モリオの不定期なblog

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目一杯の祝福をエアリアルに<機動戦士ガンダム 水星の魔女/感想1>

 ガンダムへ、モビルスーツへ、ロボットへ、乗ることに子供の頃は憧れていました。パイロットスーツを着て、ヘルメットを被り、コックピットに座って、操縦桿を握る。劇中でキャラクターたちの色んな操作とロボットの動きを見て、「このボタンを押せば、これが作動する。操縦桿を前に出してペダルを踏めば、前に進む。組み合わせれば、こんな複雑な動きができる。」と想像を膨らませていました。

 

格好良い乗り物として憧れていた自分が、ロボットへ、モビルスーツへ、ガンダムへ、エアリアルへ、一乗り物ではなく一キャラクターに対して感じるものに近い感情を抱いていることに、動揺し、また、感動しています。

 

HG 機動戦士ガンダム 水星の魔女 ガンダムエアリアル 1/144スケール 色分け済みプラモデル

 

 2022年10月2日(日)午後5時、『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第1話が放送されました。2017年4月までに放送されていた『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』から約5年ぶりに放送されるガンダムシリーズの最新作。劇場版や配信などの他媒体での展開や、ガンダムのプラモデルを題材とした『ビルドシリーズ』の誕生など、シリーズ全体としては途絶えることなく展開していたものの、メインストリームの位置付けとなる作品としては久しぶり、満を辞しての放送となります。

 

そんな本作は放送開始に先駆けて、前日譚となる『PROLOGUE』が配信・放送されました。人がモビルスーツに乗り相手の命を奪う、これまでに観たガンダムシリーズの作品のように、人の死が描かれる物語。だからこそ、これまでのイメージを払拭するガンダムの姿がとても印象的でした。

 

遠隔操縦の武装ガンダムに初期から装備されていたり、ガンダムに乗る主人公が女の子であったり、シリーズに定着していたイメージを見直すような設定が随所に確認されます。また、シリーズの顔である、モビルスーツガンダム」。その再定義は、多くの作品を積み上げてきたガンダムシリーズならではの見所であり、特に、題材や媒体の多様化により楽しみ方が大きく広がってきた近年のガンダムシリーズを踏まえると、その期待はより大きくなりました。

 

『水星の魔女』の名を冠して訪れる一つの回帰が、自分へどんな懐かしさと新しさをもたらしてくれるのか。そんなワクワクを胸に放送当日を迎えました。

 

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 生身の人間が歩く通路とモビルスーツの顔が同じ高さになっている学園の構造。代理闘争の様相を呈している決闘などの学園のシステム。巨大なロボット・戦争がより生活へ地続きに感じられる世界観からは、「学園が舞台のガンダム」ならではの軽快さとその中で見え隠れする世界の重苦しさを同時に感じさせられました。

 

前日譚である『PROLOGUE』との繋がりを感じさせる展開の一つ一つは、人の死や戦争の匂いを濃くしていました。だからこそ、そんな大人の世界へ一矢報いる主人公のスレッタとエアリアルたちの姿、第1話終盤の決闘シーンにて、ガンビットという武装を自分の身体の一部のように扱う姿に感動しました。

 

しかし、今回の感動はこれまでのガンダム作品・ロボットアニメとは少し異なるものでした。搭乗者のドラマを感じさせるものとしてロボットが機能していたのは勿論ですが、同時に、そのロボットを1人のキャラクターとして認識させられたことで、その感動が複合的なものになっていました。

 


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 第1話において最も感動した場面は、前述の通り、終盤の決闘でエアリアル(スレッタ)がガンビットを動かすシーン。装甲だったガンビットが、身体から分離し、集まって一つの盾になり、再び分離して一斉に掃射する。この一連のガンビットの動きが、エアリアルの身体の一部のように見えました。

 

ガンビットの滑らかな動き、それを一部としているエアリアルの在り方が、ガンダムの存在を否定した世界を動かしたことによるカタルシスがあったこと。もう一つは、エアリアルに人格があったことです。

 

感動した一つ目の理由は、エアリアルの姿が人類(≒ガンダム)の可能性を体現していたことです。本作では、欠損した身体を補う義肢というだけでなく人間が宇宙の過酷な環境に適応するための技術として、GUND(ガンド)という身体機能拡張技術が存在します。そしてその技術が用いられて造られたモビルスーツがGUND-ARM=ガンダムと呼ばれています。『水星の魔女』におけるガンダムは、人間の能力を補う義肢の延長としての存在であり、宇宙へ進出している人類にとって未来の可能性を象徴する存在です。

 

義肢のように後天的に取り付けるものでありながら自分との境界線は限りなく曖昧になり、身体の一部となっていく。ガンダムに搭乗し操縦することを、車や戦闘機などの乗り物の延長として捉えるのではなく、自分の身体の延長のように捉えていることが本作の特徴です。

 

『PROLOGUE』では、GUNDとガンダムを創り上げた人たちが登場します。人類が過酷な環境の宇宙で生きていくために必要なGUNDに、人類の未来を救ってほしい。創った人たちの希望が託されていました。しかし、ガンダムの存在を危険視する人たちによって、ガンダムは否定されて幕を下ろします。

 

存在することを否定されたガンダムが大地に立つ。否定されたGUND、ビットを身体の一部のように操る。人が元来持ち得ない能力をガンダム(GUND)によって身に付け、宇宙に立つ。GUNDが目指すものを体現しているエアリアルが否定した人間たちが作り上げた決闘で勝つからこそ、カタルシスが生まれる。

 

 

 

 二つ目の理由について。ガンダムと搭乗者との新しい距離感を持っている本作ですが、それを印象付けるものの一つが、エアリアルが想い・意志・人格を持っていることです。

 

実際に声を出す訳ではありませんが、第1話ではスレッタに言葉が通じてる描写があったり、『PROLOGUE』では博士がスレッタへの説明に「生まれたての赤子」という表現が用いられていたりと、エアリアルは意志を持っていることが印象付ける描写が確認できます。

 


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先程はガンダムは身体の延長として捉えていると述べました。しかし、そのガンダムにも人格があります。ここで思うことは、自分という領域はどこまでのことを指しているのか、ということです。肌や爪、髪など先天的に備えているもののみを指すのか、それとも、身に付けたりしている服や使っている道具も含めて自分なのか。そうした認識は人それぞれですが、自己の境界線をどこに引こうとも、必ずしも思い通りにならないことが共通しています。先天的に持つ身体も、病気を患うなど、自分が意図・予期しない状態になってしまう。まるで自分とは異なる意思を持っているかのように。

 

自己の拡張であると同時に異なる意思を持つ。盾にもなり身体の一部にもなるガンビット、それを操るエアリアルはスレッタを守る存在でもあるし、彼女の一部でもある。そんな曖昧な存在をエアリアルは象徴しているように思います。

 

曖昧ではあるけれど、だからこそスレッタとエアリアルの繋がりが強固に感じられると同時に、一つの在り方を確立しているエアリアルとスレッタの姿が尊く思える、

 

人が先天的に持つ身体だけではできないこと、人の身体の一部のように滑らかに淀みなく動かしていること、その二つを両立しているガンビットの動きに感動しました。

 

 

 

 

 ガンダムの否定から始まった『機動戦士ガンダム 水星の魔女』。ガンダムの新たなる可能性、人類の可能性をどのように見せてくれるのか。今後の展開が楽しみであると同時に、もはや一キャラクターとしか認識できないエアリアルが心配で仕方がありません。

 

スレッタへの祝福を胸に抱くエアリアル。目一杯の祝福を君に。

 

 

 

祝福