脚本に留まらず、それを裏付けるかのようなコンセプトアートが多数出た『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』。否応無しに「これが観たかった。」という思いと、制作者に対する失望が強くなってます。
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じゃあ作り直して欲しいのかというと、そんなことはありません。なぜなら本作が好きではない理由が、まさにやり直したことに起因するから。
(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)
自分はエピソード1〜3からスターウォーズに触れました。「シスがわるものでジェダイがいいもの。」その枠組みはハッキリしていました。だからこそ、アナキンがシスに堕ちる事は当時の自分にとっては衝撃的でした。ジェダイとシスの枠組みを土台に描かれた物語は今も自分の心に残っています。
そんな中でエピソード8では、主人公レイはルークの子でもなければ誰の子でもなかったことが明らかになりました。物語の根底にあったジェダイとシスの枠組みに一石を投じる展開、そこに新しく3部作を作る意義と可能性を感じていました。
エピソード9の予告編ではシスの象徴の一つである赤いライトセーバーを持つレイの姿がありました。エピソード8で示した方向性を感じさせる映像にワクワクしていました。
しかし本編ではそんなことはありませんでした。赤いライトセーバーを持つレイは現実ではなかったし、ジェダイとシスという枠組みは無くなりませんでした。
ジェダイとシスの枠組みからの脱却を最初に感じさせてくれたレイの出自。エピソード9では、実はパルパティーンの血を継いでいる事が判明しました。
ここまでは別に良かった。血族だけで言えばシスの素養を持つであろうレイが、シスではない道を選ぶ。ジェダイなのか、シスなのか、その二択ではない。そもそも選択しない、もしくはその両方という別の選択肢を作り出してこそ、二つの枠組みから脱却できるのではないかと思いました。
しかし、レイは最後に「レイ・スカイウォーカー」と名乗りました。
パルパティーンの血を引いているレイがスカイウォーカーを名乗ることは、一見枠組みからの脱却しているようで脱却できていない。寧ろ、ジェダイは光であり善、シスは闇であり悪、その対立構造のまま。元の鞘に収まったに過ぎませんでした。
本作の許せないところは、一度描こうとしたものを引っ込めてしまったことです。『アニメタ!』という漫画にこのような台詞があります。
「必要なのは自分を悪く言ってくる人と戦う覚悟じゃなく自分のことを良いと言ってくれている人を信じてやり抜く覚悟」
自分の実力ではなく有名漫画家の娘だから選ばれたのではないか、そしてそのことで批判を受けるのではないかと悩んでいるアニメーターに対して、先輩アニメーターがかけた台詞です。
エピソード8で見せてくれたチャレンジを楽しみにしたい、支持したいという人は居たはずです。少なくとも自分はそうです。しかし作り手側は、そのチャレンジを止めてしまいました。
しかし一方で、エピソード9の結末に満足している人もいます。だから、もしエピソード9を没案で作り直すなんてことをしてしまったら、同じことの繰り返しです。だからこそ、作品に、没となった脚本・コンセプトアートに対してモヤモヤとワクワクが入り混じったものを感じてしまう。
発起人である制作者がチャレンジから先に降りてしまった時、そのチャレンジを支持して乗った観客はどうすればいいのでしょうか。