在り方や見え方が大きく変わっていく世界を描いてきたマーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)に魅了された、2008年から2019年。(もうそんなに経ったんですか…)そんなMCUの変貌を彷彿としてしまう大きな変化があった2020と2021年。作品の受けても送り手も互いに望んだペースでキャッチボールができなくなっただけでなく、映画館か配信のどちらにするのか投げ方も定まらない。そんな中、新たなる第一投である『シャン・チー テン・リングスの伝説』が遂に公開されました。
『エンドゲーム』後に誕生したヒーロー(時系列的には厳密には違うが。)という意味で、MCUの新たなスタートとなる一本として、非常に楽しみにしていた作品です。観てきました。
(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)
まずはアクションが良かったです。『キャプテン・アメリカ ウィンターソルジャー』を彷彿とさせる早さと手数の多さ、『ブラックパンサー』のようなアクロバティックさ、それらを内包したアクションは気を抜くと目で追う事が出来なくなるほど見応えがあります。それをテン・リングスというアイテムによって拡張されていく終盤は壮快でした。
ハイスピードなアクション、テン・リングスを初め情報量が増していくアクションシーン。でありながらも、決して観る者を振り落とす事のないようにしてくれるランドマークの設置もまた凄かった。例えばシャン・チーとデス・ディーラーが戦う場面のクナイ。戦闘開始時に二本持っていたデス・ディーラーからシャン・チーが一本奪い、その後奪い返されるけど再び奪う。そして最後には、デス・ディーラーの首元にクナイを突き付ける。
「敵の持つクナイは二つ!こっちは丸腰!まずい!」「クナイを弾いた!取った!凄い!」「クナイを取り返された!手強い!」みたいな具合に、敵に対して優勢なのか劣勢なのか、情報量の多い動きの中でも、戦いの駆け引きがしっかりと理解できます。
その少し前のマカオビル横で落とされそうになるケイティを助けに行くシーンも最高でした。ゲームだったら「ケイティを助けろ!」「ケイティのもとへ急げ!」なんてミッションが出てきそうなくらい分かりやすい状況。迫る敵をいなしながら、突き進むシャン・チー。誰かを助けようとするヒーローの姿は、それだけで気持ちが良い。「Coming!」と言う台詞の格好良さが忘れられない。あれを聞くために『シャン・チー』を観賞する価値はあるかもしれません。
この理解のしやすさは終盤でも同様で、タイトルにもある武器テン・リングスによって優勢劣勢が理解できます。テン・リングスも型も自分のものにする瞬間を画を見せつけられる瞬間は、勝負の決着をこれほど分かりやすく可視化されるものなのかと感嘆すら覚えるほどでした。更にはそこにキャラクター物語が伴ってくる。父と母から継承したものがアクションの中で可視化されていく終盤の戦闘はカタルシスが凄かった。
しかし、これだけアクションを楽しめたにも関わらず、何故か引っかかるものを感じてしまいました。作品に完全に乗ることが出来ませんでした。最初は自分でも理由が分からず、どうにか違和感の正体を言語化しようとしましたが上手くいかない。
『#シャン・チー テン・リングスの伝説』観賞。
— モリオ (@mori2_motoa) 2021年9月4日
インフィニティストーンを軸に枝のように広がってきたMCU最新作。
テン・リングスで拡張されるカンフーアクションは魅力的ですが、MCUの一部とは感じにくい設定と世界観に没入感を削がれてました。
街中のアクションがピークであったことは否めません。 pic.twitter.com/mEZw2S8xBp
しかし他の人の感想も見て改めて考え、ようやく自分の中で整理されてきました。
『シャン・チー』の世界が「MCUの一部に思えなかったこと」に起因するのではないかと思われます。終盤辺りから登場する舞台、そして怪獣映画の如く暴れる龍達の姿。とてもファンタジックな光景が繰り広げられる中で、あの世界がトニー・スタークやスティーブ・ロジャース、ピーター・パーカーが住んでいる世界から地続きに感じられなかった。『ソー』の舞台のように宇宙ならまだしも、地球を舞台にファンタジーが繰り広げられた事が、その違和感を強めていたと思います。
しかし、本作のようなファンタジーな作品は、ソーやドクターストレンジなど、これまでのMCUにもありました。
ではこれまでのMCUと比べて今回の『シャン・チー』の違いは何なのかというと、「インフィニティストーンが無い」ことです。『アベンジャーズ エンドゲーム』にて、インフィニティストーンは無くなり、サノスもいなくなりました。この二つの要素はこれまで数多のMCU作品を繋げてきた存在であり、物語の中で起こる事象、用いられる術はそれらから派生したものです。インフィニティストーンを媒介にすることで、世界の繋がりを感じる事ができる。
そして何より、インフィニティストーン、ひいてはサノスという物語の目的地が提示されていた事こそが、繋がりを確固たるものにしていたのではないかと思います。
アベンジャーズの一作目と二作目の最後に登場するサノスを代表されるように、この物語が進んだ先にあるものは度々提示されてきました。ヒーローたちは如何なる理由でアッセンブル(集結)するのか。一見バラバラの方向を向いているように見える物語でも目的地が同じであり、そこから遡るように作品の繋がりを感じる事ができる。
少しずつ近づいていき同じ方向に向いていく実感が、唯一無二と言っていい高揚感を生み出してくれる。『アベンジャーズ インフィニティウォー』における、ガーディアンズとソーが合流した時の「繋がった」という感覚と高揚は今でも忘れられません。単に「ヒーロー達が一つの画面に収まっている。」というだけではなく、各ヒーローが背負っている作品、流れが集約されていく。様々な部分に生じている作品間の質感の差異も、同じ方向を向いていく事で中和されていく。だからこそ、ヒーロー達のそれぞれの作品が一つの世界の中で起こっているんだと感じる事ができる。
そんな目的地を通過してしまった今、自分にとって作品を繋げていた強力な接着剤が無くなってしまいました。だからこそ、『シャン・チー』の世界がMCUの一部だと思う事ができなかった。
しかし、別にMCUの一作目である『アイアンマン』からサノスやインフィニティストーンが登場した訳ではない。まだ見ぬ新たな出発の準備の段階です。本作はMCUの新たなスタートを飾る作品の一つです。本作は新たなアッセンブル(集結)へ向けた「スタート位置につく」段階の物語なのだという結論至り、ようやく自分の中で腑に落ちました。一作目である『アイアンマン』を想起させる展開等があったのは、再スタートを意識したものだった、というのは考え過ぎでしょうか…?
想起させるといえば、闘技場でシャン・チーが「バスボーイ!」って紹介されていましたが、『スパイダーマン』でピーターが「蜘蛛男」って言ってるのに「スパイダーマン!」って紹介されていた場面を思い出して口角が上がってしまいました。懐かしい。
先ほど「トニー・スタークやスティーブ・ロジャース、ピーター・パーカーが住んでいる世界から地続きに感じられなかった。」と述べましたが、「地続き」がキーワードだったんだ、と思いました。
MCUの始まりである『アイアンマン』は「現実でも起こり得るんじゃないか。」と思わせてくれる作品でした。自分の世界と地続きだと思わせてくれるリアリティがあるアイアンマンスーツのデザイン、世界観。そしてアイアンマンスーツの変貌に象徴されるように、そうした現実に地続きの世界からから"少しづつ"現実離れした世界に変貌していく。その積み重ねの結果、現実と『アベンジャーズ エンドゲーム』が地続きに感じることができる。初手で同じ世界観が提示される場合では感じる事のできない世界を作り出せた。
だからこそ、地続きに思わせていたものが無くなった影響は自分の想像以上に大きかったんだと思います。また、自分が地続きに感じていた『アイアンマン』の頃から、地球は割とファンタジックな舞台だったと明かされる事に抵抗を感じていたのだと思います。(色々言いましたが、これが一番ストレートな原因だと思います。)
だからこそ、公開が目前に迫っているMCUの次作『エターナルズ』に対して既に厳戒態勢になっている事は否めません。予告編を見る限りだと、またぐるぐる考えてしまいそうな内容ですが、なるべく考え過ぎずに楽しみたいと思う所存です…少なくとも観賞している瞬間は…
インフィニティストーンやサノスといった存在が、自分にとって如何に世界観を強固に結びつける存在であったのかを痛感させる一作でした。ヒーローの集結と世界観の接続で生まれる面白さを提示してきたMCU。その中でキャラクターが作品を横断する事が珍しくなくなった今、たとえ単独作であっても単体で楽しむものとして認識する事は難しくなっているのではないかと思う。
我ながら面倒くさい。先程も結論だなんてもっともらしく言っているが、結局は当たり前のことを言っているだけな気がする。「もっと気楽に見ろよ。」とか「考えすぎだぞ。」とか自分で思わなくもない。しかし、それだけMCUが生活に染み付いてしまった結果とも言えます。そして、あれこれ考えることは楽しいから結果オーライな気もしています。
今回のように変に構えすぎたり個人の趣向によって、必ずしも全ての作品や展開が好きになることはないです。でもせめて、「成るべくしてそうなった」と納得したいと思う自分がいます。自分にとってMCUの世界は分岐したもう一つの現実だと思っているからです。
色々ぐるぐる考えてしまいましたが、物語もアクションも、その二つの親和性を含めて最高であった事は間違いないです。母の使っていた型、父の使っていた道具、その二つの継承自体がとても情緒的だし。それがストレートに戦闘に反映されていき、遂には一つの偉業を成し遂げる。カタルシスを感じるには十分過ぎるものです。
次回作では更にパワーアップしたアクションは勿論ですが、父ウェン・ウーがそうであったように、身体を動かす度にテン・リングスの音を響かせるシャン・チーの姿を是非見たいです。