モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

公式が「間違いでした」と宣言した時、信じていた観客はどうすればいいのか。

 脚本に留まらず、それを裏付けるかのようなコンセプトアートが多数出た『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』。否応無しに「これが観たかった。」という思いと、制作者に対する失望が強くなってます。

 

View post on imgur.com

imgur.com

 
じゃあ作り直して欲しいのかというと、そんなことはありません。なぜなら本作が好きではない理由が、まさにやり直したことに起因するから

 

STAR WARS スターウォーズ (映画公開記念「スカイウォーカーの夜明け」) - Jedi Fallen Order (Landscape) / ポスター 【公式/オフィシャル】 

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 


 自分はエピソード1〜3からスターウォーズに触れました。「シスがわるものでジェダイがいいもの。」その枠組みはハッキリしていました。だからこそ、アナキンがシスに堕ちる事は当時の自分にとっては衝撃的でした。ジェダイとシスの枠組みを土台に描かれた物語は今も自分の心に残っています。

 

そんな中でエピソード8では、主人公レイはルークの子でもなければ誰の子でもなかったことが明らかになりました。物語の根底にあったジェダイとシスの枠組みに一石を投じる展開、そこに新しく3部作を作る意義と可能性を感じていました。


エピソード9の予告編ではシスの象徴の一つである赤いライトセーバーを持つレイの姿がありました。エピソード8で示した方向性を感じさせる映像にワクワクしていました。

 

 


 しかし本編ではそんなことはありませんでした。赤いライトセーバーを持つレイは現実ではなかったし、ジェダイとシスという枠組みは無くなりませんでした。


ジェダイとシスの枠組みからの脱却を最初に感じさせてくれたレイの出自。エピソード9では、実はパルパティーンの血を継いでいる事が判明しました。


ここまでは別に良かった。血族だけで言えばシスの素養を持つであろうレイが、シスではない道を選ぶ。ジェダイなのか、シスなのか、その二択ではない。そもそも選択しない、もしくはその両方という別の選択肢を作り出してこそ、二つの枠組みから脱却できるのではないかと思いました。

 

しかし、レイは最後に「レイ・スカイウォーカー」と名乗りました。

 

パルパティーンの血を引いているレイがスカイウォーカーを名乗ることは、一見枠組みからの脱却しているようで脱却できていない。寧ろ、ジェダイは光であり善、シスは闇であり悪、その対立構造のまま。元の鞘に収まったに過ぎませんでした。

 

 


 本作の許せないところは、一度描こうとしたものを引っ込めてしまったことです。『アニメタ!』という漫画にこのような台詞があります。

 

「必要なのは自分を悪く言ってくる人と戦う覚悟じゃなく自分のことを良いと言ってくれている人を信じてやり抜く覚悟」

 

自分の実力ではなく有名漫画家の娘だから選ばれたのではないか、そしてそのことで批判を受けるのではないかと悩んでいるアニメーターに対して、先輩アニメーターがかけた台詞です。

 

アニメタ!(5) (モーニングコミックス)

アニメタ!(5) (モーニングコミックス)

 

 

エピソード8で見せてくれたチャレンジを楽しみにしたい、支持したいという人は居たはずです。少なくとも自分はそうです。しかし作り手側は、そのチャレンジを止めてしまいました。

 

 

 

 しかし一方で、エピソード9の結末に満足している人もいます。だから、もしエピソード9を没案で作り直すなんてことをしてしまったら、同じことの繰り返しです。だからこそ、作品に、没となった脚本・コンセプトアートに対してモヤモヤとワクワクが入り混じったものを感じてしまう。

 

発起人である制作者がチャレンジから先に降りてしまった時、そのチャレンジを支持して乗った観客はどうすればいいのでしょうか。

 

 

 

二次元と三次元を行き来するセルルック3DCGの到達点<HUMAN LOST 人間失格/感想>

 ツイッターの自己紹介欄にセルルック3DCGが好きだと書くくらいにはセルルック3DCG好きのモリオ です。

 

「手書きアニメーションの質感を3DCGによって表現する。」この題目に対して様々な会社がそれぞれ異なるアプローチで挑戦しています。その結果生まれる新しい映像の数々が、とても新鮮で見応えがあるわけです。思えば、自分がブログを始めて最初に書いた映画の感想記事はアニメ版の『GODZILLA:星を喰う者』でした。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

mori2-motoa.hatenablog.com

 

アニメ版ゴジラ3部作のアニメーション制作を担当したのはポリゴン・ピクチュアズという会社です。アニメ『スター・ウォーズ レジスタンス』『トランスフォーマー プライム』を制作、セルルック3DCG作品だと『シドニアの騎士』『亜人』『BLAME!』『GODZILLA』を世に送り出してきました。他にも『METROID Other M』『ストリートファイターⅤ』などのムービーも制作しています。(制作していたことを知って驚いたのは『Showbiz Countdown』)

 

自分にとって「間違いない。」と全幅の信頼をおいている制作会社ですが、そのポリゴン・ピクチュアズの最新劇場アニメーションが『HUMAN LOST 人間失格』です。

 

HUMAN LOST 人間失格 ノベライズ (新潮文庫nex)

 

HUMAN LOST 人間失格 ノベライズ (新潮文庫nex)

HUMAN LOST 人間失格 ノベライズ (新潮文庫nex)

  • 作者:葵 遼太,MAGNET
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/10/27
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 そうあの『人間失格』です。太宰治の代表作である『人間失格』です。しかもただアニメ化するのではなく「SFダークヒーロー」にするというのだから驚き。

 

しかし私にとってそのことは、良くも悪くもあまり気になりませんでした。『人間失格』の内容を大まかに理解はしていても、じっくりと読んだことがありません。なので私にとってはあくまでポリゴン・ピクチュアズの最新作として非常に楽しみでした。

 

シドニアの騎士』や『BLAME!』では遠未来の世界、『亜人』では人としての一線を超えた死闘、『ゴジラ』ではアニメーションの世界に降り立った怪獣王。ポリゴン・ピクチュアズはこれまで様々な映像で魅せてきてくれました。

 

そして次に描くのがダークヒーロー。観に行かない理由がありません。

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 セルルック3DCGのアニメーションが好きなのは、自分の認識が手書きと3DCGの間を行ったり来たりするかのような体験があるからです。手書きのアニメーションのようにも見える3DCGを観るうち、手書きと3DCGの境界が曖昧になっていく。自分の認識が揺さぶられる感覚をセルルック3DCGは生み出してくれます。

 

二次元のようにも見える三次元という矛盾しているように思える表現。しかし本作ではそれを見事に成立させ、今までに無い新鮮なものになっています。

 

 

 

 手書きによる二次元の表現において、斜めに人の顔が映る時は顔の輪郭や目と鼻の位置関係が立体としては成立しなくなります。(必ずしもそうではありませんが。)だからこそ3DCGで表現する時には、色味などの質感は寄せることはできても、どうしても体のパーツの配置感が手書きのアニメーションには近づけることが難しい。

 

むしろ手書きのアニメーションの質感になまじ似ていることで、立体的には正しいはずなのに違和感が生じてしまう。セルルック3DCGアニメにおける難題の一つではないかと、観る側なりに感じています。

 

しかしその違和感は、本作では全く感じません。

 

 

 

 

 まず本作で度肝を抜かれた点は「パーツの配置」です。そもそも日本の手書きアニメーションにおいて、様々なものは立体的には正確ではありません。嘘があります。目と鼻の位置関係、腕の長さ、アニメーションで描かれる様々なものは、シーンに応じて形が変わり立体的には不正確であったり曖昧になります。

 

しかし、立体的には不正確でも説得力を生むどころか、寧ろ表現として外連味や勢いなど、独自の魅力に昇華してきたのが、日本の手書きアニメーションだと思っています。

 

立体として成立しないパーツの配置にし、時には輪郭さえも曖昧にする。そうすることで、表現のメリハリや速さを表現する。崩すことにこそ魅力を見出してきました。

 

 

 

 だからこそ、セルルック3DCGの表現は難しい。立体としてできてしまっているキャラクターや物を崩すことは容易ではありません。その制約の中で、いかにして手書きの質感に寄せていくのか。加えて、寄せていく手書きのアニメーションにも作品によって質感は異なります。

 

そんな中で、立体である事を活かして手書きに寄せつつも手書きにはできない表現を付与する会社があれば、とことんまで手書きに寄せて並べても遜色ない質感にする会社もある。

 

ポリゴン・ピクチュアズはどちらかというと、前者の印象です。あくまで3DCGによる表現をベースにしつつ、手書きのアニメーションの質感を細部に施していく。表現する物によっては寧ろ写実的な質感を入れている。(アニゴジや亜人など。)

 

そんなポリゴン・ピクチュアズが最新作『HUMAN LOST 人間失格』では、前者や後者の分類すら超越したレベルにまできたように思います。

 

本作ではそのパーツの配置感が、手書きアニメーションのそれなんです。特に下の載せた予告編の30秒の竹一と44秒の柊美子。口と目と耳、そして輪郭。それらの並びが実に手書きアニメーション的。前述した違和感が無いんです。

 

手書きアニメーションの遺伝子が、その映像には流れている。

 

 

 

 

 更に、忘れてはならないのがカメラワーク。メリハリとハッタリの効いた見栄が決まったと思ったら、カメラが被写体の後ろにぐるっと回り込む。これがたまらなく気持ち良い。

 

一つの方向から見ることを考えて作り出す映像の嘘。観る人間にとって手書きアニメーション特有の気持ち良いハッタリの効いた画。そしてそのままシームレスに移行する立体的なカメラワーク。

 

一つの方向から見ることを想定した見栄と立体的なカメラワーク。その両立によって生まれるのが、これまでにないくらいのメリハリと緩急の効いたアクションシーン、そして臨場感です。これが実に素晴らしい。

 

セルルック3DCGを初めて観た時から思い描いていた理想の一つが、本作の中には広がっています。 

 

 

 

 

 本作のアニメーションで驚いた点はもう一つ。キャラクターの感情表現です。これまでのポリゴン・ピクチュアズでは、時に役者の演技に負けている事は否めないと感じる瞬間が少しありました。しかし、本作のキャラクターの表情は負けていなかった。

 

特に心揺さぶられたところは、葉藏と美子が思いをぶつけ合う場面です。父親を殺めてしまった事実を思い出し悲しみにくれる葉藏と、それでも「進むしかない。信じるんです、未来を。」と涙ながらに諭す美子。

 

記号的な表現を超越したキャラクターの演技が本作の魅力の一つであり、前述の場面は本作のハイライトの一つであることは間違いありません。

 

 

 

 手書きのアニメーションのような見た目でありながら、3DCGならではの立体的なカメラワークの実現。セルルック3DCGを初めて観たときに自分が思い描いた理想のアニメーションの一つが、本作にはありました。

 

だからこそ本作は心底好きですし、ポリゴン・ピクチュアズの次回作が今から楽しみで仕方ないのです。

 

 

 

 本作の主題歌MV。本編のシーンが多数確認できる。

 

 

 

 

夢を目指すか、諦めるか。「どちらかを選ぶ」という行為そのものを肯定する。<空の青さを知る人よ/感想>

 作品を通じて様々な登場人物を見ていると、時々、自分の人生について考えさせられます。様々な事に悩み苦しみながらも一つの決断と選択をする登場人物達。スクリーン向こう側の彼らに感情移入し、彼らの選択に膝を打ち、頭を抱えたり、目頭を熱くしる。するとふと「自分はどうだろう。」という疑問が頭の中をよぎる。自分が過去にした選択は後悔のないものだったろうか。これから自分のする選択を後悔の無いものにできるだろうか。

 

そんな疑問に対して一つの答えを示してくれた作品が『空の青さを知る人よ』です。

 

 

 

 本作の印象に残った点は、夢を追いかける事と夢を諦める事、その2つを共に肯定したことです。夢を叶えるために街を出ていった慎之介(しんの)、妹の為に街に残ったあかね、街を出てようと考えているあおい。それぞれの選択に焦点を当てて、彼らの葛藤と思いの強さを浮き彫りにした上で、それぞれの選択を尊重する。

 

選んだ道ではなく、選ぶという行為そのものに意味と尊さを見出して肯定する。そんな本作の物語に心動かされました。

 

 

 

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 夢を目指すのか、諦めるのか。その選択をすることは、夢の大小を問わず多くの方達が経験したと思います。目指すことを選択した人もいれば諦めることを選択した人もいる。

 

どちらの選択をしても、結果によっては後悔が生まれてしまうかもしれない。夢を目指しても思い通りにならなかった時、そもそも夢を目指せずに諦めてしまった時、「自分の選択は間違っていた。」と思ってしまうかもしれない。

 

そんな選択を肯定してくれるのは、選択する時に自分が大切にしていたものです。 

 

 

 

 

 本作には夢を叶えるために上京する決断をした慎之介と、上京するか迷っている13年前の慎之介(しんの)が登場します。ミュージシャンとしての活動が思うようにいっていない慎之介は夢に対する情熱を失いかけています。

 

慎之介は高校生の頃、ミュージシャンとして売れる夢を目指すために上京する決断しました。同時に上京を断念した恋人であったあかねとは、別れる事になってしまった。慎之介にとって、夢とあかねは同じくらい大切な存在です。

 

そんな選択をした時の気持ちを代弁してくれたのが、他でもない13年前の自分自身(しんの)です。

 

夢を追って上京するか、あかねと同じく上京をやめるのか、分かれ道の目の前に立っていた13年前の慎之介(しんの)。迷っていた自分の気持ちを理解できる。だからこそ、上京する決断をした慎之介に「それでも、前に進んだんだろ。」と言葉をぶつける。夢を目指した上京する決断をした慎之介を肯定する。

 

 

 


 本作において選択をしたのは、あおいも例外ではありません。しんのがいなくなってしまった後、彼と別れを告げた彼女は力一杯走りながら跳び上がる。しかしその跳躍は、さっきの事は夢だったのではないかと思わせるほどに低い。跳べば跳ぶほど、しんのが居なくなった事実があおいに突きつけられる。

 

でもそれは他でもない、あおい自身がした選択。しんのが好きになってしまった自分の気持ちに向き合いながらも、しんのの為、慎之介の為、そして何より自分のために上京しない選択をしてくれた姉の為に選択する。

 

止める事ができないほどに溢れ出す涙。それでもあおいは「泣いてないし。」と強がる。それは他ならぬ姉のために自分が我慢する番である事、大好きな姉のために出来る最大限の選択だと思っているから。だからこそ、姉の目が届かないところで涙を流し、最後には再び歩き出す。

 

 

 

 妹の選択を受けて、あかねもまた選択します。

 

「あの時の自分と同じ歳なんだ。」

 

自分と同じ様に、自分や誰かの事を気遣ったり、我慢したりする事ができる。妹は大丈夫だと、自分を優先しても良いんだと思えるくらいに成長したんだと。それを悟ったからこそのツナマヨ。いつも、おにぎりの具を昆布にしていたのは、妹の事を優先していた事を象徴している。妹の好きな昆布ではなく、しんのが好きなツナマヨのおにぎりを作ろうと。それは妹の気持ちを受け取って自分の人生を優先するという宣言です。

 

3人の選択と葛藤は互いを思っているからこそ生まれているし、同時に1人1人の決断にそれぞれ3人分の重みがあるのです。

 

 

 

 そんな彼らの「その後」が、エンドロールにて一枚一枚の写真で描かれます。慎之介とあかね、あおい達3人が前に進み幸せな様子に「ラストまで必見。感動した。」と肯定的な人も居る一方で、「そこまで描がなくても良い。」と否定的な人もいました。

 

エンドロールで「その後」を描く事に対する評価が何故分かれるのか。それは「キャラクターに作品のテーマをどこまで背負わせるのか。」という部分への考え方に違いがあるからではないかと思います。

 

本作において「選択自体よりも、自分のした選択に後悔しない事が大事。」が1つのメッセージだと思っています。自分の人生、先がどうなるのか分からない中で、悩みながらも決断して選択する。

 

この「先が分からない。」というのが重要だと思います。自分の選んだ道の先でどうなるか分からない。不安になるし悩む。でもだからこそ、自分の下した決断の重みが増すし、「自分の選択を後悔にしないために。」という劇中の台詞も心に響くのだと思います。

 

「そこまで見せなくていい。」と思う人は、「先が分からない。」という不明確さにこそ意味や意義を感じているのだと思う。「本編の後に彼らはどんな人生を歩んだのか。」つまり「その先」が分かってしまう事は、本作が描こうとしているテーマがボヤけてしまう。

 

対してエンドロールに対して肯定的な人たちは、エンドロールの描写があってもテーマがぼやける事は無い。登場人物自身が「先の分からない」状態で選択したのなら、その時点でメッセージやテーマは成立しており、「その先」が描かれたところで揺らぐ事は無い。

 

テーマやメッセージを作品全体に背負わせるのか、それとも登場人物に背負わせるのか。そこが違うのだと。

 

 

 

 では肝心の自分はどう思っているのかと言うと、見せない方がテーマやメッセージがより強くなるという事は確かに自分も思います。前述した通り、先を知らないからこそ彼らの決断の重みが出てくると思うし、先を見せてしまう事で出来レースの様になってしまうように感じてしまう。

 

しかしその一方で、その一枚一枚の写真を眺める中で本当に嬉しく感じている自分もいました。悩みながらも選択し、涙を流すほどの苦しさを感じながらも前に進んだ。そんな彼らが幸せを掴んだ姿を見て目頭が熱くした事実は否定できません。

 

どうした方が良いのかは結論は出ないが、少なくとも「彼らの人生に幸あれ。」と思わずにはいられないほど、愛着を感じさせる素晴らしい物語・作品であった事は間違いありません。

 

夢と天秤にかけているもの、その価値と重みを感じられる。大切なモノだからこそ生まれた選択であり、どちらの選択にも意義がある。だからこそ、その選択を後悔にしない為に前に進む。

 

夢を目指すにしても、諦めるにしても、そこには選択の動機があるはずです。その動機となるものが自分にとって大切なものであるのなら、「夢を目指すのも、諦めるのも、どちらも良し。」というメッセージを投げかけてくれたのが本作です。

 

 

 夢を目指した者、夢を一度諦めた者、一つの夢を諦めてもう一つの夢を目指す者。三者三様の選択が選択すること自体を肯定してくれる。本作は夢を一度でも抱いたことのある人へむけた賛歌であり、心に残る1作であったことは間違いありません。

 

 

 

 

観客と作り手、二つの視点から定義する仮面ライダーの原点<仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション/感想>

 気づいたら仮面ライダーを再び見るようになってから早くも2年が経過しました。テレビでは観れない派手なアクションへの期待から冬映画も映画館で観てきましたが、今年で3作品目になります。

 

2017年に公開された『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL』と2018年に公開された『仮面ライダー 平成ジェネレーションズ FOREVER』は、平成にテレビ放送された仮面ライダー20作品の集大成、総決算でした。

 

一つの区切りを経た「仮面ライダー」。にも関わらず、これまでと同じように絶え間なくシリーズを続けていく中でどんな冬映画を送り出すのか気になっていました。そんな中で発表されたタイトルが『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』です。

 

仮面ライダー」の終わりを通じてコンテンツの積み重ねを見せつけた前2作に対して、新しい始まりを通じてコンテンツの積み重ねを見せつけられた非常に印象的な作品でした。

 

『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』オリジナル サウンド トラック

 

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 平成の終わりを飾った仮面ライダージオウと令和の始まりを飾る仮面ライダーゼロワンを中心に物語は構成されています。その中で、仮面ライダージオウ側の敵としてアナザー1号、仮面ライダーゼロワン側の敵として仮面ライダー1型が登場します。どちらも「1」がついた名前でタイトルのファーストを意識させますが、その在り方は対照的です。

 

アナザー1号に変身するタイムジャッカーのフィーニスが「1号こそが仮面ライダーの原点」だと言います。それに対してソウゴは「仮面ライダーに原点も頂点無い。」と言い返す。

 

原点は1971年に誕生した仮面ライダー1号です。これは変えようのない事実。しかし、観る側にとっては、その人が最初に見た仮面ライダーが原点であり1号です。

 

一つのコンテンツに対する距離感は人それぞれであり、コンテンツによってメインターゲットは異なります。仮面ライダーの場合、メインターゲットは今年観始めた子どもから観始めて2〜3年の子ども達です。

 

メインターゲットは最新作で初めて仮面ライダーを観る。そのことが明確であるからこそ、「原点も頂点も無い。」という言葉にこれ以上にない納得と説得力が生まれる。平成仮面ライダーを総括し物語のフィールドをメタ的な領域まで広げたジオウならではの台詞だと言えます。

 

 

 

 アナザー1号つまりジオウ側で描かれるのが観る側にとっての1号に対して、仮面ライダー1型つまりゼロワン側で描かれるのは作る側にとっての1号です。

 

令和最初のライダーであり、平成に続くライダーという位置付けのゼロワンは、社長の座を継いだ或人の立ち位置と重なる。そんな或人は受け継いだ役割ではなく、自らの夢を実現するために跳びます。

 

それは、令和の新たなスタートとして仮面ライダーゼロワンを作るにあたり、作り手の決意表明として受け取れます。その思いは仮面ライダー1型のデザインにも現れています。

 

仮面ライダー1号をストレートにデザインに反映したアナザー1号に対して、1型は仮面ライダー1号のデザインをオマージュと言える程度にしています。

 

事実として初代が存在する以上、作り手が作品を考える上で無視することはできません。しかし、それはあくまで思考する過程で出てくる話であって、再現であったりゴールではない。だからこそ、マフラーの様に見える首元など「分かる人には分かる。」程度のオマージュとしてのデザインになっているのではないかと思います。

 

そう考えてくると、ストレートに1号のデザインを反映したアナザー1号は仮面ライダー1型との対比として登場したのではないかとも考えられる。これまでのコンテンツの積み重ねの象徴とも言える仮面ライダージオウ。その設定から生まれたアナザー1号。それに対して、これからのコンテンツの象徴である仮面ライダーゼロワンから生まれた仮面ライダー1型。

 

事実として原点は存在する。しかしこれから創り出していく作品は、原点を介しながらも新しい場所へと跳んでいく。そうすることで事実としての原点子どもにとっての原点のどちらをも大切にしていく。そういう作り手の決意表明。

 

そんな風に感じた本作はとても嬉しいし、だからこそ、本作が昨年の映画に負けない強さを持った作品であると思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 『仮面ライダーゼロワン』が今描いているテーマ。それって、本作で活躍した其雄自身と其雄の言葉がヒントになっているのではないかと思います。今回の映画で仮面ライダーゼロワンが誕生・開発された経緯が明かされます。その理由は「或人と一緒に心から笑うため。」でした。しかし、笑う事と仮面ライダー(=兵器)の開発は直接的に繋がりがあるように思えない。故に或人は「そんな事を望んだ訳じゃない。」と拒絶し、ソウゴも「間違って解釈してしまったのかもね。」と言う。

 

しかし仮面ライダーゼロワンを作った其雄の行いは、人間とヒューマギアが対等な関係になる可能性を示しているのではないか?つまり其雄の行ったことこそが、ラーニングや継承ではなく、或人に言った自分の夢に向かって跳ぶことに該当するのではないかと考えられます。

 

ヒューマギアの現状や自分と息子が笑うために必要なもの(環境、条件など)。様々なことを考えた結果、夢を実現させるために「人間もヒューマギアを守る仮面ライダーゼロワンを作る。」という結論に達した。

 

其雄が或人から聞いた夢をただラーニングし実行するのであれば、或人が笑わせようとした時に笑う事ができる方法を模索するはずです。しかし、其雄はそうではなかった。「父さん(其雄)を心から笑わせる。」という息子(或人)の夢を「或人と一緒に心から笑う。」という其雄自身の夢に消化した。

 

ヒューマギアである其雄の在り方は、夢に向かって跳ぶ者を体現していた。

 

つまり、受け取ったものをそのまま実行しようと目指すことがラーニングであり。受け取ったものを自分が望むことに消化して目指すことが夢である。

 

受け取ったもの自体を跳ぶ目標地点にすることがラーニングであり。受け取ったものをヒントに自分で跳ぶ目標地点を探し出す事が夢である。

 

なんだか当たり前のことを言っているような気がしています。しかし本作を含め『仮面ライダーゼロワン』という作品がやろうとしていることは、そんなヒューマギア(AI)と人間の対比を通じて、人間の当たり前を見直す、場合によっては再定義することなのではないかと思いました。

 

仮面ライダーゼロワン』の今後の展開が非常に楽しみです。

 

 

 

見えないからこそ生まれる視覚的快感とカタルシスに酔いしれる<見えない目撃者/感想>

 本来なら新年の挨拶をするところですが、2019年に観賞した映画の感想を書ききらないまま新年を迎えてしまいました。このまま新年の挨拶をするわけにはいきません。ということで、途中で止まってしまっていた作品の感想を年始の間に書こうと思います。

 

まずは劇場で予告編を観た時から気になっていた作品『見えない目撃者』です。視覚が制限される中で、どんなサスペンスと展開を見せてくれるのか、「傑作」や「今年の邦画で一番」という評判も相まって非常高い期待感を胸に、劇場に入りました。

 

しかし当時『天気の子』や『ハロー・ワールド』などのボーイミーツガールを描いた作品に漬けこまれていた私は、本作の余りにもハード過ぎる内容にぶちのめされることに。作品として、サスペンスとしてのクオリティが高い本作。サスペンスの意味を調べてみると以下のとおり。

 

不安や緊張感。特に映画・小説などで、危機的な場面に観客・読者が覚える、はらはらする感情。

 

つまりサスペンスとしてのクオリティが高いということは、緊張感や不安がそれだけ大きくて物凄くはらはらさせられるということです。気の緩みきって私には刺激が強すぎる体験。翻弄され息の詰まる、いや、息を止めたくなる体験を味わう事になりました。

 

 

 

映画「見えない目撃者」オリジナル・サウンドトラック

 

映画「見えない目撃者」オリジナル・サウンドトラック

映画「見えない目撃者」オリジナル・サウンドトラック

  • アーティスト:大間々昂
  • 出版社/メーカー: Anchor Records
  • 発売日: 2019/09/18
  • メディア: CD
 

 

 

 

 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 オープニングからタイトルまでの間の主人公の説明の手際の良さから、本作のクオリティの高さが伺えます。警察学校での訓練から事故で弟と視力を失うまでを、短い時間の中で見事に印象付けている。視力を失う部分は勿論ですが、それ以上に彼女の洞察力や拳銃の扱い、武道など能力の高さ、そして警察官を志す人間性(と言えば良いのでしょうか。)が短い時間に濃縮されている。ここでしっかりと描いているからこそ、後の展開における彼女の言動の数々に説得力が生まれています。

 

見えないという大きなハンディキャップを背負っている。そんな彼女が事件を追い、犯人を追い詰め、事件を解決する。もしここに説得力が無かったら、本作にここまで没入できなかったかもしれない。

 

オープニングの時点でその説得力(観客の信頼とも言える。)を勝ち取ってる時点で、ある意味本作は成功していると言える。最後まで安心して不安を感じ(?)鑑賞することができました。

 

 

 

 そして何よりも主人公の描写に説得力を持たせているのは、演じている吉岡里帆さんに他なりません。ポスターでも印象的な彼女の力強い目ですが、彼女は目が見えない。劇中でも彼女の目と一挙手一投足が、彼女は目が見えないんだという事を伝えてくれる。その上で、焦点の合っていない彼女の目から力強さが伝わってくる。犯人と対峙する終盤では、見えないはずの彼女の目が犯人を見据えている。

 

見えないはずなのに見ている、焦点があっていないのに力のこもっている目。矛盾していると思われるものを成立させる吉岡さんの演技、脱帽ものでした。

 

見えない目撃者 [DVD]

 

彼女を追い詰める犯人を演じる浅香航大さんも素晴らしかった。犯人だと分かってからの一挙手一投足がまあ怖い。淡々と、でもそこに歪んだ内面を感じさせる動作。スクリーン越しで自分は安全であること分かっているはずなのに、狂気と恐怖がこちらに襲ってくると錯覚させる。階段を降りて逃げようという所で物陰からスッと出てきたシーンでは、思わず声を上げそうになる程怖かった。史上最恐の「志村後ろ!」である。 

 

吉岡さんと同じく、浅香さんの目も非常に印象的。犯人であると明らかになる前の目と明らかになった後の目が明らかに違う。抑えていたヤバイ奴オーラが目から溢れ出てくるかのようでした。

 

「目」が重要な部分を占める本作。演出や役者を含め、作品全体で目の表現に非常に気を使っている事が伺えます。

 

 

 

 

 彼女の行動に説得力を持たせた上で、それを更に魅力的にしたものが、彼女の感覚の映像化です。彼女の感じてる視覚以外の情報を、おぼろげな映像で見せる。彼女の感じているもの、注視しているものが観客にもわかるように視覚化されています。その視覚化の度合いの塩梅が素晴らしい。

 

主人公と観客、両者の視覚情報の差を活かす事で緊張と弛緩を演出してる。視覚が限られている主人公とは違い、映画を観てる自分は状況が把握できる。どうすれば良いかまでの判断はできなくても、避けるべき脅威と目指すべき目的は最低限把握できる。

 

だからこそ、視覚以外の感覚を頼りに必死に行動する主人公の姿にとてつもない緊迫感が生まれる。知覚が限定されている事による緊迫感と知覚できた瞬間の高揚感が、飴と鞭のように訪れることで良い意味で気が休まらない。

 

特にそれが顕著だったのは、地下で主人公が犯人から逃げる場面。走っている最中に盲導犬のパルと離れてしまった為、道標となる点字ブロックを必死に探す主人公。空いていた距離を着々と詰めてくる犯人。観客である我々にはそれが分かる為、犯人の一歩一歩が恐怖を駆り立てる。しかし主人公に見えるのは真っ暗闇。点字ブロックを探す手もあと数センチというところで届かない。

 

例えるなら、スイカ割りのようである。「右!もっと右!あ、もうちょっと前!」と思わず声を出したくなる。しかし残念ながら本作には今流行りの応援上映は無かったため当然声は出せない。仮に出したとしても、一切主人公に届かない。難易度も危険度もMAXのスイカ割りです。

 

ようやく点字ブロックに手が届くと、彼女の触れた場所を起点に点字ブロックが一気に可視化されていく。瞬時に主人公も走りだして盲導犬と合流する。真っ暗だった彼女の視界に進むことの出来る道が一気に伸びていく快感。安堵と高揚が入り混じった一連のシーンは、本作のハイライトの一つであることは間違いありません。

 

 

 

 

 主人公は自力でスイカの場所を探し出して狙いをすませて棒を振り下ろす。その一連の流れにカタルシスが生まれる。それは物語の終盤でも炸裂してます。更にそこに駄目押しの如く、これまで描かれた彼女のバックグラウンドが小道具に至るまで犯人攻略のロジックに組み込む用意周到さ。

 

彼女だからこそ犯人に勝てたという事実、それを徹頭徹尾、映像で見せてくれる快感。

サスペンスだけでなく、主人公のドラマでも観客を揺さぶる。その合わせ技で作り出すラストのカタルシス

 

主人公の目が見えないという設定だからこそ生まれた快感とカタルシス。それに酔いしれる体験は唯一無二であると言って過言ではありません。



 

やりたい事とやるべき事が重なる時、作り手の声が聞こえる<スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け/感想>

 スター・ウォーズは自分にとって過去の作品です。自分が物心つく前から存在し、多くの人を熱狂させてきたコンテンツ。エピソード1〜3が公開された時は自分が映画というコンテンツ自体にハマる前で、そこまで記憶に残っていません。

 

そんな自分にとってスター・ウォーズの再始動は、かつて映画ファンが味わった体験と熱狂、その一端を感じる事の出来るまたとない機会でした。

 

続三部作と呼ばれたものの中の一作目『フォースの覚醒』。かつて公開された作品に寄り添いつつ新しい要素で作品を引っ張っていく。懐かしくも新しさを兼ね備えたであろう続三部作の一作目。加えて最速上映の実施など、一つの映画の公開という枠を超えた一大イベントのような展開がされました。

 

いつもとは明らかに違う空気をまとった映画館のロビー。そんな空気を感じてか、いつもよりも長く感じる上映開始までの時間。上映が終わり明るくなる前から場内に響き渡る拍手。「感動の共有」という唯一無二の体験は、昔からのファンに対する憧れともいえる自分の思いに作品が応えてくれたように思いました。

 

その体験から2年後に公開された『最後のジェダイ』。挑戦的に思える物語に戸惑いと興奮が入り混じったものを感じ、上映終了後に場内に漂っていた空気は『フォースの覚醒』とは全く異なるものでした。

 

満足とまではいきませんでしたが、それでもスター・ウォーズというビッグコンテンツをリアルタイムで体験できている事は嬉しかったし、一大イベントのような三部作のゴールがどのようなものになるのかとても楽しみでした。

 

 

 

 そして公開された三作目『スカイウォーカーの夜明け』。作品の内外問わず紆余曲折あった中、今回の三部作がどんな着地をするのか。それを見届けるため、劇場に行ってまいりました。

 

スター・ウォーズの熱狂を体感する可能性を秘めた続三部作。そのゴールで待ち受けていたのは、作り手の声が聞こえないつまらない最終作でした。

 

 

 

アート・オブ・スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け

 

 

 

 

 

 やりたい事とやるべき事がどれだけ一致していると感じるかで作品に対する満足度は大きく変わるのではないかと思います。やるべき事とは何かというと、観客の期待に応える事です。特にスター・ウォーズは長く続いてるシリーズ。お決まりの展開や音楽、登場人物の活躍など、作品にも求められるものが、どうしても固定されてきます。


やりたい事とは文字通り、作り手が作品を作る上でやりたい事、作品を通じて描きたい事です。

 

 


 こんな風に書くと、やるべき事がやりたい事をする上で足枷になるのではないかと思えますが、全然そんなことはありません。寧ろ二つの両立をした上で新しい表現に挑戦すれば、今までに無かった、そのシリーズでしか見ることのできない映像を生み出すことに繋がります。


そのバランスが見事だった作品に挙げられるのが『シン・ゴジラ』です。着ぐるみと模型によって表現されてきたゴジラが今の人達の目にも受け入れられる表現を模索した結果として、3DCGによる着ぐるみの質感の表現が生まれました。だからこそ、模型に合成しても、実写に合成しても映像が成立する、特撮作品でしかあり得ない質感の映像が生まれたと思います。

 

シン・ゴジラ GENERATION (ホビージャパンMOOK 784)

 
同様の例としては、今年公開された『劇場版ウルトラマンR/B』。3DCGで作られたウルトラマンが空を縦横無尽にCGの街中を飛び立っていたかと思えば模型の建物に突っ込んだり、着ぐるみのウルトラマンと並び立っていました。

 

劇場版ウルトラマンR/B セレクト! 絆のクリスタル(特装限定版) [Blu-ray]

 


高いクオリティのCGによって作られた映像作品は近年では珍しくありません。しかし、特撮との融合を実現した映像は殆どない。長年、特撮作品が積み重ねてきた物に今の制作者たちが応えつつ新しい表現を模索した結果、生まれた表現です。

 

 

 

 やりたい事とやるべき事が完璧に重なったと感じたシリーズが、同じく今年一つの区切りを迎えたマーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)です。

 

単体でも作品が成立しうるヒーロー達が一堂に会するシリーズで、一つの作品の中に他の作品を踏まえた描写、直接的には関わらなくても今後の展開のための描写も取り入れていかなくてはいけない。それは、やるべき事であり作品にとって制約。作品を重ねる中で時に苦心したであろうと観客なりに感じる瞬間があります。しかし、それが作品の質を落としたり楽しみを害したわけでもなければ、寧ろ今までに感じた事のない体験がそこにはありました。

 

そもそもヒーロー達を一つの世界観に存在させ共演させるという事自体が制作者にとってのやりたい事。それを実現する為に行う必要のある事は、やるべき事であると同時にやりたい事なのです。

 

『エンドゲーム 』の終盤で全てのヒーローが並び立った光景は、まさに制作者のやりたい事の具現化したものであり、制作者の「自分のやりたい事はこれだ。」という声が聞こえてくるかのようでした。10年以上にも渡るやるべき事の積み重ねが、観ている側にも制作者のやりたい事への期待感を作り上げていた。だからこそ、その光景に涙した。

 

アベンジャーズ マーベルヒーロー超全集 (てれびくんデラックス愛蔵版)

 

 

 

 話を戻します。その点、今回のスターウォーズ3部作はどうだったのか。前作はやりたい事に終始するの対して、今作は逆にやるべき事に終始していたように感じました。どちらとも、やりたい事とやるべき事が重なっていたとは到底思えません。

 

本作は様々な要素をまとめて走りきりました。しかし、その成果はやるべき事にしか感じられない。そこに、やりたい事は一切見えてきません。強いて言うなら「無難に終わらせる事」がやりたい事です。


カイロ・レンの描写などを中心にとても心を引きつけられるのと同時に、スクリーンから外れた部分に気持ちが移ってしまう。没入しきれない。今作がやるべき事をこなせばこなすほど、やりたい事に終始していた前作が生み出したシワ寄せを意識してしまう。

 

 

 

 つまり「作品のやるべき事は作り手のやりたい事から生まれたのか。」という事が重要なのではないかと思うのです。

 

作品をただ売って儲けるだけのために生まれたやるべき事は、果たして作り手のやりたい事に一致するのでしょうか。

 

少なくとも本作に限って言えば、やりたい事とやるべき事は全く一致していなかった。それどころか、やりたい事が全く見えなかった。本作の監督であるJJエイブラムスさんは、本作を通じて何をしたかったのか、観客にどんな体験を提供したかったのか。

 

本作からJJエイブラムスの声は聞こえてこなかった。

 

だからこそ本作は、自分にとってつまらない作品でした。

 

 

 

次回作の公開を待つ時間はリアルタイムだけにしかない「コンテンツ」

 テレビドラマの第一話が放送されてから第二話が放送されるまでの1週間。漫画の第2巻が発売されてから第3巻が発売するまでの4〜6ヶ月間。映画の第3作目が公開されてから第4作目が公開されるまでの2〜3年間。

 

単発ではなくシリーズで展開している作品には、必ず次回作が公開されるまでのインターバルが存在します。その間に公開された作品に対する感想などを考えるだけでなく、1週間後、数ヶ月後、数年後に公開されるであろう次回作の内容を想像する。

 

物語の幕切れの後、登場人物はどうなるのか。次回作では登場人物達を取り巻く状況はどう変化しているのか。物語はどのように続き、一人一人はどんな道を歩んでいくのか。新しい人、新しい物、新しい場所はどんな風を作品に呼び込むのか。再び幕が開いた時、そこにどんな光景が見えるのだろうか。

  

そういった思考の積み重ねを可能とするインターバルって、リアルタイムのみでしか体験できない貴重な「コンテンツ」だなと自分は思っています。

 

f:id:mori2_motoa:20191123132147p:plain





 

 

 作品が完結した後、つまり物語を最後まで知った上で考察をする事はいくらでもできます。でもシリーズは完結しておらず、作品の途中まで知っている状態で考察できる期間は限られています。

 

アベンジャーズ エンドゲーム』(以下EG)が公開されて既に半年が経過しました。2008年に公開した『アイアンマン』から2019年のEGまでのインフィニティ・サーガと呼ばれるマーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)の一編についてを考える事はこれから幾らでもできます。しかし、1年前に『アベンジャーズ インフィニティーウォー』(以下IW)が公開してからEGが公開されるまでは、たった1年間しかありません。

 

IWの結末を経て、EGではどのような物語、結末が描かれるか。世界はどうなってしまうのか、消えてしまったヒーローはどうなるのか、残されたヒーロー達はどうするのか。

 

先の展開が未知数だからこそ尽きることのない考察、それに伴う不安や期待感などの入り混じった感覚。EGが公開されてしまった今、それを味わう事は二度とできません。

 

今から見始めたとしても、IWを観終えた後に直ぐにEGを観ることのできる環境が整っている以上、そういった体験をする事は難しい。だからこそ、リアルタイムで作品を体験する事に価値があります。

 

アベンジャーズ/エンドゲーム&インフィニティ・ウォー MovieNEXセット [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー+MovieNEXワールド] [Blu-ray] 

 

 

 

 様々な展開を予想したり、想像する。その予想や想像の積み重ねがあるからこそ、作品に、そしてなにより作品の中に登場するキャラクター達に対して愛着が湧くのではないかと思うのです。

 

前作から数年が経過する事はよくある事で、中には1作品の中だけで鑑賞している時間とは比較にならないくらい長い時間が経過する事があります。キャラクター達と作品を観賞する私たちの間に生じる時間のギャップ。それを埋めてくれる物こそが、次回作が公開されるまでの間に行う展開の予想や想像の積み重ねなのではないか。

 

 

 

 いわゆる一気見という物はあまり好きではありません。NETFLIXなどの配信サービスにおいてオリジナル作品は最終話まで一気に配信されますが、自分にとっては前述した積み重ねの過程をすっ飛ばしてしまっているかのように感じてしまいます。食事で例えるなら、口に入れた瞬間に水などで流し込んでしまっているかのようです。十分に咀嚼せずに飲み込んでしまうのは、味を十分に楽しんでいるといえるのか。勿体無い楽しみ方をしてしまっているのではないか。そう思ってしまうのです。

 

 

 

 中には、公式の発表によってその楽しさが損なわれてしまうパターンもあります。例えば、現在放送中の『PSYCHO-PASS サイコパス3』です。本作は『PSYCHO-PASS サイコパス』シリーズの劇場版新3部作の最終作『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.3』が公開された初日に制作の発表がされました。私はその発表に喜ぶどころか、寧ろ冷や水を浴びせられたかのような気持ちになりました。

 

www.cinematoday.jp

 

ポイントは、情報が公開された事自体ではなく想像する余地が不意に狭められてしまった事です。

 

最も主人公の今後の動向に注目していたタイミングで次回作のサプライズ発表。しかも主人公は全く知らないキャラクター。

 

仮に続編があったとしても、しばらくは無限大だと思われた想像の幅。それが公開初日にして一気に狭まれる。

 

考える余地・範囲が分かっている場合は良いんです。予め範囲が分かっていれば、その中で存分に遊ぶ方法を考える。例えば前述したMCUは、数年先の作品を一気に予告します。なので想像する余地が不意に狭められてしまう事はありません。

 

遊んでもいいと思っていたエリアが急に限られてしまうと、萎えてしまう。初めから遊べないと分かっていた場合と遊べると思っていた場所が遊べないと後から分かった場合では、後者の方がショックは大きいんです。

 

 

 

 NETFLIXなど様々な配信サービスが独自のコンテンツを制作し一挙配信するようになった今、もしかしたら自分の持つ価値観は時代に逆行したものかもしれません。

 

でも、映画や漫画やテレビドラマ、アニメを観賞したり読んだら、それで終わりじゃない。その作品で受け取ったものを考えたり、次の展開がどうなるのか想像する事も含めて、作品を楽しむ事だと思っています。

 

その中で、シリーズが展開している「途中」にできる楽しみ方って「完結後」には絶対にできない。だからこそ「次回作が公開されるまで待つ時間」って貴重な「コンテンツ」だなと思っていますし、作品を観賞している瞬間と同じくらい大事に味わっていきたい。