モリオの不定期なblog

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ゼロワンがrealise(リアライズ)したものとは何だったのか。<仮面ライダーゼロワン 最終話・感想>

 『仮面ライダーゼロワン』。令和最初のライダーと謳われた本作ですが、平成ライダーを毎年追ってきたわけではない自分にとってはあまりピンとこない謳い文句でした。それでも本作の題材である人工知能、新しい価値観を以って新時代に相応しい作品を提供してくれるだろうというワクワク感を胸に本作を追ってきました。

 

そして8月31日(日)。話数縮小というアクシデントはあったものの、遂に最終話の放送。感染のリスクを抱えながらも最後まで完走してくれてスタッフとキャストには感謝と尊敬の念が絶えません。お疲れ様でした。

 

人口知能を題材に扱った内容の本作がどんな着地を見せてくれるのか、非常に気になっていました。何より一年に渡り放送されてきた作品の最後は、一年という時間の経過を実感する瞬間の一つです。というか、もう一年経ったのか…腹筋崩壊太郎が話題になった頃が懐かしい…

 

というわけで、最終話を観賞してツイッターに載せた感想をここに残しておこうと思います。

 

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テレビシリーズ第1話と『令和・ザ・ファースト・ジェネレーション』を彷彿とさせる戦闘シーン。アークスコーピオンの猛攻撃に高速移動で対抗するゼロワン。撮影したアクターの映像をベースにCGを合成していくのではなく、別の映像をベースに撮影したアクターを合成した映像。合成が無ければ表現できないような動きが繰り出されるシーンは眼福でした。

 

 

 

ラーニングした事にそのまま従ったり遂行するのではなく、ヒューマギア自身が得た経験から新たな目的・目標を見出す。

 

それは『令和・ザ・ファースト・ジェネレーション』で「父さんを笑顔にする。」という或人の夢をラーニングし「俺が笑い、或人が笑う世界。」という夢を見出した、或人の父でありヒューマギアである其雄の在り方です。そんな父からの言葉を受け取った或人が「(悪意を)乗り越えられる。」とヒューマギアである滅に言葉をぶつける。それがとても嬉しかった。

 

 

 

ヒューマギアの夢を尊重する一方で、ヒューマギアは人間の道具という事実とスタンスは変わらない。それは物凄く食い合わせが悪いというか、歪だなと感じるわけです。もしお笑いヒューマギアの腹筋崩壊太郎がお笑い芸人以外の仕事をしたいと言い出した時、そもそも人間の道具である事を拒絶した時、どうするのか。

 

それに対して道具という枠組みの中でならOKと応えたのが或人で、そもそも道具という枠組みに入れられていることにNOを突きつけたのが滅亡迅雷.netを始めとするヒューマギアたち。

 

ヒューマギアの気持ちを尊重したい一方で、絶対に譲れない線引きがあるわけです。それどころか、譲歩できる部分が物凄く限られてる。せいぜい、ヒューマギアが望む仕事に変えてあげることくらい。

 

そういう歪さを抱えた上で、どうやって答えを見出すのか。ヒューマギアの人間味を見せられてもなお、道具というカテゴリーから逸脱させる事はできない。そんな中で、ヒューマギアが納得できる結論、落とし所を提示できるのか。

 

 

 

本作の最終章では、アークという最悪の結末を用意し、それを回避するという落とし所を提示しました。

 

互いが互いに感情・怒りのままに力をぶつけ合えば、互いを傷つける事になる。どちらも大切なものを失う事になる。だからこそ、人類vs人工知能、人類vsロボット、この対立だけは避けなければいけない。それこそ、越えてはいけない線引きです。辿り着いてはいけない結論です。

 

そんな結論・結末を回避することができたのは、ヒューマギアである滅にも人と同じように感情を持っているから。

 

迅を失った悲しさ故、許せない。だから更に戦おうとするけど、そもそも迅を失ったのは自分が戦っていたから。遡れば、自分も原因だった。やられたら、やり返す。(倍返しする某銀行員ではありません。)その末に大切な存在を失ってしまう。

 

失うことを「悲しい」と感じられるからこそ、踏み止まることができた。

 

本作は、感情の問題には感情で答えていました。例えば、悪意で暴走するメタルクラスホッパーに善意で作られたプログライズホッパーブレードで応え、滅の怒りに対しては、滅自信の悲しみで応える。

 

「感情を持つ。」ことがポイントになる題材において、単に理詰めで応えるのではなく、ちゃんと感情で応えてくれる本作の作劇は良かったと思います。

 

 

 

しかし、落とし所は提示したものの、それが解決になっている訳ではありません。今の形が続く限りは、人と同じ権利を認められないことに不満を抱くヒューマギアは居るはずです。

 

また、仮面ライダーという存在に込められた意味や思い、仮面を付けて戦うことの意味があまり感じられませんでした。『仮面ライダー』という作品だからではなく、そこに意味を見出して欲しかったのが本音です。正直言うと、最終話で「俺たちは仮面ライダーだろ。」という台詞が出てきましたが、本作における「仮面ライダーとはどういう存在なのか。」いまいち分かりませんでした。

 

もしかしたら、『仮面ライダー』こそが、人間とヒューマギアを繋いでくれる存在として描かれていたのかな、と思いました。

 

「道具として」ではあるものの、ヒューマギアを大切な存在と心から思っている人間の或人。「道具として」扱われることを拒絶した、人類を滅ぼそうとするヒューマギアの滅。

両者に共通するのは、大切な存在を一度は失い、憎しみを抱くにまで至ったが、その憎しみ・悪意を乗り越えたこと。辿り着いてはいけない結論を知っています。

 

そんな彼らが『仮面ライダー』という共通の名を持ち、人間とヒューマギアを繋ぎ止めてくれる存在であってくれたらと。『仮面ライダー』という存在が架け橋となってくれたらと思いした。

 

 

 

 作品だけではなく、観賞した他の人の感想を見ていて思ったのは、道具であるヒューマギアを人に向ける愛着と道具に向ける愛着が混在していることです。劇中の登場人物だけではなく、作品を見ている自分たちも。

 

それは、飼っているペットに対して家族と認識する事と長年愛用している道具を大切にする事の違いなのかと。その違いを炙り出した上で、主人公のスタンス、作品が打ち出したのは後者だというところまで示した点において、本作は意義があったのかと思います。

 

そう考えると、さうざー君の登場や、道具と認識しやすい人工知能アイちゃんの登場にも、その違いを認識する上で必要な過程だったのかと思います。

 

 

 

 元の鞘に収まる形となった本作のラストですが、そこには戦いで大切なものを失う事の悲しみを知った者の納得がありました。様々な問題がある中でも絶対に避けなければいけない物、守らなければいけない物が…有ると!或人だけに!!!ハイ!或人じゃーないと!!!

ごめんなさい。一度言って(書いて)みたかったんです。

 

それはさておき、本作を見て思ったのは、人工知能を題材にしているのと同時に、人を題材にしていたということ。「ヒューマギアとは何なのか。」という疑問の答えを考えていく中で、「人とは何なのか。」という問いに対する答えもしていたように思います。

 

本作における人は単に「扱う側の人間」としてではなく、「ラーニングされる側、つまりは人工知能への模範」として描かれていたのではないか。

 

最終話の滅への説得を含め、まさに人工知能に対する模範としての姿を見せてくれた主人公の或人。彼は勿論、他にも、エイムズ組の不破諌と刃唯阿の二人、彼らを道具のように扱っていた天津垓が印象的です。

 

人でさえも、道具のように扱っていた天津垓。彼からラーニングしたアークが、人とヒューマギアを利用して、必要なくなれば切り捨てる。ヒューマギアは人の在り方をそのまま映し出す。

 

そういう意味で、更生した天津垓が行動で示していくシーンがもっと欲しかった。エイムズ関係の調整等、動き回ってくれていることが分かるシーンはあったが、直接アークや或人に関わるところは少なかったのでもっと活躍シーンが見たかった。もしかしてたら、話数を削られてしまって、一番惜しく感じている点かもしれません。

あと、サウザー課の仕事をもっと見たかった…

 

 

 

 人工知能という新しい技術との向き合い方、その模索の道は途上ではあるけれど、それが持つ可能性と、絶対に超えてはいけない一線を示してくれた。人工知能との共存をスタートする為の土台を示してくれたのだと思います。

 

最終話の或人が滅にしたように、人工知能に対して諭し、心の強さ・可能性を説くことが果たしてできるのだろうか。少なくとも、悪意をラーニングさせないような人間でいられるだろうか。そう問われているようでした。

 

まるで襟元を正されるかのような、主人公のように「そう在りたい。」と思わせられました。そういう意味で、正しくヒーロー作品だったのではないかと思います。1年間ありがとうございました。劇場版ならびに次回作『仮面ライダーセイバー』も楽しみです。