ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。日本でも公開から3日間で7.5億を超える興行収入を記録。今現在、最も注目を浴びていると言っても過言ではない映画『ジョーカー』。「傑作」などと言った作品を讃える声が数多く聞こえてくるのと同時に、「気分が落ち込む」という感想も。作品の完成度の高さ故か、観客の心に大きな影を残す映画である事が伺えます。中には現実の社会問題や自らの実生活に結びつけて感想を語る方達も見られました。
そんな中で、果たして自分はどんな感想を抱くのか。他の作品ではあまりない緊張感の中での観賞となりましたが、アーサーの辿る道、そしてジョーカーの誕生に感じたのは、後ろめたさでした。
(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)
本作の主演であるホアキン・フェニックスさんの怪演をはじめとする、本作のクオリティについては疑う余地はありません。本作が発する視覚情報と聴覚情報の全てが、ジョーカー誕生へと導くものであり非常に高いレベルで構成されています。しかし前述した通り作品の質の高さ故に、本作から観客が受けとめる物の重さも並大抵のものではありません。
本作の内容と同じくらい印象的だった事は、「自分もジョーカーになる可能性がある。」と「ジョーカー」に共感した人達が居るという事です。
ジョーカーという存在が現実にも誕生し得る。そう思わせるだけの作品の質の高さを証明すると同時に、そう思わせてしまう社会的な問題が存在している事を本作からは感じてしまう。
しかしそれこそが、本作を観賞しる中でアーサーに対する後ろめたさを感じてしまった要因です。
アーサー曰く「喜劇なのか悲劇なのかは主観で決まる。」という事ですが、この物語は悲劇だと思います。コメディアンを目指していたアーサーという人間が最後の最後まで注目を浴びる事は無かった物語であり、アーサーという存在はジョーカーの誕生を語る上で付属品でしかなかった。
ジョーカーの登場に熱狂し、ピエロのお面を被った人達、最後にジョーカーを称えていた人達の誰一人としてアーサーという人物に注目している人は居なかった。ジョーカーとして行った事を表面的にしかとらえていなかった。
そしてそれは、作品を観ていた自分にも当てはまります。本作を観に来た理由は「ジョーカー誕生の理由」という謳い文句に引かれたからで、ジョーカーという存在が前提にあります。自分が観に来たのは『ジョーカー』であって『アーサー』という作品ではありません。
だからこそ、本作を観賞し終えた時には後ろめたさを感じてしまったのです。
ジョーカーとしての物語として意識すればするほど、アーサーから遠ざかってしまうのでないか?またジョーカーの誕生を社会的な問題に結びつける行為は、一見アーサーに寄り添っているようで、これもまたアーサーの事を見ていないのではないか?
ジョーカーを讃えてピエロのマスクを被り、暴徒と化した人々とやっている事と大差ないのではないか。アーサーに注目しているようでその実、アンチ富裕層・アンチ社会の象徴としてのジョーカー、アンチヒーローのヴィランとしてのジョーカーしか見ていない。
本作のタイトルも『ジョーカー』であって『アーサー』ではありません。アーサーの身に起こる出来事をこれだけ情緒的にかつ劇的に描きながらも、結局は「ジョーカー誕生の物語」として消化されてしまう。
だからこそ、この物語は悲劇なのだと思ってしまうのです。
しかし、そんな風に考えてしまう私は、きっとアーサーに笑われるのでしょう。
「分かりっこない。」と。