モリオの不定期なblog

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ゲームをした経験のある全ての人に送られた物語は、本当に駄作だったのか。<ドラゴンクエスト ユア・ストーリー/感想>

 1986年に第1作目が発売され今でも最新作が発売され続けているドラゴンクエストシリーズ。その中でも非常に高い人気を誇っている『ドラゴンクエスト天空の花嫁』が、約27年の時を超え3DCGアニメーション映画として再び世に送り出されました。公開前から「ビアンカ派かフローラ派か。」と当時の思い出を懐かしむかのようにファンの間で話題になっていた本作ですが、いざ公開されてみると賛否両論。いや、個人的には否定的な意見の方が多いように感じます。

 

自分自身は、ドラゴンクエストⅤはおろかドラゴンクエストシリーズを1作もプレイした事がありません。しかし他のRPGゲームをプレイした経験はあったので、何か自分にも響く要素があるのではないかと思い鑑賞しました。

 

最も賛否を呼んでいる本作の終盤の展開において不十分な点を感じながらも、自分の胸を打つ要素も同時に感じました。こうするべきだった、ああするべきだったと思うところはありながなも、本作は自分にとって好きな作品です。足りないと思ったところと、それでも自分に本作を好きだと言わせるところについて書きたいと思います。

 

ちなみに、私はドラゴンクエストシリーズを1作も遊んだ事がありませんが、子供の頃に他のRPGゲームには熱中していました。今でもそのゲームは好きです。

 

 

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 映画ノベライズ (ダッシュエックス文庫) 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 本作において決定的に足りなかった物は、ドラゴンクエストⅤがプレイヤーにとってのもう一つの現実だと思わせる為の尺と映像だと思います。

 

本作の終盤、「ゲームである。虚構だ。」という事実を突き付けた敵を主人公は「もう一つの現実だ!」といって退けます。しかしプレイヤーにとって「もう一つの現実」であると主人公と同じように思える作りであったかと問われると、手放しに「はい。」と言う事は出来ません。

 

 

 

 本作と似た構造を持っている作品に『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER』(以下、平成ジェネレーションズFE)があります。本作と同じく、仮面ライダーという存在は虚構だという事実が突きつけられます。それどころか、虚構である仮面ライダー自身がその事実に不安を感じる姿までもが見せられます。

 

それだけ虚構である事実を感じさせられながらも、何故この作品に心底感動する事ができたのか。それは作品と自分を結びつける思い出を想起させる映像が数多く観せていたからではないかと思います。本作で主人公のリュカが「もう一つの現実だ!」と言ったように、『平成ジェネレーションズFE』でも仮面ライダーが好きな青年のアタルが「覚えている限り、ライダーは居る!」と言います。

 

そこで流れる映像はテレビを介して作品に触れているところだけではなく、ヒーローショーを観に行ったり、人形を持って遊んだり、おもちゃでヒーローになりきったりと、作品の様々な触れ方が描かれていました。

 

 

 

 本作に足りなかったのは、ゲームをもう一つの現実だと感じさせるゲームをプレイして得られた実際の体験と経験だったのではないかと思います。本作ではゲームをプレイしている主人公の様子が描かれているだけでした。ゲームを製作する側の視点から考えるとそれで十分なのかもしれません。しかし本作がメタフィクションを題材に扱っている以上、それで十分ではありません。発売されたゲームを手にしたプレイヤーたちがどのようにプレイして、どのように楽しんでいたのかまで描く必要があったと思います。

 

ウイルスに所詮データだと言われ、キャクターに色と質感を付与していたテクスチャが剥がされていくビアンカ達。そんな彼等がいつ、虚構ではない存在になるのか。彼等とゲーム内で会話をしている時なのか。彼等を一緒に旅をしている時なのか。彼等と共に戦っている時なのか。それは人それぞれです。

 

果たして本作は、その瞬間まで描いていたのでしょうか。

 

カセットをゲーム機に差し込んで起動する瞬間、名前を考える時間、初めて敵を倒しクエストをクリアした瞬間、強敵にどうしても勝てなかったりダンジョンで迷って行き詰まった時間、試行錯誤を繰り返してクリアした瞬間、新しい場所に足を踏み入れた瞬間、全クリしてエンディングを見ている時間。

 

ゲームを攻略しようと考えて実行して失敗してまた挑戦して最後にクリアする。コントローラーをにぎりしめる手が汗をかき、ボタンを押し込む力が自然と強くなる。ゲーム自体は虚構でも、ゲームをプレイすることで得た体験は紛れもない現実です。

 

その体験こそがプレイヤーにとってゲームを現実たらしめるのではないかと思うのです。

 

それだけではありません。ゲームに触れていなくても、友達や兄弟とゲームについて話していた時間も、ドラゴンクエストⅤの思い出として残ります。どうしてもクリアできない場所の攻略法を教えあった時間やキャラクターやストーリーの好きな部分を共有する時間も、それはゲームをプレイしている時間と同じくらいの価値があるのではないでしょうか。

 

それこそ、結婚相手を選ぶ「ビアンカ派か、フローラ派か。」の論争は、まさにゲームをプレイしていなくても作品に触れたり共有する事のできる時間を生み出した好例です。

 

ゲームを起動してから電源を切るまでの時間。そこに留まらず、自分の生活に根ざしている事が感じられるような映像をもっと見せて欲しかった。だからこそ「ゲームは虚構である。」事実を突き付けたその後の展開に、もっと時間を割いて欲しかったです。

 

ドラゴンクエストⅤというゲームの内容は同じでも思い出は人それぞれなのだから、不特定多数のプレイヤーが作品に対する思い入れを思い出すだけの映像を見せれば、終盤の展開に共感を示すファンももっと多かったのではないかと考えてしまいます。

 

 

 

 時間が短かった事に加えて、そのゲームをしてる様子を写した映像もCGだった事が、気持ちが入りにくさに更に拍車をかけているように感じました。つい数分前まで、テクスチャを剥がされ「ただのデータです。」と言われた物と同じ虚構で思い出を見せられても、一度離れた気持ちは戻ってきません。 


しかし実写なら、実在しているものが映ります。CGとは違い本物の映像だし、ゲームを楽しみ、知り合いと共有している様子を実写の映像で描かれれば、観客に思い出を想起させる一助になったはずです。

 

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公開前からこのような記事が登場するくらいなのだから、ゲームの魅力を語り合っているシーンやビアンカとフローラのそれぞれの良さを佐藤健山田孝之が話し合っている映像でも入れればよかった。 

 

 

 

 しかし本作にはメタフィクションとして成立する上で決定的に欠けている要素があると感じる一方で、自分にとってのゲームをプレイして得られた体験と経験を本作から感じる事ができたからこそ、楽しめたし胸を打たれました。


その最たる例が、ブオーンと戦っているシーン。相手の図体は自分よりもずっと大きい上に、頼みの綱の剣が使えない。そんな状況の中で知恵を絞り、体を使ってブオーンを倒す主人公たちの姿にたまらなく興奮しました。

 

弱点を探し、タイミングを伺って隙を見つけて、弱点を狙い、巨大な敵を倒す。

 

これはまさに、自分がRPGゲームをする上でやっていた事なのです。現実の体験がフラッシュバックしたからこそ、この展開に私の心は鷲掴みにされたのです。

 

 

 

 本作に否定的な意見を持っている人の気持ちはわかるし、自分も少なからず不満を感じています。しかしその一方で、自分がゲームをやっていた時の体験と気持ちを本作の数々の映像に重ね合わせるだけの物を少なからず感じた事は確かですし、嬉しかったです。

 

だから私は、本作を駄作だとは決して思いません。

 

 

 

本作を鑑賞して、またRPGゲームがやりたくなってきました。

よし!あとで『ゼルダの伝説』を遊びます!

 

To be continued.