モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

大いなる舞台で描かれる親愛なる隣人の大いなる終幕に涙する。<スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム/感想>

 スパイダーマン in MCUマーベル・シネマティック・ユニバース

 

キャプテン・アメリカ シビルウォー』予告編にて発表された大ニュース。考えもしなかった展開に歓喜し、同時に湧き上がる『アメイジングスパイダーマン』シリーズ終了宣言への寂しさ。思えばMCUスパイダーマンは複雑な心境を抱えながらの始まりでした。そして今、幕開けと同じく、複雑な心境で終幕を見届けることになりました。

 

2002年に公開された『スパイダーマン』から始まり、今まで継続してきた実写版スパイダーマン。その新作であり、MCUスパイダーマンの完結である『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が公開されました。

 

終わってほしくない気持ちと終わりを見届けたい気持ち。そんなジレンマを抱え余裕のない中で投下される過去のヴィランズの登場の一報。『アベンジャーズ:エンドゲーム』に続く語彙力喪失系映画に可能性を秘める本作に対し一作では収まらない思いや緊張感を抱えながら、意を決して劇場に足を運びました。

 

 

 

Spider-Man: Homecoming (Original Motion Picture Soundtrack)

 

 

 

 MCUスパイダーマンは新しかった。これまでにトビー・マグワイア演じるスパイダーマン(以下トビースパイダー)とアンドリュー・ガーフィールド演じるスパイダーマン(以下アンドリュースパイダー)、2人のスパイダーマンが活躍してきました。その中では2人とも、『ミッションインポッシブル』よろしくNO BACKUPでやってきました。スーツをはじめとする道具は自分でアップグレードし、登場するヴィランや遭遇する事態には時には市民などの力を借りることはあれど、主に1人で対処してきました。

 

孤軍奮闘が常だったスパイダーマンMCUを舞台にどう活躍するのか。ヒーローが他にもいるという意味で孤独ではないスパイダーマンはどうなっていくのか、ワクワクさせるには十分な要素でした。

 

中でも特筆すべき点は、失敗できてしまうこと。失敗しても他のヒーローにカバーしてもらうことができます。一作目『スパイダーマン:ホームカミング』では船を沈没させかけたところをアイアンマンに助けられました。対して、以前のトビースパイダーとアンドリュースパイダーは、他のヒーローに助けてもらうことはありません、他にヒーローはいないから、スパイダーマンにしかできない。だからこそ、スパイダーマンの孤独さと切なさが際立ち、その中で大いなる責任を果たそうとするスパイダーマンの姿に胸を打たれてきました。

 

しかしトムホスパイダーの世界MCUにはアイアンマンをはじめ、数多くのヒーローが存在しています。寧ろ、先人のヒーロー憧れ、模範にし、師を仰ぎます。更に、協力してくれる友人や恋人もいる。孤独感から程遠いキャラクター像がトムホスパイダーの特徴であり、今までには無かった実写版スパイダーマンとしてと魅力的でした。

 

作中一の富豪による超バックアップが付いているスパイダーマン。慣れない高所にビビるスパイダーマン。スイングが上手くいかないスパイダーマン。住宅街を走り抜けるスパイダーマン。他にヒーローが存在するMCUという世界観だからこそ許容される「洗礼されていないスパイダーマン」。かつての2つのスパイダーマンの誕生譚では見ることがなかったスパイダーマンの在り方でした。

 

二作目『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』で描かれた継承もまた、他にヒーローがいるからこその展開です。慕っていたヒーローが亡くなるだけでなく、そのヒーローが背負っていたものの一部を継いでいかなくてはいけない。親愛なる隣人が、あらやる意味で隣人でいることを脅かされていく。

 

 

 

 他のヒーローがいる世界ならではの道を歩んできたトムホスパイダー。他のヒーローにヒーローの在り方を説かれ導かれ、そして継承してきた前二作品。その次に描かれる物語で他のヒーローであるドクター・ストレンジとの衝突が描かれたことは、これまでは導かれるがままだったスパイダーマンが自分なりのヒーローを在り方を確立したことを示しています。だからこそ、非常にMCUスパイダーマンらしい展開だと思いました。

 

マクロな視点から主張するストレンジに対して、ヴィラン達を助けるというミクロな視点から主張するスパイダーマンもまたスパイダーマンらしい。

 

スパイダーマンらしさから逸脱するMCUらしさ、そのMCUらしさから更に浮き彫りになるスパイダーマンらしさ。そんな応酬が3(+3)作途切れることなく行われてきたことは、「スパイダーマン in MCU」に意義を見出してくれていたと思います。だからこそ、本作『ノー・ウェイ・ホーム』で行われたスパイダーマンらしさの回帰にもまた、大いなる意義が見出されたのだと思います。

 

 

 

 トムホスパイダーをスパイダーマンらしさへ回帰させる過去作のヴィランズとスパイダーマンズとの邂逅。親しい者の命が奪われるというスパイダーマンの運命をヴィランズ(特にグリーンゴブリン)がもたらし、その運命への向き合い方をスパイダーマンズが教えてくれます。

 

MCUらしさの極致とも言えるマルチバースによってスパイダーマンらしさの回帰がもたらされる。スパイダーマンの課された運命の持つ引力とMCUという流れからの離脱、双方を同時に感じる展開には膝を打ちました。

 

スパイダーマンの物語の始まりは、トビースパイダーもアンドリュースパイダーも共にベンおじさんの死から始まっています。本作では、その展開をメイおばさんの死によって代替されます。

 

メイおばさんを殺したグリーンゴブリンを怒りのままに殴り殺そうとするトムホスパイダー。トビースパイダーとアンドリュースパイダーと違うのは、本作が一作目ではないということです。3(+3)作品に渡り活躍する中で力の使い方を学び、アイアンマンの死を経てヒーローの在り方確立しました。

 

それでもなお、メイ伯母さんの死に直面して激情を抑えることができなかった。初めはそこに納得できなったのですが、よくよく考えてみると師であるアイアンマンも『キャプテンアメリカシビルウォー』で激情を抑えることができませんでした。ヒーローとしての成熟が、必ずしもそういった成長とイコールではない。

 

3人で共闘する中で、トビースパイダーとアンドリュースパイダーが、かつて助けられなかった人を助けます。それは彼らにとって救済であるのと同時に、「彼らの死は無駄じゃない。」ということの実践に思えます。そしてトムホスパイダーが振り上げた拳を止めるトビーピーターの姿。彼の激情を沈めるのには、あまりにも強すぎる説得力です。

 

そして激情を抑えるトムホスパイダー。このバランスで良かったのだと思いました。

 

 

 

 

 前述したトビースパイダーとアンドリュースパイダーがこうして再び登場してくれたこと。そして成せなかったことを成し遂げること。それらを観られた本作には感謝の念は絶えません。MJを助けてもアンドリュースパイダーの恋人であったグウェンは戻ってこない、その切なさも含め見せてくれたことは本当に良かったです。

 

「親愛なる隣人」という二つ名のとおり、他のヒーロー以上に身近な存在であると感じられるスパイダーマンが、あれから10年近く経過した今でも、変わらずヒーローとして頑張っていてくれている。その光景を目の当たりにすることは、「彼らもまだ頑張っている。」とこれ以上になく勇気付けられる。再びあの姿を見られたことが本当に嬉しかったです。

 

 

 

 これまで描かれてきたスパイダーマンの孤独さ。それをMCUで積み上げてきた繋がりを全て断つことで表現してしまうラストの展開には心底やられました。MCUの物語が空っぽになったことを象徴するかのようなピーター(=スパイダーマン)の部屋がこれ以上になく悲しい。でも同時に、だからこそ、そこからニューヨークの摩天楼へ跳び立っていくスパイダーマンの姿にこれ以上になく感動させられます。

 

かつて大義を選択して命を落としたトニー(=アイアンマン)の姿が重なるピーターの最後の選択は、繋がりこそは絶たれてしまったものの、ピーターの中には間違いなくMCUの物語が生きていることを感じさせてくれます。

 

トビースパイダーとアンドリュースパイダーの一作目が街中を跳ぶシーンで締められているのと同じように、MCUという舞台をまたいだ大いなる誕生譚の終わりと始まりを象徴するラストシーンだったと思います。

 

 

 

 MCUという複雑な舞台で語られるスパイダーマンアイデンティティ。それを経て辿り着いた大いなる再スタートは素晴らしかったです。再び親愛なる隣人の姿を見られる日が来ることを楽しみにしています。

 

 

 

AIの感情を浮き彫りにする愛の物語。未来を明るく照らすアイの歌声に涙する。<アイの歌声を聴かせて・感想>

 友〜達〜欲〜し〜〜〜〜〜〜い!!!!!

 

 急にどうした?と思われるかもしれませんが、まさにそんな主人公のファーストインプレッションから始まるアニメーション映画が『アイの歌声を聴かせて』です。監督は『イヴの時間』の吉浦康裕さん。主人公・シオンの声を演じるのは土屋太鳳さん。そしてもう一人の主人公・サトミの声を演じるのは福原遥さん、その幼馴染・トウマの声を演じるのは工藤阿須加さん。そして小松未可子さん、興津和幸さん、日野聡さんといった実力派声優が脇を固めます。

 

イヴの時間』で一度AI(人工知能)を題材の作品を作り出した吉浦康裕監督が、新作で再びAIを題材に作品を作り出す。『イヴの時間』から10年以上の時が経ちAIがより身近な存在になった現代で新たに描かれる「人とAIの物語」がどんなものか、非常に楽しみ劇場を後にする頃には、作品の放つパワーに完璧にやられていました。

 

 最後にきっと、笑顔になれる――。

 

公式HPのイントロダクションに記載されているこの一文に偽りなしの傑作の誕生。作品に流れている価値観。その価値観から放たれる最高のクライマックス。そこから感じたことをしっかりと書き残しておきます。

 

 

アイの歌声を聴かせて (講談社タイガ)

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 本作で特筆すべき点は「進化したAI(人工知能)=人」という価値観から脱却した物語を展開し、共存の可能性・希望を示してくれたことです。

 

人の指示など様々な情報から人の考え方・価値観を学習し模倣する事で人間らしい思考を獲得していく。それを積み重ねていった結果、もしくはその過程で人と同じように感情も芽生えていく。そうしてどんどん人に近づいていき、遂には人にしか思えないレベルにまで到達する。更には見た目さえも人にしか見えなくなっていくことで人との境目が限りなく曖昧になった時、必ずと言っていいほど突き当たるのが「AIを人と同等の存在として認めるべきか否か。」という問い。

 

 近年でAIを題材とした作品で思い出されるのは『Detroit: Become Human(デトロイト ビカム ヒューマン)』や『仮面ライダーゼロワン』です。どちらも今では人間が従事している仕事にAIを搭載したロボットが従事している世界が舞台になっています。その中で、人がAIに仕事を奪われたことでAIに反感を持ったり、逆に感情を持ったAIが人と同じ扱いを受けないこと(人の支配下にあること)に不満を持つことで発生する様々な問題が描かれています。

 

 

 

そういった作品において、観る側として常に感じていたことは二点あります。

  • 人に限りなく等しいAIを尊重したい思いと、AIによって起こってしまう悲劇を避けたい思いのジレンマ
  • そもそも意思を尊重すると言っても、それは人の所有物として許される範囲内で?それとも人として?

 

特に『仮面ライダーゼロワン』では、後者に疑問について主人公のスタンスが明確にならない、そもそも番組(物語)がそこまで踏み込んで描けなかったことにモヤモヤを感じていたことは否めません。

 

人と同じように考えたり感情を抱くAIが、与えられた命令(仕事)から離れて人と同じように生きる自由を望んだ時どうするのか。そもそも、感情を持ったAIはそんな自由を望むのか。自分の人口知能に対する知識の少なさも相まって、AIという題材に対して八方塞がりのような印象を抱いていました。「気持ちの良いハッピーエンドはあり得ないのではないか。」と。

 

この先、自分たちの生活にAIが根付いていくのだと実感する日々。いつか直面するかもしれない問題へのポジティブな回答を提示してくれる作品を渇望していた中、風穴を開けてくれたのが本作『アイの歌声を聴かせて』でした。

 

それを最も感じたのは、シオンの救出する過程でシオンのボディを捨てたことです。トウマの「シオンはAIだからボディは逃がさなくてもいい。」という提案に則ってシオンのデータのみを逃がします。その後も誰もボディが無くなったことを嘆いたり取り戻そうとはしません。当のシオンも、手に入れたボディを使ってサトミに直接会えたことに喜びはしても、ボディに固執することしないし、決して「サトミたちと同じ人間になりたい。」とは願わない。

 

あくまでAIのシオンにとって人型のボディは、サトミに直接会い歌を歌うための道具・手段にすぎなかった。AIだから人型の身体(ロボット)は後で戻せばいい(治せばいい)、ではなく、AIだから人型の身体(ロボット)は必要ないという発想。目から鱗でした。

 

本作におけるAIのシオンや人間のサトミやトウマたちの在り方は、これまでの作品で突き当たっていた「AIを人と同等の存在として認めるべきか否か。」という問いには辿り着かないものでした。自分の中で停滞していたAI観を一歩勧めてくれるような回答を本作は提示してくれました。

 

 

 

 上記で述べた閉鎖感はAIに限った話ではなくて、SF作品でよく感じていたことです。例えば自分が大好きな『ガンダム』シリーズでは、登場するモビルスーツ(ロボット)の活躍に胸を熱くする一方で、登場する技術を用いて大きな争いを起こしたり、技術自体が争いの火種になったりする。勿論全てがそうではないと思いますが、自分が今までに観たSF作品における技術にはネガティブなものを纏っていることが多かった。

 

だからこそ、劇中で「サトミを幸せにする。」ために高らかに歌い上げるAIのシオンの姿はたまらなく輝いて見えるし、自分の中の暗かったSF観を照らしてくれるかのようでした。純粋に物語としてだけでなく、未来を照らしてくれるかのような明るさが眩しく、そして心底嬉しかったんです。

 

You've Got Friends ~あなたには友達がいる~

You've Got Friends ~あなたには友達がいる~

  • 土屋太鳳
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 

 また、本作が非常にクレバーに感じたのが、そういったAIの可能性を手放しに謳うのではなく、AIの特性(一途さとも言い換えていいかもしれません。)故に悲劇を招いてしまう可能性もしっかりと踏まえていることです。

 

トウマの告白のためにサトミを呼ぶ場面におけるホラー演出。その直前に行われるサトミとサトミの母・美津子との会話でAIの危険性を示唆した直後であることも相まって、AIであるシオンの行うことに対して一瞬でも疑念や恐怖心を抱かせる。そうして危険になる可能性がゼロとは言い切れないことを示した上で、AIの可能性を描いていくバランス。

 

そのバランス感覚だからこそ、本作で描かれていくAIの可能性が決して絵空事ではなく、しっかりと地に足のついたものであると受け止めることができる。感動できる。

 

 

 

 また、本作で物凄く胸を打たれたことは、「AIにどうやって感情が芽生えるのか、どうやって本人が自覚するのか。」という思考実験を圧倒的な説得力を以って答えを示してくれたことです。

 

本作は中盤で登場するバックアップの概念を私たちが普段行う写真を撮ることと結びつけています。思い出を写真という形で残すことをシオンはバックアップという形で模倣する。そこでシオンが残したものを通じて、シオンの出自が明らかになるだけではなく、AIのシオンの感情をも浮き彫りにすることに成功しています。

 

だからこそ、物語終盤でシオンが「幸せだったんだね…」と自らの感情を自覚することに揺るぎない説得力が生まれていて物凄く感動しました。

 

 

 

 自分がAIを題材にした作品に求めていたことを言語化してくれたかのような秀逸な物語。その中で、AIの感情に寄り添いながら人とAIの在り方や共存の可能性を示していく。AIの可能性、AIを題材にした作品の未来を明るく照らし出す最高のエンターテインメントである本作を、是非沢山の人に観て欲しいと思いました。

 

繋がりの消失した世界で描かれるストレートな面白さとモヤモヤに向き合う。<シャン・チー/テン・リングスの伝説:感想>

 在り方や見え方が大きく変わっていく世界を描いてきたマーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)に魅了された、2008年から2019年。(もうそんなに経ったんですか…)そんなMCUの変貌を彷彿としてしまう大きな変化があった2020と2021年。作品の受けても送り手も互いに望んだペースでキャッチボールができなくなっただけでなく、映画館か配信のどちらにするのか投げ方も定まらない。そんな中、新たなる第一投である『シャン・チー テン・リングスの伝説』が遂に公開されました。

 

『エンドゲーム』後に誕生したヒーロー(時系列的には厳密には違うが。)という意味で、MCUの新たなスタートとなる一本として、非常に楽しみにしていた作品です。観てきました。

 

 

シャン・チー/テン・リングスの伝説:ザ・アルバム

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 まずはアクションが良かったです。『キャプテン・アメリカ ウィンターソルジャー』を彷彿とさせる早さと手数の多さ、『ブラックパンサー』のようなアクロバティックさ、それらを内包したアクションは気を抜くと目で追う事が出来なくなるほど見応えがあります。それをテン・リングスというアイテムによって拡張されていく終盤は壮快でした。

 

ハイスピードなアクション、テン・リングスを初め情報量が増していくアクションシーン。でありながらも、決して観る者を振り落とす事のないようにしてくれるランドマークの設置もまた凄かった。例えばシャン・チーとデス・ディーラーが戦う場面のクナイ。戦闘開始時に二本持っていたデス・ディーラーからシャン・チーが一本奪い、その後奪い返されるけど再び奪う。そして最後には、デス・ディーラーの首元にクナイを突き付ける。

 

「敵の持つクナイは二つ!こっちは丸腰!まずい!」「クナイを弾いた!取った!凄い!」「クナイを取り返された!手強い!」みたいな具合に、敵に対して優勢なのか劣勢なのか、情報量の多い動きの中でも、戦いの駆け引きがしっかりと理解できます。

 

その少し前のマカオビル横で落とされそうになるケイティを助けに行くシーンも最高でした。ゲームだったら「ケイティを助けろ!」「ケイティのもとへ急げ!」なんてミッションが出てきそうなくらい分かりやすい状況。迫る敵をいなしながら、突き進むシャン・チー。誰かを助けようとするヒーローの姿は、それだけで気持ちが良い。「Coming!」と言う台詞の格好良さが忘れられない。あれを聞くために『シャン・チー』を観賞する価値はあるかもしれません。

 

この理解のしやすさは終盤でも同様で、タイトルにもある武器テン・リングスによって優勢劣勢が理解できます。テン・リングスも型も自分のものにする瞬間を画を見せつけられる瞬間は、勝負の決着をこれほど分かりやすく可視化されるものなのかと感嘆すら覚えるほどでした。更にはそこにキャラクター物語が伴ってくる。父と母から継承したものがアクションの中で可視化されていく終盤の戦闘はカタルシスが凄かった。

 

 

 

 しかし、これだけアクションを楽しめたにも関わらず、何故か引っかかるものを感じてしまいました。作品に完全に乗ることが出来ませんでした。最初は自分でも理由が分からず、どうにか違和感の正体を言語化しようとしましたが上手くいかない。

 

 

しかし他の人の感想も見て改めて考え、ようやく自分の中で整理されてきました。

 

 

 

 『シャン・チー』の世界が「MCUの一部に思えなかったこと」に起因するのではないかと思われます。終盤辺りから登場する舞台、そして怪獣映画の如く暴れる龍達の姿。とてもファンタジックな光景が繰り広げられる中で、あの世界がトニー・スタークやスティーブ・ロジャース、ピーター・パーカーが住んでいる世界から地続きに感じられなかった。『ソー』の舞台のように宇宙ならまだしも、地球を舞台にファンタジーが繰り広げられた事が、その違和感を強めていたと思います。

 

しかし、本作のようなファンタジーな作品は、ソーやドクターストレンジなど、これまでのMCUにもありました。

 

ではこれまでのMCUと比べて今回の『シャン・チー』の違いは何なのかというと、「インフィニティストーンが無い」ことです。『アベンジャーズ エンドゲーム』にて、インフィニティストーンは無くなり、サノスもいなくなりました。この二つの要素はこれまで数多のMCU作品を繋げてきた存在であり、物語の中で起こる事象、用いられる術はそれらから派生したものです。インフィニティストーンを媒介にすることで、世界の繋がりを感じる事ができる。

 

そして何より、インフィニティストーン、ひいてはサノスという物語の目的地が提示されていた事こそが、繋がりを確固たるものにしていたのではないかと思います。

 

アベンジャーズの一作目と二作目の最後に登場するサノスを代表されるように、この物語が進んだ先にあるものは度々提示されてきました。ヒーローたちは如何なる理由でアッセンブル(集結)するのか。一見バラバラの方向を向いているように見える物語でも目的地が同じであり、そこから遡るように作品の繋がりを感じる事ができる。

 

少しずつ近づいていき同じ方向に向いていく実感が、唯一無二と言っていい高揚感を生み出してくれる。『アベンジャーズ  インフィニティウォー』における、ガーディアンズとソーが合流した時の「繋がった」という感覚と高揚は今でも忘れられません。単に「ヒーロー達が一つの画面に収まっている。」というだけではなく、各ヒーローが背負っている作品、流れが集約されていく。様々な部分に生じている作品間の質感の差異も、同じ方向を向いていく事で中和されていく。だからこそ、ヒーロー達のそれぞれの作品が一つの世界の中で起こっているんだと感じる事ができる。

 

そんな目的地を通過してしまった今、自分にとって作品を繋げていた強力な接着剤が無くなってしまいました。だからこそ、『シャン・チー』の世界がMCUの一部だと思う事ができなかった。

 

 

 

 しかし、別にMCUの一作目である『アイアンマン』からサノスやインフィニティストーンが登場した訳ではない。まだ見ぬ新たな出発の準備の段階です。本作はMCUの新たなスタートを飾る作品の一つです。本作は新たなアッセンブル(集結)へ向けた「スタート位置につく」段階の物語なのだという結論至り、ようやく自分の中で腑に落ちました。一作目である『アイアンマン』を想起させる展開等があったのは、再スタートを意識したものだった、というのは考え過ぎでしょうか…?

想起させるといえば、闘技場でシャン・チーが「バスボーイ!」って紹介されていましたが、『スパイダーマン』でピーターが「蜘蛛男」って言ってるのに「スパイダーマン!」って紹介されていた場面を思い出して口角が上がってしまいました。懐かしい。

 

先ほど「トニー・スタークやスティーブ・ロジャース、ピーター・パーカーが住んでいる世界から地続きに感じられなかった。」と述べましたが、「地続き」がキーワードだったんだ、と思いました。

 

MCUの始まりである『アイアンマン』は「現実でも起こり得るんじゃないか。」と思わせてくれる作品でした。自分の世界と地続きだと思わせてくれるリアリティがあるアイアンマンスーツのデザイン、世界観。そしてアイアンマンスーツの変貌に象徴されるように、そうした現実に地続きの世界からから"少しづつ"現実離れした世界に変貌していく。その積み重ねの結果、現実と『アベンジャーズ エンドゲーム』が地続きに感じることができる。初手で同じ世界観が提示される場合では感じる事のできない世界を作り出せた。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

だからこそ、地続きに思わせていたものが無くなった影響は自分の想像以上に大きかったんだと思います。また、自分が地続きに感じていた『アイアンマン』の頃から、地球は割とファンタジックな舞台だったと明かされる事に抵抗を感じていたのだと思います。(色々言いましたが、これが一番ストレートな原因だと思います。)

 

だからこそ、公開が目前に迫っているMCUの次作『エターナルズ』に対して既に厳戒態勢になっている事は否めません。予告編を見る限りだと、またぐるぐる考えてしまいそうな内容ですが、なるべく考え過ぎずに楽しみたいと思う所存です…少なくとも観賞している瞬間は…

 

 

 

 インフィニティストーンやサノスといった存在が、自分にとって如何に世界観を強固に結びつける存在であったのかを痛感させる一作でした。ヒーローの集結と世界観の接続で生まれる面白さを提示してきたMCU。その中でキャラクターが作品を横断する事が珍しくなくなった今、たとえ単独作であっても単体で楽しむものとして認識する事は難しくなっているのではないかと思う。

 

我ながら面倒くさい。先程も結論だなんてもっともらしく言っているが、結局は当たり前のことを言っているだけな気がする。「もっと気楽に見ろよ。」とか「考えすぎだぞ。」とか自分で思わなくもない。しかし、それだけMCUが生活に染み付いてしまった結果とも言えます。そして、あれこれ考えることは楽しいから結果オーライな気もしています。

 

今回のように変に構えすぎたり個人の趣向によって、必ずしも全ての作品や展開が好きになることはないです。でもせめて、「成るべくしてそうなった」と納得したいと思う自分がいます。自分にとってMCUの世界は分岐したもう一つの現実だと思っているからです。

 

色々ぐるぐる考えてしまいましたが、物語もアクションも、その二つの親和性を含めて最高であった事は間違いないです。母の使っていた型、父の使っていた道具、その二つの継承自体がとても情緒的だし。それがストレートに戦闘に反映されていき、遂には一つの偉業を成し遂げる。カタルシスを感じるには十分過ぎるものです。

 

次回作では更にパワーアップしたアクションは勿論ですが、父ウェン・ウーがそうであったように、身体を動かす度にテン・リングスの音を響かせるシャン・チーの姿を是非見たいです。

 

 

 

人造だからこそ、人の創りしもの故に映画から受け取る力<シン・エヴァンゲリオン劇場版/感想>

 7月21日(水)、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の上映が終了しました。それも興行収入100億円突破という快挙を達成して。

 

今だに感染症の流行収束の兆しが見られない状況下で無事に映画が上映されるのか、上映されたとしても劇場に足を運ぶことができるのか。そんな不安に包まれる中で出された「約1週間後の月曜日から上映開始」という突然の発表。新劇場版から数えても14年、テレビシリーズの放送開始から数えるとおよそ26年もの時間が経過したシリーズが遂に終劇を迎える高揚感、それをじっくりと噛みしめる余裕もない困惑感。「エヴァンゲリオンが終わりを迎える。」この事実だけでも十分に記憶に残る作品であったのに、その最後の幕開けもまた、非常に記憶に残るものでした。

 

「この状況下で上映されただけでも儲けもの。」という思いと、「煽りを食って欲しくない。」という思いが混在していましたが、蓋を開けてみれば100億円突破という快挙。本当に凄い。関わった全ての方々に、全力の「おめでとう」を送りたいです。

 

さて、それはそれとして、本作の感想はまた別の話。果たして自分にとって『シン・エヴァンゲリオン劇場版』がどうだったのか。それを記しておきたい。

 

CGWORLD (シージーワールド) 2021年 08月号 vol.276 (特集:『シン・エヴァンゲリオン劇場版』)

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 結論から書くと大号泣しました。それはシリーズの完結に感極まったとか、万感の思いに浸ったからという訳ではなく、本作の終盤の描写に観客へのエールを感じ、いたく感動した訳です。具体的な場面を説明すると、シンジがマリの迎えを待っている場面から最後まで。シンジはマリが迎えに来るのを砂浜で座って待っているのですが、何故かその映像が未完成ものに遡っていきます。映像の色が無くなり、線も下書きになり、完成した映像から遠ざかっていく。遂には作業を行った人が書いたと思われる「よろしくおねがいします。」という言葉までが確認できる始末。つまりは、本来は未完成であるはずの絵が映されているんです。

 

実在のものから情報を抽出し、取捨選択し、それを見た目だけではなく動きに落とし込む。本物ではない存在を本物であるかのように見せてくれることが、アニメーションの醍醐味であり最大の魅力の一つであると思います。しかし、この作りかけの映像を流すことは、それらを台無しにし、没入している状態から一気に素に戻すことに繋がるし、そもそも完成したものではなく作りかけの状態のものを見せるということが有り得るのか、と思います。

 

しかし、自分は涙しました。だからこそ涙を流しました。それは、空想の産物である作品と現実に繋がりを感じさせられたからです。

 

 

 

 アニメーションに限った話ではありませんが、作品に没入する傍らで、現実に存在するものではないということ、造られたものであることも冷静に認識しています。(だからこそ、メイキングを見て楽しんだりすることもできる。)

 

碇シンジをはじめとする登場人物たちは現実に存在している訳でもなければ、当然エヴァンゲリオンという名前の兵器も存在しない。物語の展開を固唾を飲んで見守る一方で、空想上の出来事であることを認識している。

 

しかしそうであったとしても、人が創ったものである以上、作品の中で描かれるものの中に人の思いが込められていると感じるんです。想像上の出来事でありならがら、現実の自分の血肉となり明日を生きていく力となっている訳です。意図的に差し込まれた未完成の絵は、まさに「人が創りしもの」であることを意識させるものでした。

 

そして更にそんな中で見せられた最後の光景は、実写の風景の中を走り去っていくシンジとマリの姿です。本作の総監督である庵野秀明氏の妻である安野モヨコ氏の漫画『監督不行届』の後書きにて、庵野秀明氏は以下のことを述べています。

 

嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ。(中略)マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。

 

ラストシーンは正に、物語が終了して観客が現実へ出ていくエネルギーを与えてくれるようなシーンだったと思うんです。アニメーション(映画)などの創作物は、決してその中で完結するものではなく、現実と地続きのものである。だからこそ、上記で述べたシーンは、これまで作中で起こった全ての出来事が、転じて観客である自分に向けたエールのように思えた訳です。

 

安心して生活することのできない中で元の世界を取り戻そうと必死に生きている登場人物たちの姿が、全て、自分へ向けた「がんばろう」というメッセージとして雪崩のように流れ込んできました。

 

だからこそ、本作のラストに感動しました。

  

 

 登場人物に感情移入し作品に没入する自分と、登場人物たちや世界観を俯瞰している自分。今回は後者の自分までもが作品に引きずり込まれたかのような体験でした。

 

生きる上で力や勇気を与えてくれるものは人それぞれだと思いますが、自分にとって映画やアニメーションは、その一つなのだと実感した作品でした。本当に力を貰いました。ありがとうございました。

 

 

ウルトラ鍔迫り合いにウルトラ熱くなった話 -ウルトラマンZ(ゼット)が好きになった理由-

 「必ず殺す技」と書いて必殺技。こうやって書いてみると物騒ですね。「それくらい強力な技」というニュアンスで使われているかと思いますが、『ウルトラマン』で「怪獣も一つの命であり、街を守る=怪獣を殺す」ことを考えさせられたことを踏まえると、「必」と「技」に挟まれている「殺」という字のこと忘れたくないです。

 

命を奪うほど強力な力を使う必殺技は、リスクも同時に存在する諸刃の剣です。同じくらい強力な技で相殺されるか、それ以上に強力な技に負けてしまうこともあります。しかし背水の陣とも言える状況を作り出すからこそ、それが決まった時のカタルシスはとてつもないものになります。

 

そして、そんな必殺技と必殺技をぶつけ合う、鍔迫り合いのようなシチュエーションには手に汗握ります。力と力のぶつかり合いをストレートに演出してくれるシチュエーションで燃えるし、ここぞという場面で使ってくれれば、最高の演出になります。

 

物語を盛り上げてくれる定番のシチュエーションの一つである光線と光線をぶつけ合い。怪獣や巨人と光線をぶつけ合うあったり、時には衛星から放たれた光線にウルトラマンが光線をぶつけたり、全力で出す光線は格好良いです。

 

そんな光線のぶつけ合いは、昨年放送された『ウルトラマンZ(ゼット)』にもありました。中でも最高に燃えたのが、最終話『遥かに輝く戦士たち』の最後の必殺技。

 

 

 

シンクロする叫び

 最後の光線に心が燃えた最初の理由は、これまで別々に叫んでいた二人が一緒に叫んでいたこと。これまでの必殺技ゼスティウム光線を放つ時は、基本的には、まずゼットが「ゼスティウム光線!」と叫び、その後に続く形でハルキが「チェストー!」と叫んでいました。(第8話など例外はありますが。)第1話が例として真っ先に挙げられます。本来ゼスティウム光線はゼットの技で、「チェストー!」と雄叫びをあげ気合いを入れるのはハルキのルーティンです。

 

戦士の心得

 

ハルキは、飛ぶこともできなければ、当然光線も打てません。物理的に宇宙人と融合しても、即一心同体というわけでもない。身体の大きさや光線や飛行など、怪獣と戦うために必要な要素の、多くはゼットの領分です。かといって、ゼットがハルキを引っ張る訳ではありません。ハルキの身に付けている格闘術や経験が 時として怪獣攻略の糸口になることもあります。第二話の透明になるネロンガが好例です。また、生命を殺すことに対してハルキが悩んだ時では、「一緒に考えていこう。」とゼットが言ったように。どちらが教え導くのではなく、一緒に歩んでいく姿勢。

 

ご唱和ください、我の名を!

 

一人前ではない二人が、それぞれの領分を活かしていく。そんな二人三脚な関係、対等な関係が魅力的なんです。第1話のハルキの雄叫びからは、そんな魅力の一端を感じられるかのようであったからこそ、グッときました。

 

そして最終話の必殺技は、1話と同様に必殺技のぶつけ合いが勝負の最後を飾ります。 

 

ゼットがそうするようにハルキが技名を叫び、ハルキがそうするようにゼットが雄叫びをあげる。互いに「元々パートナーのやっていた」ことをやっていた。ウルトラマンの掛け声というと「シェァッ!」とか「タァッ!」とか、人でいう「うぉおーーーーー!」みたいに伸ばした唸り声を聞いた事がなかった気がします。だからこそ、ゼットの発した「キィーーーーーアアアアアーーー!」という唸り声を聞いた時の心の高鳴りや鳥肌が更に凄いことになったのではないかと思います。

 

最終話にて名実共に二人で一人の存在になってしまったわけですが、一心同体になったのだと感じられる。これまでの2人の歩みと積み重ねを体現した二人の叫びには本当に心を動かされました。

 

メダルいただきます!

 

 

Zを描き出す光線の軌跡で思い出すピカリの国の戦士

 そんな最高の光線は敵の光線を少しずつ押し込んでいく。あともう少し!というところで畳み掛けるかのように起こった事が、光線ペインティング。

 

身体のデザインと同じくらい多種多様でアイコン的存在であるウルトラマンの光線のデザイン。縦一直線や十字、X字、中にはV字状に飛ぶ光線がありますが、それはあくまで光線を正面から見た時のデザイン、つまりは光線の断面が文字等のデザインになっているのですが、Zの光線は一味違かった。光線の軌跡がZになったんです。これまでは技を受け止める覚悟でなければ光線の形を見ることができなかったのに対して、特徴的な光線を横から安全に確認できる親切光線です。

 

光線の鍔迫り合いをした状態のまま、ゼットの動きに合わせて光線が二度折れたと思ったら折れた軌跡がZになり「ゼット!」と言わんばかり光る。そしてそれが光の塊になって一気に敵を吹き飛ばす。

 

この最後の一押しで光線に変化が起こる描写で思い出したのが、ピカリの国の戦士ウルトラマンゼアス。ゼアスもゼットと同様に、光線の鍔迫り合いの末、最後には気合いでX字の特殊光線を繰り出しました。

 

必殺技を打つ前に「コーーー!」って声を出して気合を入れるところや、道着を着て特訓するところなど、こうして考えてみるとウルトラマンゼアスと共通点を多く感じるところも、『ウルトラマンZ』という作品が印象に残っている理由の一つかもしれません。いつか共演して、立派に成長したゼアスの姿を見たいと思っています。(現在YouTubeにて配信中の『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』でゼアスが登場しなかったことにショックを受けたことは、ここだけの話です。)

 

ウルトラマンゼアス 1&2 [Blu-ray]

因みにウルトラマンゼアスが好きになった理由の一つが、光線を左手で撃っていること。左利きの自分にとっては、それが嬉しかった。

 

 

 

遥かに輝く戦士たちの手

 ギリギリまで踏ん張った人間を助ける、遥かに輝く戦士たち。人間の頑張りに応えるかのように、同じようにギリギリまで頑張ってくれる彼らの手から放たれる光、その軌跡には、ウルトラマンと人の想い(気合)が込められていて、視覚情報だけでは得られない気持ちの高まりと感動を与えてくれます。だからこそ『ウルトラマンZ(ゼット)』は最高でした。

 

そして彼らの手の交差から放たれる光の輝き。それが次に与えてくれる感動と興奮はどんな物なのか、これからも楽しみです。

 


映画『シン・ウルトラマン』特報【2021年初夏公開】

 

2020年の振り返りと2021年の再挑戦

 遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。小・中学生の頃に比べると、一年という時間を短く感じるようになりましたが、それを差し引いても、2020年はあっという間に終わってしまいました。コロナウイルスで生活が急激に変化したことで忙しくなり、余裕が無くなったことが最たる理由だと思います。また不可逆的な変化に起因して「去年の今頃は…」とつい考えてしまうことが最も多い年でもあった気がします。

 

外出中はマスクを常に着用し、建物に入るたび出るたびに手を消毒、帰宅すれば手洗いうがいだけではなく、持ち物や身に付けていた服等も全て消毒。そんな生活が定着する程に時間が経過しましたが、収まるどころか拡大する感染。「来年の今頃には…」という前向きだった気持ちが、いつのまにか「去年の今頃は…」という後ろ向きな気持ちに。

 

そんな重苦しい空気を纏っている中でも、輝きを放ってくれっていたのがエンターテインメントです。延期したり配信に切り替えたり、悪戦苦闘しながらも公開してくれた映画。毎週定期的に楽しみをテレビから提供してくれた特撮作品やドラマ・アニメ作品。

 

以前から作品に関わっている人たちへの尊敬や感謝を忘れずにいたつもりではありますが、作品が観られない可能性に直面した事で、作品を観られる尊さがより一層強くなったと思います。「作品を観て楽しめることは当たり前ではない。」という当たり前のことを実感。エンターテインメントという存在の尊さを実感する年でもありました。

 

f:id:mori2_motoa:20210117172034p:plain

 

 

 

 ついついネガティブな話題に移ってしまいそうになる2020年ですが、ここで初心を思い出したい。自分がSNSやブログを始めようと思ったのは、「自分の好き」を発信するため。映画の感想で言えば、良かった点を書いていきたいです。時には不満に感じたことも書いていますが、基本的には自分が良いと思ったことや感動したことを発信していきたいと考えています。色んな変化がある中でも、作品を楽しみ、感想等の発信を忘れずにいることを、2021年の目標としていきたい所存です。

 

f:id:mori2_motoa:20210117172538p:plain

 

あとは…ブログの更新頻度を上げていきます…書きたい事はあるのに結局ブログの更新に至らず。書くと言っていた2019年の映画ランキングも結局書いてないという衝撃の事実に2021年を迎えてから気付くという体たらく。

 

ドラマ『半沢直樹』の顔圧パーティーの中で光り輝く渡真利忍役の及川光博さんのオーラと指パッチンの素晴らしさを書いた記事や『ウルトラマンZ(ゼット)』最終話の必殺技の鍔迫り合いに燃えた話など、6〜7割まで書いて止まっている下書きの多い事…『ウルトラマンZ(ゼット)』に至っては、4つも下書きが…

 

2021年は、書き始めた記事は最後まで書ききることを目標にしたいです。とか言いつつ、2021年に突入してから既に2週間が経過していますが大丈夫でしょうか…(ひと事)

 

ともあれ2021年、色々頑張ります。どうぞ生暖かい目で、じゃなくて、暖かい目で読んで頂ければ幸いです。宜しくお願いいたします。

 

 

 

定着したコンテンツの魅力とハードルが同居した一作<劇場版 Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット- 前編 Wandering; Agateram>

 既に人気を獲得しているコンテンツの劇場作品。人気であるが故に「期待」というハードルが存在します。「このキャラクターの活躍が観たい。」「こういう表現が見たい。」など、様々な部分での期待されます。つまりは、そのコンテンツが人気を獲得するまでに作られてきた作品に観客が感じた良さが、殆どそのまま作品のノルマとして課せられているのではないかと思います。

 

そんな越えるべきハードルが沢山ある作品が『劇場版 Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット- 前編 Wandering; Agateram』です。こうやって書いてみると長い…舞台挨拶でも少しネタにされる訳です。

 

もしアニメを観ていれば名前くらいは一度は聞いた事があるであろう人気の『Fate』シリーズ。パソコンでプレイするビジュアルノベルゲームだった作品が、アニメ化に留まらず様々な媒体で数多くの派生作品が作られてきました。つい最近ではその人気の高まりを象徴するかのように、シリーズの原点と言われる『Fate/stay night[Heaven's Feel]』が劇場アニメとして公開されました。

 

そんな派生作品の1つとして世に送り出されたのが『Fate/Grand Order(フェイト グランドオーダー)』(以降、FGO)です。2015年に配信され2020年12月現在は5000万ダウンロードを突破した人気ソーシャルゲーム。その漫画やアニメが作られ人気を博している本ゲームの中でも人気を加速させたエピソードを劇場アニメ化した作品が『劇場版 Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット- 前編 Wandering; Agateram』(やっぱり長いので以降、劇場版FGO前編)です。タイトルからも分かるとおり、前・後編合わせての二部作のうちの1作目。

 

派生に派生を重ねた末に生まれた本作、コンテンツが十二分に熟してきた今に公開される本作は果たしてどうだったのか。『Fate/Zero』以降、アニメーション作品を中心にシリーズを追いかけ、FGOほぼ無課金でプレイしている自分も、意識的にも無意識的にも大小様々なハードル設定しつつ観賞してきました。

 

Fate/Grand Order material II【書籍】

Fate/Grand Order material II【書籍】

Fate/Grand Order material II【書籍】

  • 作者:TYPE-MOON
  • 発売日: 2016/08/14
  • メディア: CD-ROM
 

 

 

 

映像化への期待

 本作のようなアニメ化において、期待されることの一つは、「映像化により動くこと」です。その点において本作はどうだったのか考えてみたいと思います。

 

原作ではストーリーは登場人物の会話や独白を文字で見せその背景にキャラクターを表示していく紙芝居方式で描かれます。と言っても、全ての場面に合わせた絵が用意されているわけではなく、基本的には登場キャラクター達の立ち絵が並んでいるだけなので、人形劇に近いです。表現が限られる中でも、文字の大きさや色、文字を見せるタイミングなど、巧みな演出により読み手を物語に引き込んでくるところがビジュアルノベルの魅力です。

 

その事は重々承知した上での話なのですが、物語を追い状況をイメージしていく中で「動いてる映像で見てみたい。」と思ってしまうのが正直なところ。そんな願望に答えてくれるアニメ化は、それだけでも一見の価値があるわけです。

 

しかし重要なのは「どう動くか。」という事です。Fateシリーズにおける映像化において、『劇場版 Fate/stay night[Heaven's Feel]』(以降、劇場版HF』)という一つの正解が提示されたことは記憶に新しい。FGOに限って考えても、既にテレビアニメを始め何度もアニメ化されており、それも作品毎にスタッフも異なれば、アニメーションへのアプローチも異なります。様々な「アニメ化」がある中で、観る人それぞれに理想的な「アニメ化」が形作られている訳です。その前提がある中での今回の劇場アニメ化。観る人それぞれに「この作品の感じで。」という理想があります。

 


「Fate/Grand Order」配信4周年記念映像

「この感じで劇場アニメ化してほしい。」と願い続けて早1年以上が経ちました。

 

以上を踏まえた中で、今回の劇場版はどうだったのかというと、動いていたが動いていなかった

 

 

 

立体的なカメラワーク

 「一つの正解」と前述した劇場版HFのアニメーションにおいて特筆すべき点は、手描きのアニメーションを主軸としながらも、CGを用いる事による情報量の増加と立体的なカメラワークです。CGにより立体的な情報を増やしながらも、その中で二次元の手描きのキャラクターを違和感なく動かしています。

 

観客の視点たるカメラとキャラクターの位置関係を固定するのではなく、カメラがキャラクターに回り込むなど、キャラクターは動かずとも見える角度が変わるようなカメラの動きが充実しています。純粋にキャラクターの動きだけではなく、それを見る角度の変化もまた、アニメーションにおける大きな「動き」として取り込んでいます。近年は特にその部分に対する評価の力点が強くなっている気がします。アニメ版『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』など、人気作品はカメラの立体的な動きが多い傾向です。

 

ただ闇雲にカメラを動かすことが良い訳ではありませんが、元々二次元であるが故に、立体的に動いたり見えたりする事は実写以上に驚きや楽しみを与えてくれます。

 

 

 

被写体の生々しい動きに注力したアニメーション

 被写体たるキャラクターは動いていたのですが、カメラの動きは少なかった。キャラクターに回り込むような動きなど立体感のあるカメラの動きは少ない分、キャラクターを丁寧に動かしていく方向性です。それは同じFateシリーズのアニメでいうと『Fate/Zero』に近い方向性だと思いました。

 

決して動きが派手ではないが、その代わりに一撃の重さが伝わってくる動きと音。それによって命のやりとりをしている生々しさが浮き彫りになる。『Fate/Zero』が本シリーズに触れた最初の作品だった自分にとっては、懐かしくも好みの方向性です。

 

そんな生々しさを一層引き立ててくれていた要素が、各サーバントのクラス(戦闘スタイル)で生まれる有利不利です。遠くから打ってくる弓に対して剣は不利だけど、逆に距離を詰めると有利に転じる。でもその認識の裏をかいて、逆に弓の方から距離を積めて接近戦を仕掛けたり。そういう駆け引きの演出、各キャラクターの戦闘スタイルの差別化がとてもよかった。特に印象的だったのがモードレット。剣を投げて相手が受け止めたら、投げた剣ごと相手を蹴るなどという滅茶苦茶なパワープレイは、正に戦闘スタイルの差別化によって引き立った戦闘の一つです。

 

 

 

成熟したコンテンツ故の新鮮な表現

 本作独自の表現もありました。原作はじめFateシリーズにおいて、サーバントが消滅する時は、光の粒子になって煙のように消えていきます。それに対して本作は違う演出で表現してます。カットが切り替わり次の瞬間には跡形も無く消えており、足跡のみが残っている演出がされていました。

 

消滅の仕方が定着している中で、今回のような消滅の演出はより一層喪失感を与えてくれるもので、とても印象的でした。本作は動的な表現は抑え気味である一方で静的な表現や演出がとても心に響きます。消滅シーンの前のあるサーバントの宝具使用の場面も、盛り上げていく方向ではなく、心がじんわりと染められていくような静かな感動がありました。

 

 

 

 

原作にはない魅力と視点

 原作にて定着したプロットや表現があることによる魅力も感じる一方で不満もあります。単純に尺が短い。主役たるベディビエールの心情の変化が感じ取れません。本来はプレイヤーの分身たる主人公がいる中でベディヴィエールを主役にしたのであれば、原作プレイ時には分からなかったベディヴィエール細かい心情の変化を観賞前は期待をしていました。しかし、その期待に答えてくれたかというと、そうとは言い難い。

 

定着したコンテンツ故、「ある程度理解できる。」という認識に則った構成なのではないかと思われますが、原作のゲームで今回のエピソードがリリースされたのは数年前。正直なことを言うと、ストーリーの詳細を覚えていません。観賞前に振り返りをしてなかったのが悪いと言われてしまうとそのとおりではありますが、上映時間の短さを思うと「ああ、そんな話だった。」と思わせてくれる様な丁寧さが欲しかったし、それにプラスαで新しい魅力や視点を提示してほしかったです。

 

 

 

後編への期待

 定着したコンテンツ故のハードルに苦戦を強いられながらも、定着したコンテンツだからこその魅力もあった本作。本エピソードのラスボスたる獅子王との戦闘が後編ではどのように描かれるのか、とても楽しみです。