気づいたら仮面ライダーを再び見るようになってから早くも2年が経過しました。テレビでは観れない派手なアクションへの期待から冬映画も映画館で観てきましたが、今年で3作品目になります。
2017年に公開された『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL』と2018年に公開された『仮面ライダー 平成ジェネレーションズ FOREVER』は、平成にテレビ放送された仮面ライダー20作品の集大成、総決算でした。
一つの区切りを経た「仮面ライダー」。にも関わらず、これまでと同じように絶え間なくシリーズを続けていく中でどんな冬映画を送り出すのか気になっていました。そんな中で発表されたタイトルが『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』です。
「仮面ライダー」の終わりを通じてコンテンツの積み重ねを見せつけた前2作に対して、新しい始まりを通じてコンテンツの積み重ねを見せつけられた非常に印象的な作品でした。
(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)
平成の終わりを飾った仮面ライダージオウと令和の始まりを飾る仮面ライダーゼロワンを中心に物語は構成されています。その中で、仮面ライダージオウ側の敵としてアナザー1号、仮面ライダーゼロワン側の敵として仮面ライダー1型が登場します。どちらも「1」がついた名前でタイトルのファーストを意識させますが、その在り方は対照的です。
アナザー1号に変身するタイムジャッカーのフィーニスが「1号こそが仮面ライダーの原点」だと言います。それに対してソウゴは「仮面ライダーに原点も頂点無い。」と言い返す。
原点は1971年に誕生した仮面ライダー1号です。これは変えようのない事実。しかし、観る側にとっては、その人が最初に見た仮面ライダーが原点であり1号です。
一つのコンテンツに対する距離感は人それぞれであり、コンテンツによってメインターゲットは異なります。仮面ライダーの場合、メインターゲットは今年観始めた子どもから観始めて2〜3年の子ども達です。
メインターゲットは最新作で初めて仮面ライダーを観る。そのことが明確であるからこそ、「原点も頂点も無い。」という言葉にこれ以上にない納得と説得力が生まれる。平成仮面ライダーを総括し物語のフィールドをメタ的な領域まで広げたジオウならではの台詞だと言えます。
アナザー1号つまりジオウ側で描かれるのが観る側にとっての1号に対して、仮面ライダー1型つまりゼロワン側で描かれるのは作る側にとっての1号です。
令和最初のライダーであり、平成に続くライダーという位置付けのゼロワンは、社長の座を継いだ或人の立ち位置と重なる。そんな或人は受け継いだ役割ではなく、自らの夢を実現するために跳びます。
それは、令和の新たなスタートとして仮面ライダーゼロワンを作るにあたり、作り手の決意表明として受け取れます。その思いは仮面ライダー1型のデザインにも現れています。
仮面ライダー1号をストレートにデザインに反映したアナザー1号に対して、1型は仮面ライダー1号のデザインをオマージュと言える程度にしています。
事実として初代が存在する以上、作り手が作品を考える上で無視することはできません。しかし、それはあくまで思考する過程で出てくる話であって、再現であったりゴールではない。だからこそ、マフラーの様に見える首元など「分かる人には分かる。」程度のオマージュとしてのデザインになっているのではないかと思います。
そう考えてくると、ストレートに1号のデザインを反映したアナザー1号は仮面ライダー1型との対比として登場したのではないかとも考えられる。これまでのコンテンツの積み重ねの象徴とも言える仮面ライダージオウ。その設定から生まれたアナザー1号。それに対して、これからのコンテンツの象徴である仮面ライダーゼロワンから生まれた仮面ライダー1型。
事実として原点は存在する。しかしこれから創り出していく作品は、原点を介しながらも新しい場所へと跳んでいく。そうすることで事実としての原点と子どもにとっての原点のどちらをも大切にしていく。そういう作り手の決意表明。
そんな風に感じた本作はとても嬉しいし、だからこそ、本作が昨年の映画に負けない強さを持った作品であると思いました。
"その理想像は、本当に両者の肩が並んでいるのだろうか。"
— モリオ (@mori2_motoa) 2020年1月3日
この一文を読んだ時、OPの最後で或人とイズが肩を並べてるカットを思い出しました。
形ではなく真に肩を並べる時が来るのか、それとも…
SFを観て漠然と考えていたAIとの共生。真剣に考えないといけない時が来た事を毎回実感させられます。 https://t.co/Jdi4XirYVY
『令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』で父である其雄から或人に向けられた最後の言葉が、この先でどう活きてくるのか気になります。
— モリオ (@mori2_motoa) 2020年1月3日
継承や刷り込みではなく「そこから自分はどうするのか。」という個の問題になる事で初めて人間とヒューマギアの対等な関係の土台ができると思いました。
『仮面ライダーゼロワン』が今描いているテーマ。それって、本作で活躍した其雄自身と其雄の言葉がヒントになっているのではないかと思います。今回の映画で仮面ライダーゼロワンが誕生・開発された経緯が明かされます。その理由は「或人と一緒に心から笑うため。」でした。しかし、笑う事と仮面ライダー(=兵器)の開発は直接的に繋がりがあるように思えない。故に或人は「そんな事を望んだ訳じゃない。」と拒絶し、ソウゴも「間違って解釈してしまったのかもね。」と言う。
しかし仮面ライダーゼロワンを作った其雄の行いは、人間とヒューマギアが対等な関係になる可能性を示しているのではないか?つまり其雄の行ったことこそが、ラーニングや継承ではなく、或人に言った自分の夢に向かって跳ぶことに該当するのではないかと考えられます。
ヒューマギアの現状や自分と息子が笑うために必要なもの(環境、条件など)。様々なことを考えた結果、夢を実現させるために「人間もヒューマギアを守る仮面ライダーゼロワンを作る。」という結論に達した。
其雄が或人から聞いた夢をただラーニングし実行するのであれば、或人が笑わせようとした時に笑う事ができる方法を模索するはずです。しかし、其雄はそうではなかった。「父さん(其雄)を心から笑わせる。」という息子(或人)の夢を「或人と一緒に心から笑う。」という其雄自身の夢に消化した。
ヒューマギアである其雄の在り方は、夢に向かって跳ぶ者を体現していた。
つまり、受け取ったものをそのまま実行しようと目指すことがラーニングであり。受け取ったものを自分が望むことに消化して目指すことが夢である。
受け取ったもの自体を跳ぶ目標地点にすることがラーニングであり。受け取ったものをヒントに自分で跳ぶ目標地点を探し出す事が夢である。
なんだか当たり前のことを言っているような気がしています。しかし本作を含め『仮面ライダーゼロワン』という作品がやろうとしていることは、そんなヒューマギア(AI)と人間の対比を通じて、人間の当たり前を見直す、場合によっては再定義することなのではないかと思いました。
『仮面ライダーゼロワン』の今後の展開が非常に楽しみです。