モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

殺人者には人殺しの演技はできない

 出演者やスタッフの行いにより作品の受賞がなくなったり公開されないなどの事態が最近話題になっています。海外でも監督の過去の発言が取り上げられて、結果的に新作の監督を降板する事態にまで発展したケースも。その中で議論される事が「作品と作った人は切り離して考えるべきか?」という事。「切り離して考えるべき。」と考える人もいれば、「公開は自粛すべき。」や「中止でも仕方ない。」と考える方もいると思います。

 

 

 

 作品に携わった他の人達には関係のない事で、一個人の為だけに正当な評価をされなかったり、最悪の場合は公開されないまま終わってしまう作品があります。

 

個人的には、公開されなくても仕方ないという気持ちがありながらも、作品に携わった方々を思うと公開してほしいという思いもあります。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の監督であるジェームズ・ガンさんの新作の降板は非常にショックでした。(後に降板は撤回されましたが。)自分の好きな作品だと特に「切り離して考えるべき。」という考えが強くなってしまう事も事実です。

 

なので、「どちらの考えも理解できる。」というのが私の今の考えです。

 

 

  

 しかしそんな中、どうしても納得できない投稿をツイッター上で発見。

 

佐々木俊尚 on Twitter: "映画やドラマ、文学に倫理を求めてはならないと思います。殺人者でさえも、時には殺人者であるからこそ可能な素晴らしい表現を行う場合がある。私たち社会はそれも認めていいと思う。/新井浩文容疑者逮捕 NHK「真田丸」など10番組の新規配信停止 https://t.co/5hVRxCa8Xc… https://t.co/swsjXq4oWy"

 

 

これはどう考えてもおかしい。あまりにも極端な考え方で全く同意できません。

 

 

私の意見は以上の通りです。そもそも映画やドラマは、そこで描かれる出来事を経験をしていない人たちが想像を膨らませて筋書きを考えたり、演技をしたり、映像処理を行ったりする、だからこそ面白いと思っています。

 

映画の中で描かれる殺人において、もし殺す人が現実でも人を殺していたら、果たしてフィクションとして見る事ができるでしょうか?私はできません。演技をしている人はもちろん、本当は殺したことがない、一線を超えていない人たちが嘘の世界である映像の中だけに限り一線を越えるからこそ、役者たちの演技、演出、表現、フィクションに引き込まる、フィクションに価値が生まれる。

 

 

 

 本当に殺した事がある人の殺したかのように見える演技は、演技ではなく実演でしかありません。仮に社会に認められたとしても、私はその演技には決して引き込まれないし魅了されません。