モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

世界を超える2人の物語。SFがもたらす体験に心を揺さぶられる。<HELLO WORLD ハロー・ワールド/感想>

 SF(サイエンス・フィクション)というジャンルに分類される作品では、現実には無い物が登場します。それは一つの物だったりすれば、世界そのものだったりと、「現実には無いもの」のスケールは作品によって異なります。しかし、未知の法則の理解を観客に要求する事に変わりはありません。

 

作品を楽しむ上で要求される事が多かれ少なかれ他のジャンルよりもあるためか、「敷居が高い。」などと言われる事があります。

 

そんな中でSFを見る理由は何なのか。それはその法則を読み解く事だったりと、要求される事が寧ろ楽しいという事もあると思います。しかしそれ以上に、自分がSF作品を見たいと思う理由は、その設定や世界観、現実には無い設定だからこそ生まれる体験と感動があるからです。SFというジャンルにはそういう魅力があるのだと思います。

 

その魅力を再確認させてくれた作品が、現在公開中のHELLO WORLD ハロー・ワールド』です。主人公の成長を見事に描き切り、「SFだからこそ」と言える体験がある作品でした。

 

 

 

 

映画  HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 本作において素晴らしいと感じている点について、主人公の成長2人の「かたがきなおみ」の対比の2点を説明したいと思います。

 

まず主人公の成長について話したいと思います。本作では、主人公である堅書直実(かたがきなおみ)の成長のゴール地点が明確にされています。それによって、短い上映時間の中でも成長が端的にかつ明確に描かれています。主人公の成長を理解し易くする事で、本作で登場するSF設定を理解する事に集中する事ができるようになっています。

 

「ずっと悩まない!意識的に早く決断しよう!」

「人の評価を気にしない!思ったことは口に出そう!」

「他人に決めてもらわない!自分のことは自分で決めよう!」 

 

 

彼の読んでいた自己啓発本に書かれていた内容です。この場面では自分を変えようとしても思うようにいかない様子を描いています。それと同時に、彼自身が感じている自分自身の問題点も表しています。つまり本作における彼の成長のゴール地点は

 

「自らの意思で決断と行動ができるようになる。」

 

という、非常にシンプルで明確なものだと考えることができます。

 

彼の成長を感じ取れる場面の一例としてあげられるのは、恋人になる一行瑠璃(いちぎょうるり)さんの為に燃えてしまった本を作り直す場面です。未来の自分が用意したマニュアルに初めて背き自分で決めて行動しています。その決断と行動は紛れもなく自身の意思で行われたものであり、彼の変化を物語っています。

 

また、そういった変化を描く上で細かい演出が随所に施されています。前述した場面の前、彼が家で身支度を済ませてタイマーの前を横切るシーンです。それと似たシーンがそれよりも前にあるのですが、その時は彼が丁度横切るタイミングのタイマーに表示されている時間も変わっています。それに対し、後のシーンではそのタイミングが微妙にズレているんです。

 

それは彼がマニュアルという型から脱し始めた事を更に強調しています。その他にも、彼が発するたびに声色の異なる「はい」という言葉など、彼の変化を感じ取れる描写が数多く配置されています。

 

「多少なりとも、お近づきになれたかな?」

「多少だな。」

 

劇中にあるやりとりの通り、一つ一つは多少であっても、劇的な変化ではなくても、堅書直実が変わっている事実に間違いありません。だからこそ、後の展開で彼の成長が顕在化した時、彼の劇的な決断と行動を生んでいるのだと思います。

 

一行瑠璃が連れていかれ、世界が消されていく様を目の当たりにする。そんな中で見つけた僅かな可能性。しかしそこに飛び込んだ先の事は何も分からない。マニュアルには何も書かれておらず真っ白。

 

しかしそこで彼に一歩を踏み出させたのが、一行さんと、他でもない自分自身です。一行さんとの出会いを通じて少しずつでも変わっていく。横断歩道を渡る事すら躊躇していた彼の一歩が、気付いたら世界をも飛び越えるほどに大きなものになっていた。

 

それこそが、本作の大きな魅力の一つだと思います。

 

 

 


 次に本作の優れている点は、2人の「かたがきなおみ」を対比している点です。過去の直実と未来のナオミ、2人は共に「かたがきなおみ」であり時間が違うというだけで同じ人物です。

 

前述した直実の成長も、10年後の自分自身という比較対象・基準があるからこそ、更に際立ちます。一行さんが階段を降りるのを躊躇している時、ナオミよりも先に声をかけて励ましたのは過去の直実です。その差は1秒にも満たない僅かな差です。しかし、その差にこそ、「意識的に早く決断し、思ったことは口に出す。」彼の成長を感じ取れるんです。

 

対してカタガキナオミは、10年という長い時間をかけて彼女を救う為に生きてきた。その過程で、少なからずエゴイスティックな面を持ち合わせてしまいました。

 

しかし差が浮き彫りになったことで、変わらない部分も明確になる。それは「一行瑠璃を助けたい。」という思いを持っているという事です。過去の直実の選択と決断が、一行さんへの思いを感じさせます。そして、2人とも「かたがきなおみ」という同じ人間だという事実が、同じくらい強い思いを未来のナオミも持っているのだと感じさせてくれます。外に伸びている枝葉は違っていても、幹の部分は同じなんです。だからそこそ、彼の裏切りを理解することができる。

 

2人の対比は、終盤の回想にもあります。2人の「かたがきなおみ」がそれぞれ回想するのですが、一見すると同じシーンの繰り返しです。しかし所々に異なるシーンが挿入されています。それによって、流れている映像の多くは同じでも過去の直実と未来のナオミ、それぞれの視点で見え方が変わってきます。

 

本来、一行さんと付き合うまでの時間は2人の思い出であるのに対して、過去の直実にとっては、未来のナオミ含めた3人の思い出です。だからこそ、片方の消去を迫られた時に「2人とも生きるんだ!」と涙ながらに抵抗した。

 

未来のナオミは、自分を含めた10年後の2人の未来を取り戻す為に動いていました。しかし最後には、過去の2人の未来の為に自らの消去を選択しました。

 

2人の「かたがきなおみ」の存在が、映像に纏う感情を厚みを二重にも三重にもしてくれます。

 

 

 

 

  そしてラスト。そこで描かれる展開は、公式が「ひっくりかえる」と宣言したように、本作が積み上げてきたものを逆転させる展開となっています。しかしそれは決して、そこに至るまでの展開を蔑ろにするものでなければ、ましてや貶めるものでもありません。

 

最後のシーン。目覚めたナオミの前に立っていたのは、未来のイチギョウさん。これまで登場していた10年前の一行さんとは違います。後者は10年間眠っていたのに対して、前者はカタガキナオミを取り戻すために人生を捧げてきた。容姿の一つ一つの違いが、その努力を物語っています。

 

前述した「かたがきなおみ」の対比。それは一行瑠璃にも言える事だったんです。守られる側だったと思われていた一行さんもまた、直実と同じくらいの努力を積み重ねてきた

 

 

 

 時間を超えた2人の対比、それが描き出す彼らの成長と想い。世界を超えた彼らの物語はこれ以上に無い感動を与えてくれました。そしてその感動は、現実には無いものが描かれたからこそ、つまり本作がSFというジャンルだからこそ生まれたのだと思いました。素晴らしい作品でした。

 

 

 

ピアニスト達の生きる遠い世界。たとえ一瞬でも、その一端に触れる。<蜜蜂と遠雷/感想>

 映画に限らず様々なエンターテインメントに触れる上での楽しさや素晴らしさの一つは、自分が見たことのない世界、自分が触れたことのない領域に連れていってくれる事だと時々考えます。映画を観ている間、自分の知らなかった世界を触れさせてくれて自分の世界を広げてくれる。

 

そんな事を改めて感じさせてくれた作品が『蜜蜂と遠雷』です。ライブやコンサートはおろかコンクールに行った事がない自分にとって、ピアニストたちが身を置いている世界や彼らが見ている光景は決して知る事はできない。そんな中で本作は、映画の持つあらゆる表現を用いて、その一端を私に触れさせてくれました。

 

 

『蜜蜂と遠雷』ピアノ全集[完全盤]

 

 

 

 

 

 本作の秀逸な点は、徹頭徹尾ピアニストたちに寄り添った演出がなされている事です。彼らがピアノを弾いている瞬間、どんな事を感じ何を見ているのか、それを映像で物語っています。

 

彼ら自身のモノローグによってではなく、そこに至るまでの過程で見てきた景色や彼らが積み上げてきた思い出の挿入を以て、彼らがピアノを弾く事に込める思いを浮かび上がらせてくれる。また、演奏者を遠くから映したかと思えば、演奏者の目の前をカメラが通過する。そんな動と静を使い分けたカメラワークが、彼らの心情の表現に一役買ってくれています。

 

特に良かったのは、松岡茉優さんが演じる栄伝亜夜さんが演奏する時です。彼女の頭に浮かび上がっている光景がピアノに映るシーンは、彼女の感情がピアノに流れ込んでいくかのようでした。

 

極め付けはラストシーン。コンクールに挑戦する中で、自らにとってピアノを演奏する事、音楽を奏でる事の意味を彼女は模索していました。そしてその答えを見つけた時、彼女が最後に何を見たのか。彼女のつかんだもの、それが確かに感じ取れるシーンになっています。

 

 

 

 また、演奏を聴く人たちの表情、もしくは共に音を奏でている人たちの表情を切り取る事で、ピアニストたちの成長と演奏を違った角度で感じ取れます。

 

個人的には小野寺昌幸さんを鹿賀丈史さんの表情に注目してほしいです。確かな実力を感じさせながらも故に小難しい印象を受ける指揮者。そんな彼の表情が、ピアニストと共に演奏をした時にほころぶ瞬間は、不思議な高揚感と多幸感を与えてくれます。あの固そうな口角が上がる様子に、思わずこちらもつられてしまいました。

 

 

 

 形にする事の不可能な音、それを奏でる者の目には何が写っているのか。確かに感じ取れると書いてしまいましたが、それはピアニスト達が身を置いてる世界のほんの一端なのだと思います。松坂桃李さんが演じる高島明石さんというピアニスト。彼はサラーリーマンとして家族を養いながらピアノの練習に励んでいました。そんな彼でさえも、ピアノに全てを捧げている人たちの見ている世界は分からないと言いました。

 

だから、たかだか2時間の映画の中で感じ取ったものは、本当にわずかな物なのだろうと思います。でも、たとえそうだったとしても、そこに「触れる事ができた」だけでも、この映画を観た価値はあったと思います。

 

ピアニスト達の見ているものの一端を、たとえほんの僅かでも、たとえ一瞬だとしても、垣間見せてくれる。そんな素晴らしい作品でした。

 

 

本作は『ジョーカー』であるが故に悲劇である。<ジョーカー/感想>

 ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。日本でも公開から3日間で7.5億を超える興行収入を記録。今現在、最も注目を浴びていると言っても過言ではない映画『ジョーカー』。「傑作」などと言った作品を讃える声が数多く聞こえてくるのと同時に、「気分が落ち込む」という感想も。作品の完成度の高さ故か、観客の心に大きな影を残す映画である事が伺えます。中には現実の社会問題や自らの実生活に結びつけて感想を語る方達も見られました。

 
そんな中で、果たして自分はどんな感想を抱くのか。他の作品ではあまりない緊張感の中での観賞となりましたが、アーサーの辿る道、そしてジョーカーの誕生に感じたのは、後ろめたさでした。

 

 

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(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 本作の主演であるホアキン・フェニックスさんの怪演をはじめとする、本作のクオリティについては疑う余地はありません。本作が発する視覚情報と聴覚情報の全てが、ジョーカー誕生へと導くものであり非常に高いレベルで構成されています。しかし前述した通り作品の質の高さ故に、本作から観客が受けとめる物の重さも並大抵のものではありません。

 

 

 

 本作の内容と同じくらい印象的だった事は、「自分もジョーカーになる可能性がある。」と「ジョーカー」に共感した人達が居るという事です。

 
ジョーカーという存在が現実にも誕生し得る。そう思わせるだけの作品の質の高さを証明すると同時に、そう思わせてしまう社会的な問題が存在している事を本作からは感じてしまう。

 
しかしそれこそが、本作を観賞しる中でアーサーに対する後ろめたさを感じてしまった要因です。

 

 

 


 アーサー曰く「喜劇なのか悲劇なのかは主観で決まる。」という事ですが、この物語は悲劇だと思います。コメディアンを目指していたアーサーという人間が最後の最後まで注目を浴びる事は無かった物語であり、アーサーという存在はジョーカーの誕生を語る上で付属品でしかなかった。

 

ジョーカーの登場に熱狂し、ピエロのお面を被った人達、最後にジョーカーを称えていた人達の誰一人としてアーサーという人物に注目している人は居なかった。ジョーカーとして行った事を表面的にしかとらえていなかった。


そしてそれは、作品を観ていた自分にも当てはまります。本作を観に来た理由は「ジョーカー誕生の理由」という謳い文句に引かれたからで、ジョーカーという存在が前提にあります。自分が観に来たのは『ジョーカー』であって『アーサー』という作品ではありません。

 
だからこそ、本作を観賞し終えた時には後ろめたさを感じてしまったのです。


ジョーカーとしての物語として意識すればするほど、アーサーから遠ざかってしまうのでないか?またジョーカーの誕生を社会的な問題に結びつける行為は、一見アーサーに寄り添っているようで、これもまたアーサーの事を見ていないのではないか?

 

ジョーカーを讃えてピエロのマスクを被り、暴徒と化した人々とやっている事と大差ないのではないか。アーサーに注目しているようでその実、アンチ富裕層・アンチ社会の象徴としてのジョーカー、アンチヒーローヴィランとしてのジョーカーしか見ていない。

 
本作のタイトルも『ジョーカー』であって『アーサー』ではありません。アーサーの身に起こる出来事をこれだけ情緒的にかつ劇的に描きながらも、結局は「ジョーカー誕生の物語」として消化されてしまう。

 
だからこそ、この物語は悲劇なのだと思ってしまうのです。

 

 

 

 しかし、そんな風に考えてしまう私は、きっとアーサーに笑われるのでしょう。

 

「分かりっこない。」と。

 

 

<HELLO WORLD ハロー・ワールド/プレ観想>

 本日9月20日(金)から公開された劇場アニメーション作品『HELLO WORLD  ハロー・ワールド』が楽しみで仕方ありません。作品が最初に発表されてから、今日まで長かったような、あっという間だったような不思議な気分です。鑑賞を直前に控えた今、どんな映像表現を魅せてくれるのか、どんな物語で観る側に揺さ振りをかけてくれるのか、作品に対する興味は尽きません。

 

この作品に対する興味を一気に惹かれたのは、初期に公開されたこの予告編。

 

公式サイトやYouTubeでは確認できず、公式Twitterでの投稿を遡り確認。本作の予告編で最もインパクトがありました。

 

キャッチコピーでも使用されている「ひっくりかえる。」というワード。そんな作品の表明を予告編の映像の順番を文字通りひっくりかえす構成で体現しており、タイトルやスタッフ・キャストのクレジットから始まり、配給である東宝のお馴染みのマークで予告編の最後をしめる構成は、非常にインパクトがありました。 

 

これ程までに本作に強く惹きつけられる要素の一つが、逆再生をしたかのようなインパクトのある予告編である事は明白です。しかしそれだけなら、作品への興味を持つきっかけにはなっても、観賞前の期待がこれほど大きくなりません。自分の興味を駆り立てているものは、本作の制作に携わっているクリエイターの方達の存在。

 

今回は観賞前・感想前という事で、映像を製作する前に声を収録するプレスコならぬ、プレ観賞・プレ感想をかけて「プレ観想」を書いていきたいと思います。

 

 

 

HELLO WORLD (集英社文庫)

 

 

 

 

 

 まず最初に気になっているところは、グラフィニカがアニメーション製作を担当している事です。グラフィニカといえば、2014年に公開された長編アニメーション映画『楽園追放 -Expelled from Paradise-』が思い出されます。

 

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まだ様々なCG制作会社が手探り状態でセルルック3DCGを製作していた中、逸早く形を確立した会社がいくつかありました。グラフィニカはその1つであると私は思います。「板野サーカス」をはじめとする日本の手描きアニメーション特有のアクション。それらの遺伝子がその中で生きていると感じられるを見事なセルルックアニメーションの数々は本当に素晴らしいです。

 

 

 

 しかし、この作品は重大な欠点が1つだけあります。それは人に勧めにくいという事です。主人公を始めとするキャラクター達の格好が露出度が高い。正直、劇場で何度も鑑賞し、Blu-rayを購入した今でも、目のやり場に困るほどです。どれだけ作品の質が高くても、これでは人に勧められない。

 

そういった点を踏まえて『HELLO WORLD』のキャラクター達のビジュアルを見てみましょう。

 


映画『HELLO WORLD(ハロー・ワールド)』予告【2019年9月20日(金)公開】

 

 

やりました。

この露出度の低さ、これならこの作品が素晴らしいものだった時、心置きなく人に勧める事ができます。

 

それはさておき、『HELLO WORLD ハロー・ワールド』のアニメーションの数々はあの『楽園追放』から進化を感じさせるものになっています。更にレベルの高くなった手書きのような質感の表現、グラフィカルな映像が更なる映像体験が得られるのでは、という期待感を煽ってくれます。

 

 

 

 グラフィニカという事で、忘れてはいけない作品がもう1つ。『SSSS.GRIDMAN』です。街中で怪獣とグリッドマンが暴れ回るシーンの数々。日本アニメと巨大特撮の特有の外連味を融合させたかのようなアクションは素晴らしいものがあった。本作でも、巨大物の描写がある事が仄めかされています。どのような形で描かれるのか、非常に楽しみ。

 

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 そして本作の監督を務めるのは、伊藤智彦さんです。予告編等の宣伝では『ソードアート・オンライン』シリーズが携わられたタイトルに挙げられていますが、個人的には『僕だけがいない街』が印象的です。

 

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先ほどの『ハロー・ワールド』の予告で印象的であった上下の黒枠が変化する演出。確認していただけると分かる通り、『僕だけがいない街』でも使用されています。加えて、物語のあらすじが共に「過去に戻って少女を救う。」と共通点が多い。

 

 

 

 しかし共通点が多いという事は、同時に新鮮味に欠けるものになってしまう可能性をはらんでいます。しかしそんな不安を感じさせないのが、本作で脚本を担当された野崎まどさんです。


野崎まどさんが以前脚本を担当された『正解するカド』という作品。

 

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価値観や倫理観を問いかける内容、そして観るものを揺さぶる先の読めない展開は、作品を楽しむ以上に自分に「残る」体験を作り出しました。

 

「たとえ世界が壊れても、もう一度、君に会いたい。」

 

このようなキャッチコピーからも、本作では世界とこの命を天秤にかけるといった、観る者の価値観に強く問いかけるような内容になっている事が予想されます。

 

また今回は、未来の自分と協力するという展開で、また違った形で時間トリップを作劇してくれると思います。

 

それが前述した作品とは、違う物語を提供してくれるという期待を持たせてくれます。

 

ちなみに、紹介した『楽園追放』と『正解するカド』両者の共通する点は、東映アニメーションが制作に関わっている事です。つまり本作は、実質、東映アニメーションの新作と言っても過言ではありません。(違います。)

 

 

 

 本作は『HELLO WORLD ハロー・ワールド』は、自分にとって「残る」作品を提供してくれた信頼のおけるクリエイターの方達が集まり制作された作品なのです。


どんな物語・アニメーションが観れるのか、非常に楽しみな一作である事は間違いありません。

 

 

 

時代を駆け抜けた平成仮面ライダー達。今を生きた者達が、新たな未来を創り出す。祝え!世界をも超える物語を!

 『仮面ライダージオウ』が遂に放送終了してしまいました。1年間長かったような気がしますし、あっという間だったような気もしています。1年を通じて放送されるコンテンツは現在希少である事も相まってか、非常に懐かしいような不思議な感覚を抱いています。

 

私は2017年に放送を開始した『仮面ライダービルド』から再び仮面ライダーを視聴するようになりました。私が子供の頃に『仮面ライダー』シリーズを視聴していたのは、『仮面ライダークウガ』〜『仮面ライダーファイズ』の頃。その時から15年以上も経過しているので、当然いろんなところが変化していました。

 

まず最初に感じた変化は、デザインのストレートさ。どの仮面ライダーでもデザインには何かしらモチーフがありますが、近年の仮面ライダー達は、モチーフをそのまま頭や肩など、全身にくっ付けたかのようなデザインになっています。

 

はじめはその奇抜さに動揺するものの、そのお陰でそれぞれ仮面ライダー達を瞬時に見分けることができます。20作品もありながら、既視感を一切感じさせないのは凄い事だと思います。

 

平成仮面ライダー20作品記念ベスト(CD3枚組)

 

 

 

 デザインも異なっていれば、世界観や物語も全く異なる作品たち。歩んでいったその先で、神になった者や新しい世界を作った者も居れば、仮面ライダーとしての生活を続ける者や一般人としての生活に戻る者も居ます。

 

仮面ライダーという名を冠しながらも、その枠にとらわれない物語とデザインは常に新たな作品と遊びを提供してくれているのではないかと思います。特にジオウを視聴した1年間は、その作品の幅ゆえにマンネリや中だるみを感じませんでした。

 

そんな『平成仮面ライダー』というコンテンツを浴びるように楽しんでいく中で、疑問に感じた事があります。

 

 

何故、異なる作品の仮面ライダーが共演することになったのか。

 

 

 

 

 

 

 

 現行の『仮面ライダー』を視聴するのに並行して、触れていなかった約15年間の時間を埋めるかのように過去の作品を鑑賞していました。その中で様々な共演作にも触れてみました。それらの作品も手放しに楽しむ事ができたかといえば、そうではありません。

 

仮面ライダーが並ぶ映像は歴史の厚みが具現化したかのようで壮観ではあるものの、設定の整合性よりもその作品単体の勢いを優先した作劇が気になってしまいます。それぞれの作品が持っている雰囲気さえも一緒くたにされていて、作風という概念が消失したのかとさえ感じさせる。そんな集合作品の数々に戸惑いと驚きを隠せません。

 

もちろん共演作だからといって、それこそ一緒くたにして悪い印象を抱いているわけではありません。『平成ジェネレーションズ』3作はどれも面白かったし、特に『平成ジェネレーションズ FOREVER』は胸に響く内容であった事に疑いはありません。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

 

 

 しかし、私が現在抱いている疑問はそういう事ではありません。私が抱いている疑問は「共演する事が想定されていないにも関わらず、共演する理由が何なのか。」という事です。

 

仮面ライダーW(ダブル)』以降、俗に言う平成2期の仮面ライダー達は、ビルドとジオウを除いて世界観を共有しているという設定があります。しかし共演する事をシリーズの主の目標ではないので、「共演する為の設定」というよりは「共演しやすくする設定」ではないかという印象を受けます。

 

 

 

  そもそもアニバーサリーだからといって、必ずしも共演するわけではありません。例えば、『ガンダム』シリーズは誕生から40周年を迎えましたが、宇宙世紀と西暦の世界が繋がった事はありません。仮に共演することがあっても、ゲームやプラモデルに限定されていて、時空を超えてキャラクター達が本当に会う事はありません。

 

一見必然性を感じられない共演を行う傍で、ヒーローが共演する事を前提・目標とした『マーベル・シネマティック・ユニバース』(以下MCU)というコンテンツが展開されています。世界観や設定を共有するだけでなく、各作品が『アベンジャーズ』という一つのゴール地点に向かっている事を考えられています。

 

そんなシリーズを10年以上も追っているが故に、強行とも言える仮面ライダーの共演の理由が気になって仕方ありません。

 

 

 

 そんな疑問を抱きながら『仮面ライダージオウ』を1年間追ってきました。勿論新しい仮面ライダーの活躍が楽しみでしたが、同時に自分の持つ疑問に対する答えが見つかるのではないかという期待感もありました。

 

この1年間、毎週のように登場するレジェンドライダー達の活躍に、自分を含め子供の頃に仮面ライダー観ていた人たちが一喜一憂してきました。

 

ジオウの干渉があっても在り方が変わらないライダーも居れば、テレビシリーズのラスト展開を覆す結果となったライダーも居ました。極め付けは、ジオウの世界に干渉して命を落とすという結果になってしまったライダーも出てきてしまった。

 

それぞれの作品の結末や余韻を変えてまで、『仮面ライダージオウ』ひいては仮面ライダーたちが共演をしてきた理由は何だったのか、答えを見つけるどころか更に疑問が深まっていきました。

 

 

 

 そんな状態で臨んだ最終話。世界は一つになる事なく『仮面ライダージオウ』という作品は幕を下ろしました。個々の作品を尊重したとも受け取れるラストに、自分の持っていた疑問に対するアンサーがようやく得られたかのように感じました。

 

更に、他の方の、特に結騎了さんの感想を読む中で、その思いを更に補完してくれました。引用させていただきます。 

 

www.jigowatt121.com

 

そんな『ジオウ』のメッセージとしては、シンプルに、「今を懸命に・大切に生きる」というものなのだろう。

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時計の針のように、未来と過去は紙一重なのだ。針が指した時刻は、過去の時刻でもあり、未来の時刻でもあり、今の時刻でもある。混濁する、幾重にも繰り返される時間。だからこそ大切なのは、「今」を大切に、必死に生きることにある。

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そして何より、「今」を懸命に生きてきたのは、他ならぬ平成ライダーというシリーズそのものなのだ。「今」の群れこそが、「不揃い」を意味する。先に公開された『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』は、これこそをテーマとして、大いなる開き直りを見せた。露悪的で、卑怯な、しかし絶対的に力強い主張。平成ライダーにしか作れない、稀有な一作であった。

 

 

 

まさに「今」という言葉が非常にしっくりきました。ただひたすらに「今」を生きるという積み重ねを懸命に行ってきたのが平成仮面ライダーなのだと。まさに時代を駆け抜けた平成仮面ライダー達。

 

 

 

 ここに来て考えさせられる事が、仮面ライダーは子供向けのコンテンツであるという事です。子供向けコンテンツに対する考え方をこの場で深く論じるつもりはありませんが、「子供向け」という言葉は「子供が最も楽しめるように制作されている。」というふうに捉えています。

 

誰しもが20作品を全てリアルタイムで鑑賞して来たわけではありません。むしろ、自分が子供の頃に放送していた仮面ライダーのみを視聴していた人の方が多いのではないかと思います。

 

そんな子供たちに向けて作品を作り出す時、未来を見据える必要は無いのです。それは作品の描くテーマとして未来を軽視するという事ではなく、今観てくれている子供たちが最も楽しめる事を考えて作品を作るという意味です。

 

 

 

 子供達が仮面ライダーに熱中していく体験を今の自分に当てはめると、MCUの体験がまさにそれだったのではないかと思います。私がMCUに熱中するようになったキッカケは、数年後に訪れる共演作が楽しみだったからではなく、その時その時の「今公開している作品」が面白かったからです。一作目が面白かったから二作目も見たい、今回も面白かった、じゃあ次も。そして気付いたら数年先の作品が楽しみになっていました。

 

子供達にとって一年という時間は大人にとっての一年よりもずっと長い。だから、「今面白い。」という事実は更に大きくなります。今が面白くなければ、「次なんて無い。」です。

 

子供には忖度は通じません。今の自分を含め大人となっても特撮を楽しんでいる人は、ある種の忖度をしている。出演者や製作者が、テレビや劇場での公開に至るまでの過程における苦労を、メイキングやインタビューで知る。それは苦労の一端でしかないと思うが、多かれ少なかれ、作品の描写に対してポジティブに解釈しようとする姿勢を強めている事は否めません。

 

子供たちは違います。そういう製作者たちの事情や苦労は一切知らない。だからこそ、出し惜しみをしていては興味を失っていく。

 

 

 

 しかし、知らないからこそ、大人にはできない楽しみ方をします。それこそが共演です。子供にとって、権利などといった所謂「大人の事情」というものは関係ないどころか存在しません。仮面ライダー同士だけでなく戦隊ヒーローとの共演はもちろん、ウルトラマンとも共演させます。

 

現在「スパイダーマンマーベル・シネマティック・ユニバースから離脱するのか否か。」という問題でファンが一喜一憂する事態となっていますが、子供たちにとっては関係ない。子供たちがフィギュアなどで遊ぶ時、スパイダーマンはこの先もドクター・ストレンジブラックパンサーと共演し続けるし、もしかしたらキャプテン・アメリカと再び戦っているかもしれないし、アイアンマンが復活してるかもしれない。それどころか、権利や会社や国を超えて、その中にウルトラマン仮面ライダーがいるのかもしれません。

 

子供の想像力は「大人の事情」軽々と超えていく。

 

ウルトラマンVS仮面ライダー[菊地寿幸][Laser Disc]

 

 

 

 そんな子供たちに向けて大人がコンテンツを発進する時、求められる物は一体なんなのでしょうか。それはきっと、子供と同じくらい「本気の姿勢」を持つ事ではないかと私は思います。

 

エンドゲームの後の世界にアイアンマンが登場?

アメリカのヒーローと日本のヒーローが共演?

 

「それはありえない。」と思うかもしれません。しかし、子供たちにとってはありえないことがありえないんです。どんな国でも、どんな会社でも、どんなシリーズでも、そこにフィギュアがあるだけで、ヒーローたちの世界は繋がるんです

 

 

 

 

 

 

 

 『仮面ライダージオウ』がひいては平成仮面ライダーシリーズというコンテンツがやろうとした事は、そんな子供たちの想像力に大人達が全力で応える事だったのではないでしょうか。異なる作品の仮面ライダー同士の共演は、その結果の一つだったのではないでしょうか。

 

他でもない子供たちが、仮面ライダー達に世界を超えさせた。

 

仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER メドレー D.A. RE-BUILD MIX

 

 

子供たちの想像力という、これ以上にない壁に「共演」という形で立ち向かおうとしたのが平成仮面ライダーたち。そう考えると、『仮面ライダージオウ』がこの一年間を走り抜けた事実を祝わずにはいられない。世界をも超えたその出会い、物語に、最大の賛辞を送りたくなりました。

 

それを経て始まる令和仮面ライダー『ゼロワン』。新しい時代の仮面ライダーは、子供達の想像力にどのように応えていくのか、今から楽しみです。

 

 

 

「ととのう」とは!?変身バンクならぬ「ととのったバンク」と独特の空気感が癖になるテレビ番組『サ道』

 現在、日本は連日の猛暑。太陽からの直射日光による暑さや全身から溢れ出る汗の不快感に「もう勘弁してくれ。」「早く涼しくなってくれ。」なんて声が聞こえてきそうです。(というか自分が思っています。)

 

外で歩いている人たちが少しでも不快感を和らげようと汗を拭い団扇や扇子で仰いでいる一方で、自ら進んで暑い部屋に身を置く「サウナー」と呼ばれる人たちがいます。

 

そんなサウナーたち、そして彼らの愛するサウナの魅力を描いた番組『サ道』が現在放送中です。

 

今この番組が、週に一度の楽しみになっています。私自身はサウナが好きでも嫌いでもないという感じですが、サウナという特殊な空間の中で生まれる独特な空気感が癖になってしまっています。ついに先日、久しぶりにサウナに入ってしまいました。

 

謎の魅力を持つ『サ道』。今回はこの番組を紹介したいと思います。

 

 

www.tv-tokyo.co.jp

 

 

 

 まずは、この番組を半裸で彩る出演者たちを紹介。サウナの気持ち良さを知った男「ナカタアツロウ」を演じるのは、原田泰造さん。「偶然、偶然!」が口癖の中年サウナー「偶然さん」を演じるのは、三宅弘城さん。水も滴る良いサウナー「イケメン蒸し男」を演じるのは、磯村勇斗さん。

 

この番組は、3人の男性の会話を通じて、様々な場所のサウナの話やサウナの良さを語り合います。加えてそのサウナで働いている授業員の方や風を送る熱波師と呼ばれる方に話を聞くなど、ドラマというよりはドラマの体をとったサウナの紹介番組といった構成となっています。孤独のグルメ』のサウナ版とでも言えば、本作のイメージを掴んでいただけるでしょうか。

 

マンガ サ道?マンガで読むサウナ道?(2) (モーニングコミックス)

 

 

 

 この番組の雰囲気は、まさにサウナ室の空気感そのもの。BGMは少なく、暖房の音や熱された石にかける水が蒸発する音などの環境音をじっくりと聞かせてくれます。つまりはサウナ室の暑さ、水風呂の冷たさ、屋外の風の涼しさを画面越しに見ている私たちに想像させます。そして何より良いのは、原田泰造さんのリアクションです。

 

サウナを堪能している様子を映しつつナカタアツロウさんの独白を通じてサウナの紹介をしています。しかし、サウナに詳しくないどころかサウナに通う習慣さえない私にとって、毎回紹介されるサウナの良さや特徴、他のサウナとは何が違うのか、説明だけではイマイチ感じる事ができません。

 

上記で述べた想像させられる暑さ、冷たさ、涼しさ。それらを感じられる事は理解できても「どれくらい暑いのか?」という事までは感じられません。

 

そんな時、サウナの紹介を補ってくれるのが原田泰造さんの一つ一つの反応なのです。

 

水風呂に入るとき水の冷たさに耐えながらも気持ち良さを感じている声。想像を超える暑さや冷たさを感じた時の表情。それらの反応の一つ一つが、言葉だけではどうしても伝わらない「程度」を雄弁に語ってくれます。

 

 

 

 

 これほど想像を掻き立てる見事な構成であっても、想像することのできないものがととのうです。サウナトランスやディープリラックスとも表現されるそうです。しかし、サウナ→水風呂→休憩の3セット繰り返しが基本である事を知らないどころか、水風呂の冷たさに敬遠して入っていなかった自分にとって、もはや別次元の感覚だとさえ思ってしまいます。

 

唯一分かっていることは、多幸感ともトリップ感とも言える非常に抽象的な感覚であるらしい、という事です。

 

では、ととのうシーンは私にとって理解できないシーンなのでしょうか?退屈なシーンなのでしょうか?

 

 

 

 とんでもない。むしろサウナーたちがととのっているシーンは、私にとって癖になっているシーンの一つであります。なぜなら、ととのったシーンには変身バンクと同じ魅力があるからです。

 

 

 

 変身バンクについて説明します。特撮作品『ウルトラマン』シリーズには毎回必ずと言っていいほど流れる変身シーンがあります。身も蓋もない表現をしてしまうと、その変身シーンを使い回している事を変身バンクと言います。しかし変身シーンが毎回流れるが故に、視聴者にとっては定番のシーンとして定着し非常に印象に残るのです。

 

登場人物がととのうシーンは毎回番組の終盤で登場します。つまり、ととのうシーンは変身シーンと同様、変身バンクならぬ「ととのったバンク」であると、いう事ができます。

 

近年のウルトラマンでは「インナースペース」と呼ばれる、変身者がウルトラマンの体内に居る様子を映したシーンがあります。

 

実はととのった時のシーンは、そのシーンにかなり似ているのです。

 

つまり、サウナによってととのう感覚とは、ウルトラマンになっている時の感覚に似ているのではないでしょうか。(多分違う。)

 

冗談はさておき、ととのった時の感覚は分かりません。しかし『サ道』という番組に限った話で言えば、ととのった時のシーンはウルトラマンの変身シーンもしくは必殺技のシーンのように視聴者にとって癖になる魅力があると思います。現在6話まで放送されていますが、現時点で既にととのったシーンの予兆があると「お、くるぞ。例のシーン!」と思わせられてしまいます。

 

 

 

 サウナの魅力と奥深さを描きながらも、知らない人にも興味を引かせる内容となっているテレビ番組『サ道』。現在テレビ東京等で毎週金曜日深夜に放送中です。また、TVerParaviでも配信中ですので是非。

 

www.tv-tokyo.co.jp

tver.jp

www.paravi.jp

 

 

天気が映画の広告になってしまった…

 現在、世間はお盆休みでありながらも台風10号の到来により天気が安定しない日々。かといって、晴れたら晴れたで、気力を根こそぎ奪うと言わんばかりの猛暑。室内で娯楽を楽しめる映画館へ足を運ぶ事さえも躊躇してしまいます。結局外出する事を控えて、家で悶々と過ごしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんな中、私の中でタイトルの通りとんでもない事が起こっているのです。

 

天気が広告になってしまったんです。

(大事な事なのでもう一度書いておきます。)

 

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 いや「何言ってるんだこいつは。」とか「連日の暑さに頭がやられたか。」なんて言わないでください。

 

そもそも何の広告なのかという話をします。それは現在公開中のアニメーション映画『天気の子』です。美しい映像を存分に生かしたその物語が非常に魅力的な本作で、私は既に複数回鑑賞してしまいました。

 

ネタバレをしない程度に内容に軽く触れておくと、本作において天気が非常に印象に残るんです。全編に渡り描かれる美しい天気の映像が感情を突き動かし、その動きの蓄積が最終的に天気の見え方を変えてしまう。そんな体験が本作の素晴らしいところなんですよね。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

 

 

 天気の描写が非常に重要な要素になっている事で、本作の鑑賞後には天気の事が気になって仕方ない訳です。青空や太陽はもちろん、それらを隠す曇り、そして体を濡らさんとする雨。それらが全て、作品の印象的なシーンを、ひいては作品の物語を思い出させられてしまうのです。 

 

つまりそれはどういうことか。どんな時間であろうとも、どんな場所にいようとも、一歩外に出てしまえば『天気の子』を思い浮かべてしまうのです。空が晴れていれば、100%の晴れ女が祈っている映像を思い浮かべてしまうし、雨が降っていれば、帆高たちが雨の中で傘をさしたりカッパを着て歩いてる光景が目に浮かんでくる。どんな天気であっても『天気の子』に結び付けられて、「また観たいな。」と思ってしまう。天気が広告と化してしまっているのです。

 

テレビでCMを目にする事やSNSで宣伝ツイートや感想のツイートが流れてくる事とは比較になりません。

 


映画『天気の子』予報①

 

 

 

 日々財布の中のお金と相談しながら鑑賞する映画を考えている中で、この現状は非常によろしくない。映画を鑑賞できる回数限られているというのに、同じ作品ばかりを観ていては他の作品を鑑賞する機会が減ってしまう。だから他の作品の事を考えたりするのですが、一旦建物の外に出て空を見ると、その時にはもう頭の中がグランドエスケープ状態or愛にできることはまだあるか状態になってしまうのだから、さあ大変。

 


映画『天気の子』予報②

 

 

 

「ねえ、今から晴れるよ。」ではなく

「ねえ、今から観れるよ。」なわけです。

 

もし自分が今学生だったら、この悪魔の囁きに抗う事なく「『天気の子』観に行こ!」と帰りにそのまま劇場に足を運んでしまうのです。財布の中の有り金を全て鑑賞につぎ込んでいた事でしょう。なんともまあ、意思の弱い奴である。

 

感動の涙で目元は潤っても、財布の中身は干上がってしまう。

 

しかし、実際は学生ではなく働いている身。映画館へ足を運ぶ事ができる日が基本的に休日に限られてしまう事が、これ程ありがたいと思った事があったでしょうか。身を滅ぼさない程度に楽しむことのできる環境で本当に良かった。

 

 

 

 「これから一生、天気の子の物語を思い出し続ける日々を過ごすのだろうか。」という喜びなのか、悲しみなのかよく分からない感情を今は抱いています。

だけど多分大丈夫です。(大丈夫じゃない。)

 


映画『天気の子』後報

 

 

演出の一要素を超えて天気を作品の題材にした時、日々の天気が広告になってしまうというとんでもない発見をしてしまった『天気の子』。恐ろしい作品です。