モリオの不定期なblog

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夢を目指すか、諦めるか。「どちらかを選ぶ」という行為そのものを肯定する。<空の青さを知る人よ/感想>

 作品を通じて様々な登場人物を見ていると、時々、自分の人生について考えさせられます。様々な事に悩み苦しみながらも一つの決断と選択をする登場人物達。スクリーン向こう側の彼らに感情移入し、彼らの選択に膝を打ち、頭を抱えたり、目頭を熱くしる。するとふと「自分はどうだろう。」という疑問が頭の中をよぎる。自分が過去にした選択は後悔のないものだったろうか。これから自分のする選択を後悔の無いものにできるだろうか。

 

そんな疑問に対して一つの答えを示してくれた作品が『空の青さを知る人よ』です。

 

 

 

 本作の印象に残った点は、夢を追いかける事と夢を諦める事、その2つを共に肯定したことです。夢を叶えるために街を出ていった慎之介(しんの)、妹の為に街に残ったあかね、街を出てようと考えているあおい。それぞれの選択に焦点を当てて、彼らの葛藤と思いの強さを浮き彫りにした上で、それぞれの選択を尊重する。

 

選んだ道ではなく、選ぶという行為そのものに意味と尊さを見出して肯定する。そんな本作の物語に心動かされました。

 

 

 

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 夢を目指すのか、諦めるのか。その選択をすることは、夢の大小を問わず多くの方達が経験したと思います。目指すことを選択した人もいれば諦めることを選択した人もいる。

 

どちらの選択をしても、結果によっては後悔が生まれてしまうかもしれない。夢を目指しても思い通りにならなかった時、そもそも夢を目指せずに諦めてしまった時、「自分の選択は間違っていた。」と思ってしまうかもしれない。

 

そんな選択を肯定してくれるのは、選択する時に自分が大切にしていたものです。 

 

 

 

 

 本作には夢を叶えるために上京する決断をした慎之介と、上京するか迷っている13年前の慎之介(しんの)が登場します。ミュージシャンとしての活動が思うようにいっていない慎之介は夢に対する情熱を失いかけています。

 

慎之介は高校生の頃、ミュージシャンとして売れる夢を目指すために上京する決断しました。同時に上京を断念した恋人であったあかねとは、別れる事になってしまった。慎之介にとって、夢とあかねは同じくらい大切な存在です。

 

そんな選択をした時の気持ちを代弁してくれたのが、他でもない13年前の自分自身(しんの)です。

 

夢を追って上京するか、あかねと同じく上京をやめるのか、分かれ道の目の前に立っていた13年前の慎之介(しんの)。迷っていた自分の気持ちを理解できる。だからこそ、上京する決断をした慎之介に「それでも、前に進んだんだろ。」と言葉をぶつける。夢を目指した上京する決断をした慎之介を肯定する。

 

 

 


 本作において選択をしたのは、あおいも例外ではありません。しんのがいなくなってしまった後、彼と別れを告げた彼女は力一杯走りながら跳び上がる。しかしその跳躍は、さっきの事は夢だったのではないかと思わせるほどに低い。跳べば跳ぶほど、しんのが居なくなった事実があおいに突きつけられる。

 

でもそれは他でもない、あおい自身がした選択。しんのが好きになってしまった自分の気持ちに向き合いながらも、しんのの為、慎之介の為、そして何より自分のために上京しない選択をしてくれた姉の為に選択する。

 

止める事ができないほどに溢れ出す涙。それでもあおいは「泣いてないし。」と強がる。それは他ならぬ姉のために自分が我慢する番である事、大好きな姉のために出来る最大限の選択だと思っているから。だからこそ、姉の目が届かないところで涙を流し、最後には再び歩き出す。

 

 

 

 妹の選択を受けて、あかねもまた選択します。

 

「あの時の自分と同じ歳なんだ。」

 

自分と同じ様に、自分や誰かの事を気遣ったり、我慢したりする事ができる。妹は大丈夫だと、自分を優先しても良いんだと思えるくらいに成長したんだと。それを悟ったからこそのツナマヨ。いつも、おにぎりの具を昆布にしていたのは、妹の事を優先していた事を象徴している。妹の好きな昆布ではなく、しんのが好きなツナマヨのおにぎりを作ろうと。それは妹の気持ちを受け取って自分の人生を優先するという宣言です。

 

3人の選択と葛藤は互いを思っているからこそ生まれているし、同時に1人1人の決断にそれぞれ3人分の重みがあるのです。

 

 

 

 そんな彼らの「その後」が、エンドロールにて一枚一枚の写真で描かれます。慎之介とあかね、あおい達3人が前に進み幸せな様子に「ラストまで必見。感動した。」と肯定的な人も居る一方で、「そこまで描がなくても良い。」と否定的な人もいました。

 

エンドロールで「その後」を描く事に対する評価が何故分かれるのか。それは「キャラクターに作品のテーマをどこまで背負わせるのか。」という部分への考え方に違いがあるからではないかと思います。

 

本作において「選択自体よりも、自分のした選択に後悔しない事が大事。」が1つのメッセージだと思っています。自分の人生、先がどうなるのか分からない中で、悩みながらも決断して選択する。

 

この「先が分からない。」というのが重要だと思います。自分の選んだ道の先でどうなるか分からない。不安になるし悩む。でもだからこそ、自分の下した決断の重みが増すし、「自分の選択を後悔にしないために。」という劇中の台詞も心に響くのだと思います。

 

「そこまで見せなくていい。」と思う人は、「先が分からない。」という不明確さにこそ意味や意義を感じているのだと思う。「本編の後に彼らはどんな人生を歩んだのか。」つまり「その先」が分かってしまう事は、本作が描こうとしているテーマがボヤけてしまう。

 

対してエンドロールに対して肯定的な人たちは、エンドロールの描写があってもテーマがぼやける事は無い。登場人物自身が「先の分からない」状態で選択したのなら、その時点でメッセージやテーマは成立しており、「その先」が描かれたところで揺らぐ事は無い。

 

テーマやメッセージを作品全体に背負わせるのか、それとも登場人物に背負わせるのか。そこが違うのだと。

 

 

 

 では肝心の自分はどう思っているのかと言うと、見せない方がテーマやメッセージがより強くなるという事は確かに自分も思います。前述した通り、先を知らないからこそ彼らの決断の重みが出てくると思うし、先を見せてしまう事で出来レースの様になってしまうように感じてしまう。

 

しかしその一方で、その一枚一枚の写真を眺める中で本当に嬉しく感じている自分もいました。悩みながらも選択し、涙を流すほどの苦しさを感じながらも前に進んだ。そんな彼らが幸せを掴んだ姿を見て目頭が熱くした事実は否定できません。

 

どうした方が良いのかは結論は出ないが、少なくとも「彼らの人生に幸あれ。」と思わずにはいられないほど、愛着を感じさせる素晴らしい物語・作品であった事は間違いありません。

 

夢と天秤にかけているもの、その価値と重みを感じられる。大切なモノだからこそ生まれた選択であり、どちらの選択にも意義がある。だからこそ、その選択を後悔にしない為に前に進む。

 

夢を目指すにしても、諦めるにしても、そこには選択の動機があるはずです。その動機となるものが自分にとって大切なものであるのなら、「夢を目指すのも、諦めるのも、どちらも良し。」というメッセージを投げかけてくれたのが本作です。

 

 

 夢を目指した者、夢を一度諦めた者、一つの夢を諦めてもう一つの夢を目指す者。三者三様の選択が選択すること自体を肯定してくれる。本作は夢を一度でも抱いたことのある人へむけた賛歌であり、心に残る1作であったことは間違いありません。