出演者やスタッフの行いにより作品の受賞がなくなったり公開されないなどの事態が最近話題になっています。海外でも監督の過去の発言が取り上げられて、結果的に新作の監督を降板する事態にまで発展したケースも。その中で議論される事が「作品と作った人は切り離して考えるべきか?」という事。「切り離して考えるべき。」と考える人もいれば、「公開は自粛すべき。」や「中止でも仕方ない。」と考える方もいると思います。
作品に携わった他の人達には関係のない事で、一個人の為だけに正当な評価をされなかったり、最悪の場合は公開されないまま終わってしまう作品があります。
個人的には、公開されなくても仕方ないという気持ちがありながらも、作品に携わった方々を思うと公開してほしいという思いもあります。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の監督であるジェームズ・ガンさんの新作の降板は非常にショックでした。(後に降板は撤回されましたが。)自分の好きな作品だと特に「切り離して考えるべき。」という考えが強くなってしまう事も事実です。
なので、「どちらの考えも理解できる。」というのが私の今の考えです。
しかしそんな中、どうしても納得できない投稿をツイッター上で発見。
これはどう考えてもおかしい。あまりにも極端な考え方で全く同意できません。
違うでしょ。
— モリオ (@mori2_motoa) 2019年2月5日
殺人をしてない人が殺人をする演技をするから、私たちはその表現をフィクションとして観れるし、そのフィクションに引き込まれる。
本物の殺人者による殺しの演技は、演技とは言えないと思います。 https://t.co/gA6M2BoTGV
私の意見は以上の通りです。そもそも映画やドラマは、そこで描かれる出来事を経験をしていない人たちが想像を膨らませて筋書きを考えたり、演技をしたり、映像処理を行ったりする、だからこそ面白いと思っています。
映画の中で描かれる殺人において、もし殺す人が現実でも人を殺していたら、果たしてフィクションとして見る事ができるでしょうか?私はできません。演技をしている人はもちろん、本当は殺したことがない、一線を超えていない人たちが嘘の世界である映像の中だけに限り一線を越えるからこそ、役者たちの演技、演出、表現、フィクションに引き込まる、フィクションに価値が生まれる。
本当に殺した事がある人の殺したかのように見える演技は、演技ではなく実演でしかありません。仮に社会に認められたとしても、私はその演技には決して引き込まれないし魅了されません。