モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

ただの総集編だなんて言わせない!大画面で観る価値を作り出した快作<荒野のコトブキ飛行隊 完全版・感想>

 テレビシリーズのアニメを劇場用に再編集された映画、いわゆる総集編。そういった作品における最大のポイントは、劇場で観る意義を如何に見出せるのかということ。そもそも、既に一度観たことがある作品を、わざわざ映画館まで足を運び、1800円もの金(+交通費)を払ってまで観る意味があるのか。

 

『コトブキ飛行隊 完全版』も総集編にあたる作品。2019年に放送されたテレビシリーズの作品で、今回は12話の物語を約2時間の映画にまとめている。そう、そもそも、概算でも24分*12話=288分もあった作品を120分に縮めようというのだ。

 

12話も話がある中で、気に入ったりする場所は様々。作品の中心となる部分の場面で好きになることがあれば、本筋にはあまり関係ないちょっとした場面が気に入ることもあります。レギュラーが気にいることがあれば、準レギュラーや1話限りのゲストが気にいることもあります。そんな中で、自分が気に入っている部分が全てピックアップされた総集編になる可能性はほぼゼロに等しい。

 

仮にピックアップされても、前後の流れや使われる音楽など、そのシーンの使われ方が違うことで印象が大きく変わりテレビシリーズの時と同じような満足感が得られない場合もあります。

 

例えば『劇場版 進撃の巨人 前編〜紅蓮の弓矢〜」』では、アルミンが説得するシーンがあったのですが、イマイチ盛り上がらなかったんです。というのも、1話24分で展開される性質上、毎回1話ごとに山場を設けています。アルミンが意を決して説得するシーンは、1話単位で見ると1番の山場として設定されていたのですが、いざ総集編になると、説得するシーンはクライマックスへ向けての一つ手前の場面になっていました。なので、テレビシリーズの時なら音楽的に最大値の盛り上げ方をしていたのですが、総集編だと一段階も二段階も抑えた音楽になっていたんです。

 

 

初めから劇場版として作られていたら違和感がなかったと思うのですが、最大値の盛り上がりの音楽が刷り込まれていると、どうしても物足りなさを感じてしまいます。映画として全体の盛り上がりや緩急を考えると当然の判断だとは思います。全編盛り上げのインフレ状態になってしまったら、逆に散漫になって一本の映画としては成立しなくなってしまいます。理解はできるからこそ、もどかしい。

 

様々な総集編の映画が作られる中で、作り手の苦心が伺えます。映画で観賞する上で付加価値を生み出すために新作の映像を追加されることが殆どです。意地悪な言い方をすると「映画館でしか観られない。」を作り上げるのに手っ取り早い方法です。でもそうすると、ただでさえ足りない尺を更に圧迫する事になってしまい、元あった作品を描くことすら満足にできなくなってしまいます。かといって、2時間の作品にまとめただけでは、映画館に足を運んでもらうだけの求心力を作り出すのが難しい。

 

観てもらうために新しく追加したい、でも追加すれば一つの作品として成立させるのが難しくなる。

 

総集編は、そんなジレンマを抱えているわけです。そんなハンデを背負った状態で、如何に映画館で観賞することに価値を見出すのか、そこが最大のポイントです。

 

 

 

 まず、総集編と呼ばれるような作品においては、自分の中では二つのアプローチがある思います。縦軸の物語に絞り一本の映画として成立するよう落とし込んだ作品と、映画館でしか味わえない体験を追求した作品です。

 

まず前者は、主人公を中心に核となる物語を描き、それに関係する度合いの高い横軸の話から優先的に残していくような作品。多数の横軸の話を削ぎ落としていくことで、テレビシリーズの時とは異なる感じ方、楽しみ方ができます。『スタードライバー THE MOVIE』がそれにあたります。登場人物が多い中、主人公3人の物語に絞ることで3人の心情をより深く感じることができる作品になっています。

 

しかし、自分が特に薦めたいのは冒頭の新宿での戦闘シーン。いわゆる映画の最初の「つかみ」となる場面であり、映画オリジナルの場面のとして追加されたシーンなのですが、「新宿の摩天楼で縦横無尽に動き回る巨人たち」という特撮ライクなシチュエーションが最高すぎて、興奮を隠せません。決して長い戦闘ではないのですが、「巨人」「特撮」というキーワードが引っかかる人は、是非観て欲しい。

 

スタードライバー THE MOVIE

スタードライバー THE MOVIE

  • 発売日: 2017/09/08
  • メディア: Prime Video
 

 

続いて後者についてですが、これは大画面、大音響であることを最大限活かせる、もともと大画面が映えるポテンシャルを秘めているような作品です。テレビシリーズの時点から、高いクオリティの映像で作られていたり、音響に拘って作られておりテレビという環境の視聴では惜しいと思わせられる作品です。自分が観た作品の中では『劇場版 シドニアの騎士』が挙げられます。アニメ版『GODZILLA』や『HUMAN LOST 人間失格』、『スター・ウォーズ レジスタンス』や『トランスフォーマー:ウォー・フォー・サイバトロン・トリロジー:シージ』など、ハイクオリティな映像に定評のあるポリゴン・ピクチュアズというスタジオが制作した作品。日本アニメに寄せたルックスでありながら、日本アニメ離れした情報密度と立体感のある映像が最高な作品です。

 

それに負けない音響も含め、テレビという枠に収めるには勿体ないという要素に溢れている作品の総集編。「大画面で観たい!」という欲求に応えてくれただけでも満足な作品ですが、こちらも主人公とヒロインに焦点を絞っており、シドニア全体の話だった印象のテレビシリーズに対し主人公個人の物語になっていたのが印象的でした。

 

日本アニメライクな3DCGアニメを作るようになった初期の頃の作品である、かつ元々テレビシリーズだったということもあり、上記の近年の作品と比べるとキャラクターのモデルや爆発等の描写が見劣りすることは否めませんが、立体的なアクションや臨場感のあるカメラワークは負けていませんし、一本のまとまりの良い映画としてお勧めの作品です。

 

劇場版 シドニアの騎士

劇場版 シドニアの騎士

  • 発売日: 2017/08/01
  • メディア: Prime Video
 

 

話が逸れてしまいましたが、本作はどちらに該当するのか、そしてそのアプローチは「劇場で観る価値のある作品」に到達できていたのか。

 

できたんですねこれが。

 

本作は映画館でしか味わえない体験を追求した作品であり、これまで観た総集編の中でも、劇場で観ること、体感することに最も価値を作り出していると言っても過言ではありません。それどころか「劇場で観ないと勿体ない」と思わせられるほどの体験を創出した作品でした。

 

TVアニメ『荒野のコトブキ飛行隊』オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 本作を劇場で観ることの価値を最大限に高めていたのは何だったのかというと、「大画面と大音響で空戦を魅せる」ことに徹していたことに尽きます。

 

縦横無尽に動き回る飛行機、それを追いかけるカメラワーク。映像面においては、テレビシリーズの時点で既に映画館で観賞するのに十分なクオリティでした、それを大画面で見ることで得られる臨場感が半端ない。

 

そしてその臨場感を高めてくれるのが音響です。テレビでは2.1chと限界のあった音響が、映画では7.1chと立体感のある音響に。そこにいる空気感、爆発や物の側を通り過ぎる時に感じる風圧など、映像から感じる以上の臨場感をもたらしてくれる。映像、音響共に、テレビシリーズの頃から感じさせたポテンシャルの高さを、映画化という舞台で存分に発揮していました。

 

しかし、それ以上に特筆したい点は、本作の全体の構成が、「空戦を魅せる」ことに徹底したものになっていたことです。

 

登場人物のやりとりは必要最低限。それも、テレビシリーズを観ていた事を前提とした最低限なので、話がバンバン進んでいく。一つシーンを挟んだだけで、全然違う場面になっていることもザラです。初見で本作を観賞した人にとっては、恐らく人間関係等は何となくしか分からない。

 

しかし、これだけ空戦を魅せることに力を入れていることが伺える映像の前では、その思い切った構成には納得せざるを得ない。いつもならテンポが早すぎて感情が追いつかなくなり、気持ちが冷めてしまうところですが、「空戦を魅せる(魅せられる)!」といった感じで、制作者と意思が通じたと思える状態が出来上がっていて、その構成の振り切りっぷりには潔さすら感じるし「よくやってくれた!」と心の中でサムズアップをずっとしていました。

 

空戦を描く上での状況設定においても、空戦を魅せるための工夫が伺えます。勝利条件と敗北条件が明確です。「あの飛行機を奪われたら負け。」「あの目標物を破壊すれば勝利。」ゴール地点が明確だからこそ、映像に集中できる。空戦シーンの前後にも、集中するための配慮が行き届いています。

 

戦闘に関わりのないキャラクター同士の会話は極力少なく、次の空戦へ向けた準備・説明に尺を割いている。「敵はこの人たち、味方はこの人たち、戦力はこれくらい、目標はあれ、こうすればこちらの勝ち、劣勢です。」戦闘機をじっくり見せてくれる時のスピード感で見ていると、うっかり聞き逃したりしてしまいそうなテンポの速さ。

 

しかし、聞き逃した場合でも、任務の対象が途中で挿入されていたり、登場人物たちと目標物が上手く配置されています。スタート・障害・ゴールの位置関係が、見ていれば何となく把握できるようになっている。

 

飛行機が飛んでいるシーンに集中するために、ノイズがとことん排除されています。

 

音楽に関しても、例外ではありません。テレビシリーズでは空戦シーンに合わせてBGMが流れていたのですが、今回の劇場版では無くなっています。その分、飛行機のプロペラや爆発、風邪などの効果音に耳が集中し、劇場版という環境だからこその緊張感と臨場感の演出に一役買っていました。

 

 

 

 今回の劇場版は、「空戦のシーンを徹底的に味わって欲しい。キャラクターたちのやりとりや、物語を見たい人はテレビシリーズで!」と割り切り、空戦が楽しめる土台作り、その上で描かれる空戦を面白くすることに徹底していた作品でした。格好良い飛行機が格好良く飛んでいる映像を楽しみたい人にお勧めの一作です。最高でした。

 

 


映画『荒野のコトブキ飛行隊 完全版』本予告 2020年9月11日公開決定!

 

ゼロワンがrealise(リアライズ)したものとは何だったのか。<仮面ライダーゼロワン 最終話・感想>

 『仮面ライダーゼロワン』。令和最初のライダーと謳われた本作ですが、平成ライダーを毎年追ってきたわけではない自分にとってはあまりピンとこない謳い文句でした。それでも本作の題材である人工知能、新しい価値観を以って新時代に相応しい作品を提供してくれるだろうというワクワク感を胸に本作を追ってきました。

 

そして8月31日(日)。話数縮小というアクシデントはあったものの、遂に最終話の放送。感染のリスクを抱えながらも最後まで完走してくれてスタッフとキャストには感謝と尊敬の念が絶えません。お疲れ様でした。

 

人口知能を題材に扱った内容の本作がどんな着地を見せてくれるのか、非常に気になっていました。何より一年に渡り放送されてきた作品の最後は、一年という時間の経過を実感する瞬間の一つです。というか、もう一年経ったのか…腹筋崩壊太郎が話題になった頃が懐かしい…

 

というわけで、最終話を観賞してツイッターに載せた感想をここに残しておこうと思います。

 

REAL×EYEZ(CD+DVD)

 

 

 

 

 

テレビシリーズ第1話と『令和・ザ・ファースト・ジェネレーション』を彷彿とさせる戦闘シーン。アークスコーピオンの猛攻撃に高速移動で対抗するゼロワン。撮影したアクターの映像をベースにCGを合成していくのではなく、別の映像をベースに撮影したアクターを合成した映像。合成が無ければ表現できないような動きが繰り出されるシーンは眼福でした。

 

 

 

ラーニングした事にそのまま従ったり遂行するのではなく、ヒューマギア自身が得た経験から新たな目的・目標を見出す。

 

それは『令和・ザ・ファースト・ジェネレーション』で「父さんを笑顔にする。」という或人の夢をラーニングし「俺が笑い、或人が笑う世界。」という夢を見出した、或人の父でありヒューマギアである其雄の在り方です。そんな父からの言葉を受け取った或人が「(悪意を)乗り越えられる。」とヒューマギアである滅に言葉をぶつける。それがとても嬉しかった。

 

 

 

ヒューマギアの夢を尊重する一方で、ヒューマギアは人間の道具という事実とスタンスは変わらない。それは物凄く食い合わせが悪いというか、歪だなと感じるわけです。もしお笑いヒューマギアの腹筋崩壊太郎がお笑い芸人以外の仕事をしたいと言い出した時、そもそも人間の道具である事を拒絶した時、どうするのか。

 

それに対して道具という枠組みの中でならOKと応えたのが或人で、そもそも道具という枠組みに入れられていることにNOを突きつけたのが滅亡迅雷.netを始めとするヒューマギアたち。

 

ヒューマギアの気持ちを尊重したい一方で、絶対に譲れない線引きがあるわけです。それどころか、譲歩できる部分が物凄く限られてる。せいぜい、ヒューマギアが望む仕事に変えてあげることくらい。

 

そういう歪さを抱えた上で、どうやって答えを見出すのか。ヒューマギアの人間味を見せられてもなお、道具というカテゴリーから逸脱させる事はできない。そんな中で、ヒューマギアが納得できる結論、落とし所を提示できるのか。

 

 

 

本作の最終章では、アークという最悪の結末を用意し、それを回避するという落とし所を提示しました。

 

互いが互いに感情・怒りのままに力をぶつけ合えば、互いを傷つける事になる。どちらも大切なものを失う事になる。だからこそ、人類vs人工知能、人類vsロボット、この対立だけは避けなければいけない。それこそ、越えてはいけない線引きです。辿り着いてはいけない結論です。

 

そんな結論・結末を回避することができたのは、ヒューマギアである滅にも人と同じように感情を持っているから。

 

迅を失った悲しさ故、許せない。だから更に戦おうとするけど、そもそも迅を失ったのは自分が戦っていたから。遡れば、自分も原因だった。やられたら、やり返す。(倍返しする某銀行員ではありません。)その末に大切な存在を失ってしまう。

 

失うことを「悲しい」と感じられるからこそ、踏み止まることができた。

 

本作は、感情の問題には感情で答えていました。例えば、悪意で暴走するメタルクラスホッパーに善意で作られたプログライズホッパーブレードで応え、滅の怒りに対しては、滅自信の悲しみで応える。

 

「感情を持つ。」ことがポイントになる題材において、単に理詰めで応えるのではなく、ちゃんと感情で応えてくれる本作の作劇は良かったと思います。

 

 

 

しかし、落とし所は提示したものの、それが解決になっている訳ではありません。今の形が続く限りは、人と同じ権利を認められないことに不満を抱くヒューマギアは居るはずです。

 

また、仮面ライダーという存在に込められた意味や思い、仮面を付けて戦うことの意味があまり感じられませんでした。『仮面ライダー』という作品だからではなく、そこに意味を見出して欲しかったのが本音です。正直言うと、最終話で「俺たちは仮面ライダーだろ。」という台詞が出てきましたが、本作における「仮面ライダーとはどういう存在なのか。」いまいち分かりませんでした。

 

もしかしたら、『仮面ライダー』こそが、人間とヒューマギアを繋いでくれる存在として描かれていたのかな、と思いました。

 

「道具として」ではあるものの、ヒューマギアを大切な存在と心から思っている人間の或人。「道具として」扱われることを拒絶した、人類を滅ぼそうとするヒューマギアの滅。

両者に共通するのは、大切な存在を一度は失い、憎しみを抱くにまで至ったが、その憎しみ・悪意を乗り越えたこと。辿り着いてはいけない結論を知っています。

 

そんな彼らが『仮面ライダー』という共通の名を持ち、人間とヒューマギアを繋ぎ止めてくれる存在であってくれたらと。『仮面ライダー』という存在が架け橋となってくれたらと思いした。

 

 

 

 作品だけではなく、観賞した他の人の感想を見ていて思ったのは、道具であるヒューマギアを人に向ける愛着と道具に向ける愛着が混在していることです。劇中の登場人物だけではなく、作品を見ている自分たちも。

 

それは、飼っているペットに対して家族と認識する事と長年愛用している道具を大切にする事の違いなのかと。その違いを炙り出した上で、主人公のスタンス、作品が打ち出したのは後者だというところまで示した点において、本作は意義があったのかと思います。

 

そう考えると、さうざー君の登場や、道具と認識しやすい人工知能アイちゃんの登場にも、その違いを認識する上で必要な過程だったのかと思います。

 

 

 

 元の鞘に収まる形となった本作のラストですが、そこには戦いで大切なものを失う事の悲しみを知った者の納得がありました。様々な問題がある中でも絶対に避けなければいけない物、守らなければいけない物が…有ると!或人だけに!!!ハイ!或人じゃーないと!!!

ごめんなさい。一度言って(書いて)みたかったんです。

 

それはさておき、本作を見て思ったのは、人工知能を題材にしているのと同時に、人を題材にしていたということ。「ヒューマギアとは何なのか。」という疑問の答えを考えていく中で、「人とは何なのか。」という問いに対する答えもしていたように思います。

 

本作における人は単に「扱う側の人間」としてではなく、「ラーニングされる側、つまりは人工知能への模範」として描かれていたのではないか。

 

最終話の滅への説得を含め、まさに人工知能に対する模範としての姿を見せてくれた主人公の或人。彼は勿論、他にも、エイムズ組の不破諌と刃唯阿の二人、彼らを道具のように扱っていた天津垓が印象的です。

 

人でさえも、道具のように扱っていた天津垓。彼からラーニングしたアークが、人とヒューマギアを利用して、必要なくなれば切り捨てる。ヒューマギアは人の在り方をそのまま映し出す。

 

そういう意味で、更生した天津垓が行動で示していくシーンがもっと欲しかった。エイムズ関係の調整等、動き回ってくれていることが分かるシーンはあったが、直接アークや或人に関わるところは少なかったのでもっと活躍シーンが見たかった。もしかしてたら、話数を削られてしまって、一番惜しく感じている点かもしれません。

あと、サウザー課の仕事をもっと見たかった…

 

 

 

 人工知能という新しい技術との向き合い方、その模索の道は途上ではあるけれど、それが持つ可能性と、絶対に超えてはいけない一線を示してくれた。人工知能との共存をスタートする為の土台を示してくれたのだと思います。

 

最終話の或人が滅にしたように、人工知能に対して諭し、心の強さ・可能性を説くことが果たしてできるのだろうか。少なくとも、悪意をラーニングさせないような人間でいられるだろうか。そう問われているようでした。

 

まるで襟元を正されるかのような、主人公のように「そう在りたい。」と思わせられました。そういう意味で、正しくヒーロー作品だったのではないかと思います。1年間ありがとうございました。劇場版ならびに次回作『仮面ライダーセイバー』も楽しみです。

 

 

 

異なる選択・ルートを認識しているからこその唯一無二の体験。<Fate/stay night [Heaven's Feel] Ⅲ.spring song・感想>

 桜が咲く季節に公開するはずだった作品がようやく公開しました。『Fate/stay night [Heaven's Feel] Ⅲ.spring song』。

 

Fate/stay night 』の中で分岐する3つの物語、一つ目のルート<Fate>、二つ目のルート<Unlimited Blade Works>、そして三つ目のルート<Heaven's Feel>。3番目の最後の物語である『Heaven's Feel』が三部作構成で劇場アニメ化。今回はその三部作の完結編です。(こうして書いてみると少しややこしい…)

 

私個人は原作のゲームは未プレイ、2011年に放送されたアニメ『Fate/Zero』が本シリーズとのファーストコンタクト。その後もアニメ作品と現在配信中のスマートフォンゲームに限り、『Fate』シリーズに触れています。

 

アニメ『Fate/Zero』の映像美に度肝抜かれ『Fate』シリーズに入った身としては、今回の劇場三部作は非常に楽しみだった訳です。テレビアニメの時ですら「劇場作品のクオリティじゃないですか…」と思っていた作品が本当に劇場版になってしまったんですから。

 

そんな劇場クオリティな作品の劇場版。第一章と第二章では、映像に魅せられながら、本シリーズが現在の人気を獲得した所以を肌で感じる完成度。これ以上にないホップ・ステップが決まり、残すはジャンプのみ。すぐにでも跳びたい気持ちを抑え「春よ、来い」と思いながら一年以上待った末の公開延期。ジャンプの構え延長コース。そして更に約5ヶ月が経過した今、遂に公開。

 

花粉を防ぐためにマスクをしながら観賞するのだろうと思っていたら、別の理由でマスクをして観賞する事に。予定どおりに公開してた時と同じようにマスクをつけているのであれば、これはもう3月なのだろう。延期などしていなかったのだ、良かった。(違う)

 

冗談は置いといて。焦らしに焦らされた中でおかしな事になった期待値を超えてくれるのか。終わってしまうことへの名残惜しい気持ちと、遂に物語の終わりを目撃することができる高揚感が共存した状態で観賞。

 

公開延期が発表された時、延期を嘆く方達の様子を見て、恐らく桜が満開の場面で物語の幕が閉じるのだろうと、なんとなく察していました。しかし個人的にはその事よりも「そこ誰がいるのか?そこにいる人は、幸せなのだろうか?」この点が重要でした。最悪バッドエンドもあり得るのではないか思っていました。

 

そんな中で、観賞後に抱いたのは「これで良かったのか?」という問い。しかし、分岐した他の物語を知っているからこそ、他に可能性があることを知っているからこそ体験できた、唯一無二の作品でした。

 

春はゆく / marie(期間生産限定盤)(DVD付)(特典なし)

 

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 まず映像面から話そうかと思います。世界観に奥行きと深みを与えてくれる写実的なビジュアル、その中に二次元のキャラクターを立たせる撮影の技術、そして写実的なビジュアルに耐えうる作画。そのどれもが高水準。重みのある物語、その中で繰り広げられる別次元の戦い。その密度に相応しい映像になっていると思います。

 

強いて難点を挙げるならば、暗い洞窟の中であまり目立たない色の格好をした者たちが戦っているので、戦闘が少し見辛かったところです。

 

個人的に良かった点は、主人公である衛宮士郎が戦闘に参加していた点。前作では壮絶な戦いが繰り広げられている傍で、それに巻き込まれまいとする主人公達の姿が描写されていた。

 

最終章であり前作以上の戦いが予想される今作では「士郎にできることはあるのか?介入する余地あるのか?」という疑問がついて回りました。近づくことすらままならない圧が、これまでの戦闘にありました。

 

そんな考えは杞憂だと、まるでスクリーンの向こうから言われているかのような戦闘シーンを見せられました。本当に素晴らしかった。特に衛宮士郎&ライダー対セイバーオルタ。各登場人物のパワーバランスを意識しながら、主人公達が勝利するまでの道筋が原作を知らない自分でも理解できる仕上がりになっていました。セイバーオルタ優位である状況に主人公が加わることで勝機を作り出す。その描写が見事でした。

 

また、その戦いの中での主人公の活躍。その描写が、今回の主人公の物語にも繋がっていました。

 

 

 

 そんな主人公は、活躍と同時に痛みに苦しむ事になる。明らかにパワーが桁違いな者同士の戦いに入っていく中で、主人公は大幅なパワーアップが求められる。それに対して、他の者の力を代わりに使うことで対応するのだが、その無理矢理パワーの底上げをした事の代償として、身体に異変が起きる。

 

その異変、主人公にとっての肉体的な苦しみ・痛々しさが、そういったパワーアップ、ひいては壮絶な戦いに一枚噛むことへの説得力を持たせる要因の一つになっています。

 

そしてその苦しみが、主人公の歩んできた道、これから進むであろう道の悲痛さを感じさせ、観ているこちらまで苦しくなってくる。

 

 

 

 本作で一番心に残ったところは、やはり最後の主人公の選択。「正義の味方」という志を捨てることだけではなく、大切な人を守るために自分の身を犠牲にすることさえも躊躇した。

 

しかしそれは悪いことではないし躊躇するのはおかしなことではありません。寧ろ、躊躇してしまうことだからこそ、二つ目のルートで「正義の味方」を目指せる主人公の姿が凄いし尊かったのだと再認識できた。そして、それをできなかった本作の主人公の姿もまた尊重したいと思わせられるんです。

 

Fate/stay night [Unlimited Blade Works] Blu-ray Disc Box Standard Edition(通常版)

 

ヒーローや正義の味方、つまりは二つ目のルートにおける主人公に対して感じたのが「憧れ」であったのに対して、三つ目のルート、特に本作では「共感」でした。

 

他人のために自分の身を犠牲にすることは難しいし、ましてや、自分の命を捨てることは怖い。自分を犠牲にしてでも助けたいと思えることと、自分を犠牲にできる勇気があることはイコールではない。

 

だからこそ、第二ルートの主人公の姿には憧れを抱き、本作のラストの選択がとてつもない共感と感情移入が生まれたのだと思います。

 

 

 

 しかしそれ故に、ラストの彼の端末に対して「これで良かったのか?」と思わずにはいられなかった。

 

主人公は命を落とさずに済んだが、本来の肉体を失い人形の身体になってしまった。あの状況で死なずに済んだだけマシなのかもしれない。戦いの中で身体がああなってしまった時点で、五体満足とはいかないのだから、寧ろこれで良かったのかもしれない。そもそも、主人公達は命助かっただけでも十分満足していて、これは「余計なお世話」なのかもしれない。

 

しかし、別の可能性たる二つ目のルートを含め、これまで自分のことを犠牲にすることに躊躇のなかった主人公が、遂に涙ながらに「死にたくない。」と言う姿にとてつもない人間味を感じた自分にとっては、彼が元の肉体を失ってしまった事実は受け入れ難いものでした。五体満足で、平和な日常に戻って欲しかったと思わずにはいられません。

 

思えば、第二ルート第三ルートは共に主人公の選択を問われ続けていた気がする。自分目指す目標と理想、その在り方、常に問われても折れることのなかった主人公が、最後のルート・物語で折れる。最後にヒロインと並んで立っていた主人公は、どんな思いだったのだろうか。観賞から数日たった今でも、そのことを時折考えてしまいます。

 

 

 

 

 本作を含めた今回の三部作は、3つの物語の分岐を最大限に活かしている。二つ目のルートでは理想は突き進む姿を見せ、本作を含める三つ目のルートでは理想を捨てる姿を見せた。

 

異なる選択と在り方を知っているからこそ、それぞれに感じることのできる選択の尊さ。その決意に憧れ、決断への葛藤に共感した。まさに唯一無二の体験でした。

 

 

 

『ウルトラマンZ(ゼット)』主題歌の「強く優しく」という歌詞に涙してしまった話。

 ブログのタイトルに「不定期」とは入れつつも、あまり間が空き過ぎないようにしていましたが、すっかり更新が止まってしまっていました。コロナウイルスに起因して色んな問題が発生して、やらなくてはいけない事が沢山出てきてこの3ヶ月間物凄く忙しかったんです。

 

色んな映画の公開やテレビアニメの放送が延期になって、正直言うと安堵していました。休日出勤をする必要に迫られることは有りませんでしたが、かといって、映画館まで足を運んで2時間映画を観賞する気力がありませんでした。せいぜい自宅でテレビアニメや特撮作品を1〜2本観賞する程度。

 

そんな中、今年もウルトラマンの新作の放送スタートの時期がやってきました。例年よりも少し早いスタート。この状況で、ウルトラマンの新作を自宅で観ることができるのは、助かるというと大げさかもしれませんが、非常にありがたいです。

 

しかも本作は、自分を再びウルトラの世界に誘ってくれた『ウルトラマンオーブ』のメイン監督である田口清隆さんがメイン監督に再登板。期待値がカンスト状態、いや寧ろカンストしていない方がおかしいという、かなりハードルの高い状態となっております。しかし、その傍らで存在している、ハードルを易々と超えてくれるだろうという安心感。

 

発表会以降、指折り数えて放送を待ち続け、遂に放送日。リアルタイムでの視聴は叶いませんでしたが、彼の名をご唱和するべく、用事を済ませ次第、即視聴してまいりましたでございますよ!

 

ご唱和ください、我の名を!

 

 

 

 実写の映像の中に着ぐるみの怪獣が立っているかと思えば、模型の中に実写の部屋が映し出される。セットと実際の街、その境界線が限りなく無に等しく感じさせてくれる映像の数々に、ため息やら変な笑い、もう色んなものが漏れてきます。

 

 

そんな中、最初のオープニングで泣いてしまいました。

 

心に響くことはあっても、涙を流してしまうほどのことはそうそうありません。では何故、涙を流してしまったのかというと、それはきっと「ウルトラマンが凄いと思った。」からではないかと思います。

 


『ウルトラマンZ』第1話 特別配信「ご唱和ください、我の名を!」 -公式配信- "ULTRAMAN Z" Episode 1 -Official-

 

 

 

 直接的か間接的かは仕事によって異なるかとは思いますが、人は大なり小なり他の人の生活に関わる仕事をしています。3ヶ月前からコロナウイルスに関係する業務を行なっていたのですが、純粋に忙しく、沢山の人と関わって、結構大変だったんですよね。人のことを気にかけたり、その人に寄り添おうとすればするほど、自分自身が疲れてきて余裕が無くなっていく。

 

他の人のために頑張ることって凄く大変なんだなと、痛感したんです。

 

このことを考えてた時、ヒーローって凄いな、ウルトラマンって凄いなって思ったんですね。格好良いではなく、凄い。

 

果てしなく遠い星からやってきて、自分と同じ種族が一切いない環境でひたすら人を助けるために戦う。建物を壊したり何か失敗をしてしまえば、助けようとしている相手から批判の矛先を自分に向けられる。

 

この星を護りたい。その笑顔が見たい。傷つき倒れても構わない。強く優しく。

 

主題歌の歌詞の一部です。人や街を守ろうとしているにも関わらず批判されてしまう中で、どうして「傷つき倒れても構わない」と言えるのか、「この星を護りたい」と言えるのか。

 

だからこそ、その後に続く「強く優しく」という歌詞にひどく胸を響いたんです。心が強いからこそ、優しく在ることができる。この言葉にこそ、ウルトラマンウルトラマンたる所以が込められているのだと、自分が今までに出会ったウルトラマンたちのことを思い出して、そう思います。心が強いからこそ、ウルトラマンなのだと。

 

 

 

 ウルトラマンの凄さ、ヒーローという存在の尊さ、それを実感した今、ウルトラマンのように空を飛んだり、光線を出すことはできないけれど、番組を観て勇気の力をお借りしながら、ウルトラマンのように「強く優しく」ありたいと思いました。

 

それはそれとして、『ウルトラマンZ(ゼット)』の今後がウルトラ楽しみで仕方ありません。年末まで欠かさず、ハルキやストレイジ、そしてウルトラマンZ(ゼット)の物語を見届けたいと思っているのでございます!

 

 

 


6/20(土)~新番組『ウルトラマンZ(ゼット)』スペシャルムービー【初公開映像満載!】

 

 

 

今こそ観よう、手を洗うヒーローを!『ウルトラマンゼアス2』の変身がマイベスト変身という話。

 人との接近を極力避け、これまで気にせずに触ってきたドアノブに触ることをためらってしまう毎日。外出中は何かするたびに手を洗うため、乾燥の季節はとっくに過ぎたはずなのに保湿クリームが手放せません。花粉症に悩ませられる季節も過ぎたのに、今だにマスクを付けて外出をしています。

 

外から家に帰ってくるたびに、持ち歩いていたバッグやスマホ、財布、身につけていた服や眼鏡の全てに次亜塩素酸水を吹き付けて丁寧に拭く。それだけでなく、配達で届けられた荷物や外で購入した商品、毎日郵便受けに入れられている新聞にもシュッシュすることが毎日のルーチン・ワークに。洗濯物の横にビショビショの新聞紙が干されている光景が日常の一部になりつつあります。

 

家でゆっくりしていても、仕事先で仕事をしていても、何処にいても、何をしていても、手を見るとネガティブなことを連想させられてしまう。手洗いがネガティブな話題の象徴になりつつある中、ポジティブな事を考えさせてくれるのが、手を洗う姿の印象的なヒーロー『ウルトラマンゼアス』です。

 

初めて実際に会った時に何故か泣いてしまった子供時代の話など、自分にとって話題に事欠かない存在のウルトラマンゼアス。映画二作(しかも一作品、約60分なので二作品と言っても一般的な映画の一作品分)と映像作品に限ってみると他のウルトラマンシリーズに比べて触れる時間はとても短いです。にも関わらず、何故か自分の中で圧倒的な存在感を放っているウルトラマンゼアス。今回は何故ウルトラマンゼアスがこれほど印象に残っているのかという話と、第2作目『ウルトラマンゼアス2』の変身シーンがマイベスト変身であるという話をしたいと思います。

 

ウルトラマンゼアス 1&2 [Blu-ray]

ウルトラマンゼアス 1&2 [Blu-ray]

ウルトラマンゼアス 1&2 [Blu-ray]

  • 発売日: 2016/12/22
  • メディア: Blu-ray
 

 

 

 

 『ウルトラマンゼアス2』の変身をベストたらしめている理由は、人からウルトラマンに変身するまでの一連の流れを一つのシーンで描いていることです。ウルトラマンゼアスである勝人隊員がアイテムを掲げ、ウルトラマンが登場し空に飛び立っていくまでを一つのシーンで描くことで、「勝人隊員はウルトラマンゼアス。」ということをストレートかつこれ以上にない形で見せてくれます。

 

変身アイテム(ピカリブラッシャー)を掲げる変身のポーズとウルトラマンの拳を突き出して飛んでくるポーズが重なって見えることも、勝人隊員=ウルトラマンゼアスであることをより印象付けてくれているように思います。

 

変身者である勝人隊員が変身アイテムを掲げ光に包まれる、そしてその光からウルトラマンが拳を突き出して迫ってくる定番のぐんぐんカット。

 

変身してから戦いが終わるまで勝人隊員の姿が映ることもなければ、近年誕生したウルトラマンたちのように勝人隊員の声が聞こえてくることありません。それでも、勝人隊員の映像からシームレスにぐんぐんカットに移ることで、彼がウルトラマンに変身したのだと感じることができます。そこで戦っているのはウルトラマンゼアスであり勝人隊員なのだと。

 

 


『ウルトラマンゼアス 1&2』 Blu-ray 2016.12/22発売!!

 この動画の50秒あたりで流れる変身シーンが本当に最高なんですよ、その前後の変身する勝人隊員がアイテムを掲げるシーンとゼアスが飛び立っていくシーンも含めて。

因みに「ぐんぐんカット」とは、ウルトラマンが拳を前に突き出してカメラに向かって飛んでくるシーンのこと。

 

 

 

 ウルトラマンゼアス=勝人隊員にとても親近感が湧くんですよね。手の汚れを洗ったりする仕草が良い意味でウルトラマンっぽくないし、鏡を見て光線の構えの練習する姿も、今思うとごっこ遊びしている子供のようで印象的です。彼の持つ悩みのレベルが人の持つ悩みのレベルと同じなんです。

 

ウルトラマンゼアス2』の序盤で敗北を決した後に戦うことに対し怖がっている時も、目に怪我を負う姿を見ているから、その怖さが子供ながらにもはっきりと分かったんです。パンチを食らって真っ赤になる目が痛々しいし、そもそも顔に向かって拳が飛んでくる事が怖い。

 

彼のキャラクターだけでなく、物語や描写、その一つ一つが『共感』しやすいもので構成されています。だからこそ、彼の一挙手一投足に共感し親近感が湧くんです。

 

勝人隊員=ウルトラマンゼアスの成長が物語の幹となっている本作において、これほどまでに直接的に見せてくれる変身シーンはその後の戦いも含めて非常にグッとくるのです。

 

勝人隊員が克服した恐怖、身に付けた必殺技、その全てがウルトラマンゼアスの戦いに繋がっていく。勝人隊員としての物語とウルトラマンゼアスとしての戦い、その二つを橋渡ししてくれるからこそ、『ウルトラマンゼアス2』の変身シーンは最高なのです。

 

話は逸れますが、橋渡しを可能にしていると思われる要素の一つが「3DCGによるぐんぐんカット」です。ゼアスが「ぶつかる…!」って思うくらい近づいたかと思えば、カメラの方が避けるかのように後ろに引く。そして目の前を通って空に飛び立っていくゼアスをカメラが見送る。

 

変身シーンのカメラワークに限らず、ウルトラマンシャドーとの空中戦におけるスピーディかつアクロバティックな動きを実現したのは3DCGだからこそ。3DCGウルトラマンの格好良さと魅力、特別感は『ウルトラマンゼアス2』で刷り込まれたといっても過言ではありません。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

 

 

 これほどウルトラマンに感情移入でき親しみやすい作品になっているのは、映画2本という時間の限られたフォーマットだった事に起因しているのではないかと思います。他のウルトラマン作品の多くは、約1年間テレビ放送されます。約25分×約50本=1250分のテレビ放送に対して、『ウルトラマンゼアス1&2』は約60分の作品2本、たったの約120分です。

 

ウルトラマンゼアス』という作品がテレビ放送されていた他のウルトラマンと異なる点は、ウルトラマン=変身者自身の成長を作品の中心に据えている点なのではないかと思います。勿論、他の作品でもウルトラマンの成長を描いていましたが、それが前面に押し出されていたり作品の幹となっていたわけではありません。

 

それは、約1年間描いていく中で、一人のキャラクターの成長だけでは、尺を持て余してしまう。だから、キャラクターの成長は描きつつも、それはあくまで作品の要素の一つという位置付けだったのではないかと思います。

 

その中で『ウルトラマンゼアス』は60分×2本という時間の限られたフォーマットだったからこそ、ウルトラマンゼアス=勝人隊員自身の成長を前面に押し出し、作品の中心に据える作劇を実現できた。だからこそ、『ウルトラマンゼアス』という作品以上にウルトラマンゼアスというキャラクターに対し親しみやすさと愛着を感じることができたのではないかと思います。

 

短いにも関わらず印象に残っているのではなく、短いからこそ親しみやすさのあるキャラクター付けがされ印象に残っているのだと思います。そしてそれは、ウルトラマンゼロにも言える事なのかなと思いました。

 

ウルトラマンゼロ』という作品が長い時間をかけて一つの大きなテーマを描いてきたのではなく、映画や短編をはじめとする時間の限られたフォーマットの連なりによってウルトラマンゼロというキャラクターが蓄積されてきた。

 

だからこそ、ウルトラマンゼロは作品として以上に、1人のキャラクターとして親しまれてきたのかと。

 

 

 

 話がウルトラマンゼロの方に逸れてしまいましたが、私にとってウルトラマンゼアスは、自分が知っているウルトラマンの中でも親しみやすさと親近感では抜きん出た存在であり、そんな彼が手を洗う姿を今でも思い出します。そして同時に、彼の頑張る姿も思い出すからこそ、今のこの状況でも頑張ろうと思えるのです。

 

だから今こそ観てよう『ウルトラマン1&2』を。

 

ウルトラマンゼアス 1&2 [Blu-ray]

ウルトラマンゼアス 1&2 [Blu-ray]

  • 発売日: 2016/12/22
  • メディア: Blu-ray
 

 

 

 

無限大の夢のあとの「最後の進化」が新たな無限大の夢を作り出す。<デジモンアドベンチャー ラストエボリューション 絆・感想>

 2020年2月21日金曜日、『劇場版 デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』が公開されました。子供の頃に見ていた『デジモンアドベンチャー』の最新作。自分にとっては、子供の頃の楽しい思い出を作ってくれたコンテンツの一つです。デジモンにはアニメだけでなく漫画や玩具、カード、ゲームと様々な媒体で触れました。特にデジヴァイスを買ってもらい大切に持っていたことを今でも覚えています。

 

 

かつて子供の頃の自分に無限大の夢を見せてくれた『デジモン』が、大人になった自分に何を見せてくれるのか。「最後」と銘打った本作を観に行かない訳には行きません。公開初日に早速行ってきました。

 

本作で描かれたのは「デジモンとの別れ」。大切な思い出は前に進むことを躊躇わせてしまうかもしれない。でも前進することを後押ししてくれるものもまた、昔の大切な思い出なのだと教えてくれる作品でした。このシリーズの一つの終わりとして、これ以上にないものを観ることができたと思います。本作は『デジモンアドベンチャー』という作品の終わりに相応しい作品でした。

 

映画ノベライズ デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆 (ダッシュエックス文庫)

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 本作が素晴らしい点は、ラストに訪れる「別れ」に納得と希望をしっかりと持たせてくれたことです。『デジモンアドベンチャー』の放送して以来、当時の視聴者にとって定着した、太一とアグモン/ヤマトとガブモンが並んだ姿。そこからアグモンとガブモンが居なくなってしまうことを如何にして描くのか。

 

太一とヤマトは勿論ですが、20年前に『デジモンアドベンチャー』を見ていたファン、デジモンに出会った時には太一達と同じくらいの年齢だった人たちにとって、その結末を納得させてくれるのか。それが本作を制作する上での最大のハードルであると思っていました。

 

その点に関して、本作を観賞する前は不安を感じていました。しかし本作は、そのハードルを見事に乗り越えていたと思います。

 

 

 

 太一とヤマトは、戦うとアグモンたちとの別れが近づいてしまうことを理由に、戦いを躊躇してしまいます。そんな時に「闘おう。」と言ってくれたのが、アグモンとガブモンです。その言葉のおかけで、2人は闘うこと決意します。

 

太一とヤマトにはそれぞれ、アグモンとガブモンと積み重ねてきた思い出があります。だからこそ、別れを早めてしまうこと、戦うこと躊躇ってしまいます。でも「最後の進化」をする決意ができたのも、アグモンとガブモンが居たからです。

 

そう感じたからこそ、太一とヤマトに「助けよう。みんなを。」と力強い言葉を投げかけてくれるアグモンとガブモンの姿に涙を禁じ得ません。

 

 

 

 このような内容を描く上で、本作に散りばめられている過去作のオマージュの一つ一つが非常に効果的に生きてました。冒頭から繰り広げられる街中でのデジモン同士の戦い、そこで聞こえるボレロ。また、真剣に話している太一達の横で楽しそうに遊んでるデジモンの姿。そこに溢れ出ている「懐かしさ」が、彼らの別れへの名残惜しさを更に引き立たせます。

 

デジモンアドベンチャー』の終わりを描いていく上で、本作にはこれまでに描かれてきたものを大切にしていることが伺えました。だからこそ本作が『デジモンアドベンチャー』の終わりを飾る作品だと、太一とアグモン/ヤマトとガブモンの別れを描く作品としてこれ以上にない作品だと感じることができました。

 

 

 

 ラストシーンの太一の書いた卒論のテーマもまた、アグモンとの別れを先に進む糧にした証であり、これから太一の進む人生の中にアグモンとの絆が存在し、進んだ先にアグモンはきっといるのだろうと思わせてくれます。

 

大切なものとの別れは名残惜しい。しかし大切なものこそが先に進む糧となり、新たな出会い、そしてなにより大切なものとの再会という新たな無限大の夢を作り出すのだろうと。

 

本作が『デジモンアドベンチャー』の最後を飾る作品で本当に良かったと思いました。「また観たい。」と言いたいところですが、本作の内容を考えると「観たくない。」とも思うので悩ましい。でもあと1回くらいなら、いいですよね?

 

 

 

 

仮面ライダーゼロワンの新フォームとヒューマギアは、人に何を教えてくれるのか。

 現在放送中の『仮面ライダーゼロワン』で新フォーム「メタルクラスタホッパー」が登場しました。基本フォームのライジングホッパーからシャイニングホッパーとシャイニングアサルトホッパー、ストレートに格好良く進化してきているゼロワン。

 

 

平成ライダー、特に平成2期に分類される仮面ライダーでは、アイテムや顔をそのまま体にくっつける「全部乗せ奇抜」(例:ビルド ジーニアスフォーム)や元から奇抜なことによる「どうあがいても奇抜」(例:グランドジオウ)、奇抜なデザインに慣れた頃にそれを上回る奇抜さでくる「奇抜の上乗せ」(例:エグゼイド マキシマムゲーマーレベル99)などがあります。(あくまで個人的な認識です。)

 

仮面ライダーのデザインは奇抜。」という土壌がある程度かたまっている中でのゼロワンの進化形態。シリーズをずっと追ってきた人、その土壌が強固な人にとっては、シンプルに格好良いことが寧ろ奇抜なのではないかなと思ったりもします。「こんなに順調に格好良いと、最終フォームで奇抜なデザインがくるのではないかと。」と逆に不安になっている反応がSNS上で見られたのが印象的でした。

 

順調に(?)格好良いフォームを積み上げている仮面ライダーゼロワン。その最新フォーム(2月9日現在)であるメタルクラスタホッパーには、ヒューマギアの可能性を示す上で非常に大きな意味を持つのではないかと楽しみにしています。そして同時に、楽しみであるからこそ、不安を感じています。

 

仮面ライダーゼロワン RKF 仮面ライダーゼロワン メタルクラスタホッパー 

 

仮面ライダーゼロワン RKF 仮面ライダーゼロワン メタルクラスタホッパー
 

 

 

 

(以下、作品本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 飛電インテリジェンスの作ったAIロボット・ヒューマギアとZAIAエンタープライズの作ったウェアラブル端末・ZAIAスペック。どちらが優れているのかを競う「お仕事5番勝負」が、現在は行われています。3番目の勝負が終了した時点で、飛電インテリジェンスは1勝2敗。その中でヒューマギアが再び暴走してしまう事態が発生。それに対してZAIAエンタープライズの社長である天津垓は、ヒューマギアではなく人間の方が優れていると主張します。

 

シンギュラリティに達した=感情を持ったヒューマギアは感情を制御することができず、人間に対する怒りを垂れ流して人を襲う。そんなヒューマギアを廃棄すべきだと。

 

この「感情を制御する。」ということに関する話が非常に興味深いなと思います。以前「『仮面ライダーゼロワン』という作品がやろうとしていることは、ヒューマギア(AI)と人間の対比を通じて、人間の当たり前を見直す、場合によっては再定義することなのではないか」と自分は書きました。

 

「お仕事5番勝負」編では「感情の制御」にフォーカスを当てていると思います。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

 

 

 ここで考えるのは、天津垓が今やっていること、そして飛電或人がこれまでやってきたヒューマギアの撃破は「感情の抑圧」に該当するのではないかということ。コントロールできないから壊そう。感情を制御できないから壊そう。それで一旦は解決しますが、根本的な解決にはなってない。

 

あえて意地悪な言い方をすると、言い訳できるゼツメライザーなどのベルトや滅亡迅雷.netの存在がなくなったことで、これまで棚上げにしてきた問題に対して答えを出さなければいけない時が来た。

 

そこで出てくるのがメタルクラスタホッパー。

 

www.kamen-rider-official.com

 

 

 

 

 制御することのできないメタルクラスタホッパーの力。しかもその暴走は人間の悪意を学習(ラーニング)した衛星アークと接続することによるものです。否が応でも、天津垓の主張を連想させます。メタルクラスタホッパーは、ヒューマギアの抱える「制御できない問題」を仮面ライダーゼロワン=飛電或人に転写する存在とも言えます。

 

だからこそ、メタルクラスタホッパーが突破口になるのではないかと思うのです。仮面ライダービルドの時のように、問題を克服する過程で「ヒューマギアは感情を制御できる。」という可能性を提示できるのではないか。

 

ゼロワンのパワーアップという枠を超えて、ヒューマギアにとっての希望になるような大きな存在になるのではないかと思います。しかし同時に不安も感じます。暴走をアッサリ克服してしまうなど、扱い方を誤れば作品のテーマが一気に浅くなってしまいかねない。

 

だからこそ、メタルクラスタホッパーの今後が楽しみであると同時に不安でもあるのです。

 

仮面ライダーゼロワン DXメタルクラスタホッパープログライズキー 

仮面ライダーゼロワン DXメタルクラスタホッパープログライズキー

仮面ライダーゼロワン DXメタルクラスタホッパープログライズキー

  • 発売日: 2020/02/15
  • メディア: ウェア&シューズ
 

 

 

 

 ここまで考えてみると、対戦相手の人が割と露骨にヒューマギアに対して悪意をぶつけてくるのも、天津垓の言う「感情を制御できない」ことを意識しての演出なのかと思えてきます。

 

今自分たちが生業にしている仕事が、いつかAIやロボットに取って代わられるかもしれない。

 

AIが生活の中で聞く機会が増えてきている現在、そういう漠然とした不安を少なからず感じていると思います。そんな気持ちの現れなのか、インターネットで検索してみるとAIに取られる仕事のランキングというものが沢山出てきます。

 

仮面ライダーゼロンワン』では、そうした不安など漠然としたものを突っついてきている。人の感情に訴えかけるお笑い芸人から始まり、寿司職人や教師、漫画家のアシスタントなど、決して単純作業ではない職業をヒューマギアがこなす様子が描かれてきました。漠然としていた「AIに仕事が取られる可能性」に『仮面ライダーゼロワン』は現実味をおびさせてきた。更に今の「お仕事5番勝負」は、対決という形でそういう気持ちを煽る構造になっている。

 

 

「勝たなければならない!」「負けを認めたくなかった。」

 

対戦相手の台詞だけ見てみると、物凄く刺さります。対戦相手側の人間に嫌でも自分を重ねてしまう。勝負の舞台(職業)が、もし自分の生業だったら?そう考えずにはいられません。

 

あえて大げさな言い方をすると、対戦相手側の人は「お仕事5番勝負」における人類代表です。自らの敗北は、その職業に携わっている人々全員の敗北をも意味する。そのプレッシャーは計り知れません。だからこそ、対戦相手であるヒューマギアに対して悪意を向けてしまい、暴走のきっかけを作ってしまっています。

 

感情の制御は決して、人事ならぬヒューマギア事ではありません。

 

メタルクラスタホッパーの制御、そしてヒューマギアの感情の制御を経て、ヒューマギアは何をラーニングするのか。そして或人が言ったように、人もヒューマギアから何を学ぶのか。そんなことを考えながら、新フォームを含めた今後の展開に注目したいと思います。