映画が好きだ。映画を観るのが好きだ。映画を映画館で観るのが好きだ。
視界一杯に広がる大画面。耳どころか全身を振動させるような大音量。映画以外の情報をシャットダウンする閉鎖された空間。
そうした、映画にしかないもの、映画館でしか感じられないものを感じるために、これまで映画観賞が趣味だと言っても差し支えないだろうと思うくらいには映画館に足を運んできました。そしてこれからも、映画館に足を運ぶのだろうと思います。
そんな中で最近、「何故、映画が好きなのだろう。」と思う事があります。迫力のある映像・音を大画面・大音量で楽しむ、という理由は勿論です。それがテレビではなく映画館で観るようになった理由だし、これまでは、それが一番の理由だと思っていました。
しかし、何度も映画館へ足を運び、何度も大画面・大音量で楽しむ経験を繰り返していくと、慣れていきます。半券を片手に圧迫感のある空間内を歩いて座席に座る、そうした非日常的な体験が少しずつ日常的になっていきながらも、絶え間なく公開されていく新作が少しずつ日常を更新していってくれる。それを求めて映画に足を運んでいるのだと思っていました。
でも、自分が映画を映画館で観ることを続けてきた理由は、それだけではなかった。「何故、映画館へ足を運ぶのか。何故、映画を観たいのか。何故、映画が好きなのか。」そうした問いに対する答えを教えてくれた映画が『映画大好きポンポさん』でした。
(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)
本作のあらすじは以下の通り。銀幕の申し子と呼ばれるジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット(プロデューサー。以下、ポンポさん)。そして彼女の横でアシスタントとして働くジーン・フィニ(映画マニア。以下、ジーン君)。予告編の編集等で頭角をあらわしていたジーン君が、ポンポさんの新作「MEISTER(マイスター)」の監督に指名されることになり、初めて制作者という立場から映画と向き合っていくことになる。
本作で特筆すべき点は、ジーン君の映画作りの過程が、「何故、映画が好きのか。」という問いに対する回答になっていたことです。作り手が作品の完成形を模索し、悩み、苦しむ。その過程を経て、作り手の想い・執念が作品に染み込んでいく様子が、雄弁に語っています。
自分が作っている作品の中に自分の存在を見出す。そうすることで、作品の中で交わされる会話や描写の一つ一つが自らへの問いかけ、自らの想いの吐露へと変貌していき、作品を通じて伝えたいこと、伝えたい相手が定まっていく。
そうした作り手が自らの経験を土台にした作品とのやり取りを行うことで、作品が完成する。そして、そうしたやりとりは作り手だけではなく観客も行なっている、ということを描いているのが素晴らしい。
監督やプロデューサーを始めとする作り手が、制作の過程で他の作り手の成果物を見聞きする。制作者の間でインプットとアウトプットを相互に行うことで、個々の制作者自身が予期しない映画が最終的にアウトプットされる。色んな技術・考えを持つ作り手たちが共同で一つの作品を作るから、総合芸術である映画だから、映画を作る立場でありながら未知の映画に出会うことができる。それこそが、「MEISTER」の脚本を書いたポンポさんが、完成した「MEISTER」に感動することができた理由です。
映画と向き合い、何かに感情移入し自分を見出す。作り手が映画と向き合いアウトプットし、観客もまた映画と向き合いアウトプットする。そうしたことが可能なのは他の情報をシャットダウンし集中力を求める映画館だからこそとも思う。勿論、作り手のアウトプットと観客のアウトプットが必ずしも一致することはない。しかしだからこそ、映画の形・捉え方が豊かになり、沢山の人の心に届く。
ポンポさんは、ナタリーから受けたインスピレーションから「MEISTER」の脚本を書き、リリーというキャラクターを生み出しました。ポンポさんにとって作品の中心はリリーです。対して、ジーン君にとって作品の中心はリリーではなくダルベールという別のキャラクターでした。映画を作る人間として、音楽と向き合う彼に感情移入し、彼の物語を指針に映画の取捨選択を行い、脚本にはなかった物語を追加した。その結果として、同じく映画を作る人間であるポンポさんの心を打つ作品になった。
この作品でポンポさんは、映画作りにおいて絶対的な存在として登場しています。スタッフやキャストの能力を見分ける審美眼を持ち、どんな映画でも一級品に仕上げてみせる。更には、作品の宣伝や売り上げといったマーケティング、関わった人間の生活などの部分まで思慮が及ぶ隙のなさ。そうして面白い作品を「自分で作れてしまう」が故に、自分の想像を超える作品を観たことがない。感動したことがない。
だからこそ、そんなポンポさんに感動させる本作のラストは感動的であると同時に痛快なのだ。そうした痛快さが集約されるラストシーンには、思わず拳を握らずにはいられませんでした。
痛快さと完成度が非常に高い本作。しかし本作のとんでもない点は、そのラストカットの後、エンドロールで更にその高さにブーストがかかっていくことです。本作のエンドロールで流れる映像の中に「映画大好きポンポさん」という映画を『映画大好きポンポさん』のキャラクター達が撮影している」様子を収めた映像があります。実写のような撮影はないはずのアニメで、キャラクター達が撮影をしたという体の映像は「『映画大好きポンポさん』が公開されたこの世界にポンポさんたちが生きている」という想像を誘発させられる。
実際に作られた『映画大好きポンポさん』とポンポさんたちが作った「映画大好きポンポさん」を意図的に混同する・されることで、ハリウッドを模した架空の舞台ニャリウッド、そこで映画を作るポンポさんやジーン君たちの存在が現実のことのように感じられる。
ジーン君やポンポさんたちが「映画大好きポンポさん」を撮った、という想像の解像度を高めてくれる主題歌のMV。映画と観客の世界を繋いでくれる。
また、本作の中で語られた映画作りの理論や趣向が実践されている。上記で述べた混同を踏まえると、ポンポさんを感動させるという本筋の痛快さを増幅させている。「映画大好きポンポさん」という作品が、誰に向けて作られたのか。それに対する回答となる演出の数々は、作り手の思いが作品に投影されることの尊さを映画を題材にしている本作の物語の解像度を高め、実感させてくれます。
作品を通じて、作り手の思いや考えを感じると同時に、自分のことを見つめて、映画を通じて得られた体験を現実に持ち帰る。映画と映画だけに向き合う映画館という空間を自分が好きな理由は、そうした対話を求めているからなのだと、本作を観賞して思いました。そして、多くの人の手によって作られる総合芸術としての魅力・尊さを気づかせてくれた本作が大好きです。
最後に本作の一番気に入っているところを述べます。
それは、上映時間が90分であることです。