけど、

 

 

 

 

 

 

それでも、

 

 

 

 

 

 

自分は空を飛ぶウルトラマンの姿に感動したんです。

 

 

 

 

 

 

 大切なのは、『シン・ウルトラマン』が物語る上で理にかなった表現になっているのか、着ぐるみのような質感が、人形や模型を想起させる表現が、ウルトラマンの物語を描くことに寄与し情動を作り出しているのか、ということです。私は最後のウルトラマンが飛ぶシーンの中で、理が見出され、感動しました。

 

ザラブ戦にて、空中で組み合っていたウルトラマンがザラブに吹き飛ばされた直後、一直線の飛行体勢をとりました。他にもウルトラマンの飛行シーンを見ていると、あの往年の人形っぽさを感じる姿勢は、ウルトラマンにとって最も飛行が安定する姿勢であり、体勢を維持及び立て直すのに最も適した姿勢だったということが伺えます。一直線の姿勢を取ることは、アイアンマンが空中にて両手のリパルサーでバランスを取ることであり、吹き飛ばされたスパイダーマンが体制を立て直すために壁や天井に向けて糸を飛ばすアクションに相当するものだと解釈できます。

 

最後に抗いきれず吸い込まれてしまうウルトラマンのシーン。あの体勢の堅持は、何よりも、「ウルトラマンの生きる意志」を感じさせるものでした。そしてそこから繋がるウルトラマンの行動の総括とも言えるウルトラマンゾフィーの場面。人間と融合を果たしたことで生まれたウルトラマンの変化、人間性の獲得、その象徴としての生きる意志。ウルトラマンという存在をリセットし人類を守ってくれる存在として再定義するまでの物語として、そこに繋がるウルトラマンの意志の表現として、涙を禁じえませんでした。

 

長く続くシリーズ、定着した表現、それらが表現上の制約により生まれたものであったとしても、再解釈を経ることで意味を見出す。自分はそうした表現を望んでいました。本作のそうした堅持した表現、意地悪な言い方をすると特撮に固執した表現が、結果として意味を生み出し感動を与えてくれたのかも。神永さん(ウルトラマン)の台詞を引用するなら「そうではない、だが結果的にはそうだと言える。」なのかもしれません。

 

表現の幅、選択肢がVFXにより広がったことで、それでもあの表現を選択することの意味が浮き彫りとなり物語ることへ繋がっていました。そうして生まれた感動は、紛れもなく50年以上前に作られた『ウルトラマン』という作品の再解釈の結果として生まれたもの、本作から生まれたものでした。そしてそれは私が観たかったものだと断言する。いや…断言したい。

 

 

 

 本作の観賞を終えた直後の感想というか、後味は『シン・ゴジラ』に近いものでした。作品の世界から現実に戻って来たかのような、それは単に作品の上映が終わり、明かりがつき、劇場を後にする、ということではなくて「作品をどう受け取りどう生きていくのか。」ということを作品を媒介して考えさせられる。活動が止まったとはいえゴジラの巨体が東京の真ん中で残された状態で幕が閉じた『シン・ゴジラ』。ウルトラマンに命と希望を託されて幕が閉じた『シン・ウルトラマン』。日本人・人間が、背負った・託されたものの重さを感じる幕引きに通じるものを感じました。

 

空想の起点は現実である。だからこそ、空想の先で見えた希望や託されたものが、現実で生きる力を自分たちに与えてくれるのだと思っています。そして『シン・ウルトラマン』は私にとって正にそんな作品でした。

 

 

 

空想特撮、私の好きな言葉です。

 

 

 

『劇場版ウルトラマンZ ご唱和ください!我らの名を!』への夢想。<ウルトラマントリガー エピソードZ/感想>

Zライザー「TAIGA!TITUS!HUMA!」

 

ハルキ「ゥオオオッッッッッッッス!!!!!」

 

Z「ご唱和ください!我らの名を!!!

  ウルトラマンズェエエエエエエエエッッッッット!!!!!」

 

ハルキ「ウルトラマン!!!ゼーーーーーーーーッッッッット!!!!!」

 

Zライザー「ULTRAMAN Z!EPSILON STRIUM!」

 

(約十秒間 沈黙とZの姿を収めるカットの数々)

 

ご唱和ください 我の名を!

ご唱和ください 我の名を!

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ウルトラマンZ』の放送終了後、定期的に繰り返される劇場版の夢想。初めから劇場版は予定されてなかったからこそのテレビシリーズ終盤の出し惜しみを感じない展開と幕引き。だかれこそ、劇場版が無いことに対して不満はありません。それはそれとして、劇場版というifをシミュレーションすることは楽しいのです。

 

口上を引用したサブタイトルとか、Zの偏差値の低さが露呈してしまうトライスクワットとのやりとりとか、タイガスパークに興味津々のユカさんとか、特空機をはじめストレイジの規模大きさに驚くヒロユキくんとか、皆んなの前に姿を現しそうで結局現さないけど良い塩梅で暗躍してくれるジャグラーとか、暗躍の形跡からヘビクラ隊長の手助けを察するストレイジの面々とか、諸々のやりとりから再確認するタイガ勢の絆の盤石さとか。

 

自分の頭の中で完結する夢想、テレビシリーズという有終の美が侵されることのない夢想。そんな夢想の一部が現実にしてくれるかもしれないのが『ウルトラマントリガー エピソードZ』です。『ウルトラマントリガー』のテレビシリーズの後日譚であり、『ウルトラマントリガー』の終わりのエピソードとなる一編。同時に、ウルトラマンZとの共演でもある本作。

 

主であるのはウルトラマントリガーでありながら、ウルトラマンZから話を始めるところからお察しいただけるかと思いますが、熱量が高いのはどちらかと言うとZの方です。そもそも『ウルトラマントリガー』は自分にとってリアルタイムでは初めてのウルトラマンである『ウルトラマンティガ』が25周年であることを大いに意識して作られた作品です。「リメイクなのかリブートなのか続編なのか。ティガが姿を変えた存在なのか。」という思考の海に身を沈めていたせいか、なんとなく作品に対して一歩引いた目線で観ていました。テレビシリーズで特に楽しめたエピソードもウルトラマンZが登場した第7・8話とウルトラマンリブットによるウルトラギャラクシーダンスが繰り広げられた第14・15話、そしてウルトラマンティガが顕現した第19話と、所謂客演エピソードと呼ばれる回でした。

 

対して『ウルトラマンZ』はニュージェネレーションシリーズと呼ばれる近年のウルトラマン作品の中で最も没入して楽しむことのできた作品です。特撮作品という枠を超えて、映像作品としても自分の中で上位に入ります。時勢の影響で仕事が大変だった時にとても勇気付けられたことも相まって、思入れの強い一作です。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

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そんな訳で『エピソードZ』は『ウルトラマントリガー』の終わりのエピソードというよりは『ウルトラマンZ』の新しいエピソードとして楽しみにしていました。そうして観賞したのですが、結果はあまり心穏やかなものではありませんでした。

 

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 色々言いたいことはありますが、特に気になったのはZとハルキの扱いです。Zとハルキ、彼らは二人で一人のウルトラマンであり人格は別なのですが、その良さが全く生かされていないと思いました。Zが一人で話す場面は殆どなく「どうしたハルキ?」とか「頑張れハルキ!」など、ガヤの範疇を出ない台詞ばかりで、仮に人格が一つだったとしても物語が成立してしまうほど、Zの存在感が非常に薄かったです。

 

テレビシリーズでは人格が二人だからこその作劇を存分に活かされていて、そこが『ウルトラマンZ』を最高にしていた要素の一つです。例えば、上記の記事でも書きましたが、必殺技の時の掛け声です。必殺技の名前を叫ぶZ、気合の掛け声を叫ぶハルキ。本来別々の存在であった二人を象徴するかのような、分担された掛け声ですが、最終話の、最後の一撃では、必殺技も気合の掛け声も、二人で叫びます。ハルキと同じように「チェストォオオオ!!!」と言っているのだろう、今までに聞いたことのないようなZの唸り声が、光線を放つ刹那にZの顔にハルキの顔が重なって見えたのと同じくらいの感動と興奮の渦が生まれていました。(そして駄目押しのように繰り出されるZ字型の光線。)

 

人格が別であるが故に繰り出せるやりとりやドラマがあった筈で、それが皆無だったこと残念で仕方ありません。『劇場版ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!』におけるウルトラマンXは、変身アイテムを解体されそうになったり、「ガイさん=オーブ」をうっかりバラしそうになったり。別の作品という新風が吹くことで生まれるやり取り、客演の魅力がその作品ではありました。

 

それは『ウルトラマントリガー』テレビシリーズの第7・8話でやっていて、新しい変身アイテムの使い方が分からず誤射をするハルキと足を怪我するZという、まさに客演ならではの新たなやりとりがあったわけです。だからこそ、今回のZの存在感の薄さはとてつもなく気になってしまいました。

 

今回のZの扱いへの不満は『ウルトラギャラクシーファイト』『劇場版ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス』におけるウルトラマンXの扱いにも通じるものです。上記二作品では、Xは一言も喋らないどころか、掛け声すらもう一人が代替していました。まるでXは傀儡になってしまったのかのようで、その違和感が最後まで拭えませんでした。今後もそういう扱いになるのであれば、人格が別れているタイプのウルトラマンはやめるべきではないかと思ってしまいました。(もしくは、『ウルトラマンタイガ』のように別れるエンドか。)

 

もう一つの不満点は、『ウルトラマンZ』のテレビシリーズで倒した相手に逆に一矢報われることです。しかも後輩ウルトラマンであるトリガーに助けられるという先輩ウルトラマンの面目丸つぶれの状態になってしまいます。Zとハルキのキャラからして必ずしも後輩を引っ張っていく必要はないですが、(と言いつつ先輩風を吹かせてくれると感激する。)足を引っ張って欲しくなかったです。『ウルトラマントリガー』のテレビシリーズ第7・8話のように、背中を見せるだけで後輩ウルトラマンの指針になりうるような先輩ウルトラマンとしての風格を見せて欲しかった。

 

 

 

ウルトラ特撮 PERFECT MOOK vol.40ウルトラマンZ ウルトラ特撮PERFECT MOOK (講談社シリーズMOOK)

 

 

 

 他にも破れかぶれで登場するデストルドスへの落胆や、Zがやってくる理由なんて「ガッツスパークレンスを返しに来た。」でもいいだろいうという思いや、いろいろ気になることはある訳ですが、別世界のウルトラマンが共演することで生まれる化学反応を魅せて欲しかったことに尽きます。今後の先輩後輩ウルトラマンの共演が、形式的なもの以上の価値を生み出してくれることを祈っております。

 

 

 

暗部への疑心と恐怖。閉塞的な不可知の中でも繫ぎ止める存在が希望を照らす。<THE BATMAN −ザ・バットマン−/感想>

 あらゆる情報の取得と発信が容易にできるようになった代償として、情報に対する信頼が揺らぎ、情報の真偽を見極める嗅覚が個々に求められるようになった現代。所謂暴露を目にすることが増え、自分が試されているかのような場面に直面する機会が増えたと思います。そこに追い打ちをかけるかのような新型コロナウイルス感染症の蔓延。マスクを着けて表情は見えにくい、画面越しでのやりとりで意思疎通も行いにくい。

 

そんなネガティブなことに思考を巡らされる作品が『THE BATMANザ・バットマン−』です。活動を始めて2年目のバットマンブルース・ウェインが、疑心と恐怖に満ちたゴッサムシティで様々な権力者の嘘を暴いていく知能犯リドラーに迫っていく姿を描いた本作。現実との結びつきを強く感じるこの作品を観てきました。

 

The Art of the Batman

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 全編に渡って刷り込まれる暗部への疑心、そして恐怖。その中で人を繫ぎ止める存在が紡がれていたこと、その儚さと尊さを感じさせる物語りに素晴らしく胸を打たれました。

 

本作は上映時間が176分の長尺ですが、気になりません。長尺でも許容できるパターンは、「あっという間に感じる」か「長く観ていたいと思う」かの二通りだと思いますが、本作は後者です。一つ一つのカットが見応えがあり飽きることがないし、寧ろこの長尺こそがゴッサムシティを包み込む閉鎖感と重苦しさ、ひいては作品が導き出す結論のカタルシスを強めることに寄与していました。

 

そんな本作の舞台であるゴッサムシティは、権力者もそうでない者も、上も下も共に悪いことをしているような最悪な場所です。誰が敵なのかも分からないし、何を信じていいのかも分からない。疑心と恐怖に満ちています。不可知ゆえの閉鎖感が、映像から、物語から漸進的に伝わってくる。

 

そしてバットマンの登場もまた、不可知ゆえの緊張感と恐怖に満ち溢れていることが印象的です。バットマンが居るのか居ないのかを問わず、暗闇に怯える犯罪者たち。そんな彼らを容赦なく制圧していくしていくバットマン。犯罪に手を染める者にとってバットマンが恐怖の象徴であると感じられる描写の数々、そのインパクトは凄いものでした。

 

そうしてバットマンとして活動するブルース自身(=ブルースの両親)の秘密にも知能犯のリドラーのメスが入ります。バットマンとして在る自分の土台である両親の存在にさえ疑心を抱いてしまいます。

 

そんなブルースを繋ぎ止めてくれたのが、執事であるアルフレッド。父親は息子であるブルースを守るために行動していたこと、その結果は意図しないものであったこと、それらがアルフレッドの口から語られます。彼の言葉を聞き、手を握る。

 

様々な過去の事実に翻弄されてきたブルースを繋ぎ止めてくれた存在が、証拠のある真実ではなく目の前にある大切な存在だった。それは本当に胸を打つものでした。

 

そしてブルース=バットマンが人々に手を伸ばし先導する。ゴッサムシティの暗部を長い時間をかけて徹底的に印象づけた先で描かれるものが、目の前にいる人々に手を伸ばし助ける、というヒーローとしてごくシンプルでプリミティブな在り方だった。更にその助ける人の中にいたのがブルース自身と似た境遇であった子供であったことも良かった。

 

 

 

 暗部への疑心と不可知への恐怖。その中でも自己を繋ぎ止めてくれる、希望を与えてくれる存在は、手を差し伸べてくれる者だということ。本作を経て生じるバットマンの在り方の変貌は、そんな希望を照らしてくれるような物語だったと思います。本作は、真偽の不確かな情報で溢れる世界の中で、一つの指針を示してくれるような作品でした。本当に良かったです。

 

 

 

現実に肉薄するアニメーションの顕現。アニメーションの未来を切り開く絶望の三部作の幕開け。<機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ・感想>

 平面が立体に、二次元が三次元に、画の連なりが映像に。物理的には存在しない物への立体感と質量の付与、それを実現する技巧と技術、挑戦それ自体が見応えと魅力に転じる。アニメーションの特徴であり強みです。本物に近づけることを志向しながらも実写になることはない、だからこそ、リアルか否かという尺度に囚われない楽しみ方ができます。情報量を増やすことで実写に肉薄しながら、実写とは全く異なる質感や構図でアプローチする。「まるで実写(本物)のよう。」の「実写では観られない。」の両立、物理的には存在しない表現方法だからこその魅力です。

 

そんな魅力を体現した作品が『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』です。一作目『機動戦士ガンダム』の放送開始から40年以上も継続し映像作品に限らない様々な展開がされている人気シリーズの最新作。かつて戦いを繰り広げたアムロ・レイシャア・アズナブル。その二人の背中を見た青年、本作の主人公であるハサウェイ・ノア。地球連邦政府を相手にテロを行う彼の姿を本作では描いています。

 

HGUC 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ ペーネロペー 1/144スケール 色分け済みプラモデル

 

ガンダムシリーズのメインストリームである宇宙世紀。そこを舞台とした物語の最新作というだけではなく、『機動戦士ガンダム』の生みの親である富野由悠季さんが執筆した小説を原作とした本作。そして何より、本作を監督するのが『虐殺器官』の村瀬修功さんという事実が、作品への期待値を大幅に高めます。実際にカメラで撮ったかと錯覚する映像の数々、実写ではないのに引き出される生々しさと臨場感。「このアプローチで作られたガンダムが観てみたい。」と思わせられる魅力に溢れた作品が『虐殺器官』でした。

 


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一見の価値ありの作品ですが、テーマは重く又グロテスクな描写が有るので、観賞の際はご注意を。

 

実写に肉薄しない、立体的に嘘をつくことで発生する表現の余地。そこにメリハリと見栄を差し込むことで、嘘を魅力に転じさせる映像。

実写に肉薄する、立体に忠実にすることで増加する表現の情報量。手描きであるはずなのに実際に撮ったかのように見える映像。

どちらの場合であっても、そもそも本物ではないと一目で分かるからこそ、それが本物のように動いているように見せる技巧・技術自体が見応えと驚きを生んでくれる。

 

実写に肉薄することは、SFの世界のような荒唐無稽なものにリアリティや説得力を与えてくれます。ロボットアニメと特撮の魂をハリウッドの映像と愛で具現化してくれた『パシフィック・リム』、ヒーローという存在を世界観の構築から説得力を生み出してくれたマーベル・シネマティック・ユニバースや『ダークナイト』などがあります。

 

自分にとって好きな作品が「現実でもあり得る。」と一瞬でも思わせてくれる。夢や空想の世界の肯定、それこそがリアルか否かという尺度から解放されながらも、実写のような質感のアニメーション作品を渇望する理由の一つだと思います。(本当にその世界になって欲しいかどうかは、また別の話です。)

 

既存の作品には説得力が無いということではなくて、SFなどのような、現実にはない世界が描かれた作品を観た時、「現実だったらどんな風に見えるんだろう。」と考えてしまう癖のようなものです。期待や渇望はそういった考えが蓄積した結果によるものです。だからこそ、長く続いたシリーズ(長く触れてきたジャンル)であればこそ、その渇望も強くなるのだと思います。

 

幾度となく想像したモビルスーツと呼ばれる巨大ロボットが存在する世界。『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』という映画は、如何にその世界を顕現させ、「現実でもあり得る。」と思わせてくれるのか。非常に楽しみにしておりました。

 

2018年末の時点で「Next Winter」と発表しながら知らぬ間に2020年7月公開になり、更には新型コロナウイルス感染症の影響で最終的に2021年6月まで延期した本作。(感想書くと言いながら、いつまで経っても書き終えなかった自分のことを棚にあげる。)『虐殺器官』の時と同様、度重なる延期を重ねた本作が見せてくれるガンダムの世界は一体どんなものか。公開初日、餓死寸前の状態で劇場に行ってきました。

 


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(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 上に立っただけで建物を壊すほどの重く硬い巨体。その巨体を飛ばすための噴射で燃える木。その巨体が放った熱の塊で溶ける町。外れた弾、落ちる銃、殴り合う機体。その全てが人の何十倍も大きいが故に、その全てが災害となって人々に襲いかかる。

 

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[Alexandros] - 閃光 (English ver.) - Animation MV - YouTube より

 

眼前で繰り広げられる惨事とは裏腹に昂る気持ち。悲しいのか嬉しいのか、判別がつかないほど強い情動。

 

ディテールを突き詰めた果てに顕現するモビルスーツが存在する世界。それは紛れもなく、自分が渇望していた「実写に肉薄したロボットアニメーション」そのものでした。その世界で紡がれる物語もまた、実写に肉薄するからこそ生まれる生々しさがあり、その生々しさが主人公ハサウェイ・ノアを物語ることに付与していたことが素晴らしかったです。

 

実写への肉薄、それによって語られる物語、この2点について書き記しておきたいと思います。

 

 

 

 実写みたいな映像というと情報量の多い映像だと思うのですが、映像のどういった部分に情報量の多さを感じるのか。それは立体的なカメラワークです。当然、実際にカメラで撮影しているわけではありませんが、画面を構成する被写体の動きが観る側にカメラの動きを錯覚させます。擬似的なカメラの動きのことを便宜上カメラワークと呼びますが、そんなカメラワークを立体的に感じることができる、画面に移る被写体とそれを見ている自分との間の距離を感じられる、自分(カメラ)がその作品(空間)の中の何処に立っているのかが分かる。今の回り込みは自分(カメラ)が回り込んだのか、それとも被写体自身が回ったのか。それが判別できること、被写体の動きと自分(カメラ)の動きが分離されていること、それが自分にとって実写みたいな映像だと感じる基準の一つです。

 

カメラが少し動けば、映るものも少し変わる。建物の陰に隠れていた部分が顔を出し、逆に写っていた部分が陰に隠れる。立体的であれば当たり前のことを3DCGを活用して高い精度で表現することで立体感を出しています。

 

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[Alexandros] - 閃光 (English ver.) - Animation MV - YouTube より

 

背景美術が立体的に動いているように見せる「カメラマップ」という手法を用いることで、絵が立体的に動くだけではなく、手描きのキャラクターとも馴染んで違和感がありません。

 

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『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』予告1 - YouTube より

 

実写にはないアニメーションの利点は、物理的には存在しない物であるため、狭い場所でも物理的な制約にとらわれない点です。立体的なだけではなく、狭い空間でありながら、カメラワークとアクションをダイナミックにしており、コックピットの外で繰り広げられるモビルスーツのアクションから乖離せず、躍動感と臨場感をコクピットの狭い空間でも実現しています。

 

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『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』予告2 - YouTube より

 

本作で登場するガンダムは元々映像化を想定していないデザインであり複雑であったため、作画で動かすことは非常に難しかった。しかし、3DCGを用いることでそれをクリアするだけではなく、複雑でダイナミックなアクションを実現しています。

 

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[Alexandros] - 閃光 (English ver.) - Animation MV - YouTube より



 

 実写に肉薄したアニメーションが浮き彫りにするモビルスーツと人のサイズ感の違い。本作が素晴らしいのは、サイズ感の違いを、登場人物の内面を描くことに大きく寄与していることです。

 

サイズ感の違う人型といえば、特撮ヒーローのウルトラマンが思い出されます。自分よりもずっと小さい人を守る存在。存在の大小を問わず助けてくれるヒーロー。その精神性を可視化してくれるウルトラマンの大きさ。それが、ウルトラマンという作品が好きな理由の一つかもしれません。

 

人が持つ視点のスケール感の違いを、モビルスーツと人のサイズ感の違いで表現しています。

 

ハサウェイとタクシーの運転手との会話から感じられる温度感の違い。ずっと先のこと、大局を考えて行動しているハサウェイと、今日明日を生きるのに必死で明後日のことを考えらないというタクシーの運転手。

 

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[Alexandros] - 閃光 (English ver.) - Animation MV - YouTube より

 

非人道的な政策である「人狩り」を実行するマンハンターをどうにかして欲しいとタクシー運転手は言う。その差し迫った問題の根幹にある腐敗。それを正そうとしているのがハサウェイ達なのに、それが伝わらない。「暇なんだねぇ。」「学があり過ぎるんですよ。」と言われてしまう始末。

 

それでも既存の体制・仕組を変える方法を見出せないが故に、武力に訴えるしかないハサウェイ。そんな彼の行動を理解、とまでは行かずとも、そこに「清廉さ」を見出してくれるのが敵であるケネスのみという皮肉。強く訴える手段であるはずの「武力」が、その強さ故に本来の主張を霞めてしまう。1000年先のことを考えた主張が、刹那的な暴力に矮小化されてしまうという本末転倒。

 

テロリズムの虚無感や徒労感を徹底的に描かれる本作。表出した問題をどうにかしても根本的な解決にはならない、かといって、その根本的な解決に肉薄するには、それ自体が問題に捉えられてしまうほどの強い手段を用いるしかない。その現実を受け止めて行動を起こすハサウェイの姿を描いているのが本作であり、そんな刹那さが『閃光のハサウェイ』というタイトルに内包されているように感じます。

 

連邦政府の腐敗や人々との断絶、世界に存在する歪みが集約されていると言えるのが、主人公のハサウェイです。そんな彼の歪みが顕在化しているのがダバオでの戦闘シーン。先のことを考える者たちと瞬間瞬間を生きている者たちの対比を、モビルスーツで戦う者たちと戦いに巻き込まれる者たちの対比によって可視化しています。

 

しかし、ここでおかしいのは、戦う側であるハサウェイが、何故かダバオ戦では戦いに巻き込まれ、街の人々と一緒に逃げていることです。戦う側とそうでない側の決定的な断絶を描きながらも、そうでない側にいるハサウェイの矛盾。彼の内面が如何に壊れているのかが感じられる場面の一つです。

 

歪んだ精神を抱えたハサウェイがガンダムに乗り込み、ペーネロペーが戦う終盤。ハサウェイが乗るΞ(クスィー)ガンダムもまた、ハサウェイの歪んだ精神、矛盾した内面を表しています。

 

ハサウェイは、アムロ・レイシャア・アズナブルの二人の姿を見ていますが、前者は胸部にコックピットがある機体に、後者は頭部にコックピットがある機体にそれぞれ乗っていました。そしてハサウェイが乗るコックピットは何処かというと、"頭部のようなデザインの胸部"です。特徴的な黄色いアンテナ、額と口の赤いパーツ、ガンダムの頭部を想起させるパーツが配置されています。

 

ハサウェイ自身はアムロのような在り方を志向しているが、実際は、シャアのやり方に沿っている。そんな彼自身の内側と外側の乖離を表しているように感じられるデザインになっています。

 

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『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』予告2 - YouTube より

 

ちなみに、Ξ(クスィー)ガンダムのデザインは、劇場公開まで伏せる予定だったとのこと。確かに、ペーネロペー戦で顔が明らかになるまでのシーンは、胸部が頭部であるかのようにミスリードさせる意図を感じます。

目指したのは“脱ガンダム”『閃光のハサウェイ』Ξガンダムデザインの裏側|シネマトゥデイ

 

これほどまでに断絶と閉鎖感を感じさせる状況であり、また自身も大きな歪みを抱えながらも、それでもガンダムに乗り込み戦う。これまでのガンダム作品には感じたことのない切なさが今回の初陣にはありました。

 

 

 

 現実味を感じさせるほどの圧倒的なディテール。そこで描かれる生々しい人間と社会の在り方。その先にあるガンダムの初陣は、これまでのガンダムシリーズでは感じたことのなかった手触りのものになっており、この先に待ち受ける結末への不安を煽るものになっていました。

 

モビルスーツのいる世界を視覚的にだけではなく、その閉鎖感も含めて現実に肉薄してみせた本作は、間違いなくガンダム作品の中でもベストの一作です。残り二作品がどのような作品になるのか、とても楽しみに、そして気長に待とうと思います。