モリオの不定期なblog

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エンドゲーム目前に登場した新たなヒーロー、彼女を通じて感じたMCUにおける単独作の意味<キャプテン・マーベル ・感想>

 『アイアンマン』を皮切りにMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)が始まってから、早くも11年が経ちました。まだMCUなんて言葉が定着していなかった頃は、スマホも持ってなければ、自由に使用できるパソコンもありませんでした。テレビ番組で流れていた予告編を録画して、何度も観ていたのが懐かしい。(『SHOWBIZ COUNTDOWN』には、大変お世話になりました。)

 

そんなMCUも遂に、今年4月に公開の『アベンジャーズ エンドゲーム』(以降EG)で一つの区切りを迎えます。既に『スパイダーマン ファーフロムホーム』の公開も7月に控えているなど、今後もMCUの展開は続いていきますが、アイアンマンやキャプテン•アメリカ、ソーなど、MCUの最初期を支えてきたヒーローたちは、EGが最後の活躍になります。終わってしまう悲しみと「彼らはどんな最期を迎えるのか?」という不安、10年以上追い続けてきた作品の終わりを目撃できる事に対する高揚感が入り混じった物を感じています。

 

そんな作品の公開約1ヶ月前に、新たなヒーローの誕生を描いた映画『キャプテン•マーベル』 が公開されました。昨年『アベンジャーズ インフィニティウォー』(以降IW)の後に公開された『アントマン&ワスプ』が、IWひいてはEGに強い関連性を感じさせる作品でした。EGの直前に公開された本作を鑑賞する中で、EGの事を意識するなと言うのが無理な話。

 

新たなヒーローのスタートとなる作品でありながら、11年分の厚みを持った非常に奇妙な本作、鑑賞してまいりました。11年の積み上げの中でマンネリ化を打破せんとする新たなオリジンの形に新鮮さを感じながらも、戦闘の豪快さほどのパンチの強さは感じられませんでした。

 

また本作の鑑賞を経て、11年という長い月日を経て描かれてきたアベンジャーズという存在を再認識し、アベンジャーズはEGで「何を持ってサノスを打破するのか?」そんな事を考えさせられました。

 

Captain Marvel

 

 

 

(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 本作にパンチの強さを感じなかった一番の理由は、本作の山場である彼女が力を開放する場面で、盛り上がりを感じられなかったからだと思います。本作は、主人公の出自を隠し物語の進行に伴って明らかになっていくという構成をとっています。それによって、ヒーロー映画の一作目(キャプテン・マーベル単体として)でありながらも、他のヒーロー映画とは大きく差別化がされていて、非常に新鮮な感覚でした。11年間も続いているMCUにおいて、新たな形のヒーロー誕生の物語を見せてくれた事は素晴らしいと思います。

 

しかし、このような構成をとる以上、主人公の出自をはじめとする謎の解明が、映画を盛り上げたり、心にくるものでなければいけません。本作においては、後半を盛り上げてくれそうな要素は沢山あったのに、上手く扱う事ができず盛り上げきれなかった印象を受けました。

 

例えば、キャプテンマーベルことキャロルについて、物語スタート時の彼女の住んでいる星、仲間との交流など、彼女を形づくる描写が短く感じた為、後半の敵味方の反転する展開にあまり驚きを感じませんでした。

 

また、キャプテンマーベルの「何度でも立ち上がる。」場面自体は、非常にグッと来ましたが、ここでも惜しさを感じてしまいます。立ち上がる前の場面が断片的で、それぞれの立ち上がるシーンの一つ一つに強いカタルシスを感じないから、それが連なり一つのシーンになった時も、もう一押しが足りないと感じてしまう。

 

そんな中、盛り上がりに繋げる事ができていないと感じた最たる物は、スーツの色の変化です。自身を束縛していた物からの脱却を印象付ける大きな要素であるスーツ、そんなスーツの色を変えるイベントを、最後の戦闘が始まる直前の子供とのやりとりの中で行ってしまいます。

文字通りインテジェンスによる拘束を周りの敵ごと吹っ飛ばすシーンがあるのだから、そこでこそスーツの色を変えて欲しかったし、絶好の機会だと思いました。

 

以上のように、映画として十分に盛り上がるネタはあるように感じるのに、そのネタを小出しにしたというか、タイミングをことごとく誤ってしまったような印象です。その結果として、あまり盛り上がらなかったのではないかと思います。

 

 

 

 しかしそんな中でも、主人公キャプテン・マーベルことキャロルの魅力を、演じているブリー・ラーソン自身のルックスや立ち居振る舞いから非常に感じました。ヒーロー映画において重大な要素である「ヒーロー自身が魅力的であるか?」という点において、及第点どころか、先ほど述べた不満点を幾らか補ってくれる程でした。「このキャラクターのその後が見たい。」そう思わせる魅力があるという意味では、『アリータ バトルエンジェル』の主人公アリータに通じる物があると思いました。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

 

 

 鑑賞直後は、「うーん」といまいち胸に来るものが無かったな、という印象でした。しかし、鑑賞後に少しづつ本作を噛み砕いていくと、来月に公開を控えている『アベンジャーズ エンドゲーム』に対して非常に大きな意味があると思えてきました。

 

Avengers: Endgame - The Official Movie Special (Avengers 4)

 

アベンジャーズ インフィニティウォー』にてサノスは宇宙全体の生物を半数に減らしました。それはサノスの持つ考えによって行われた事ですが、それは彼が個であるが故に辿り着いた答えなのかなと思いました。

 

 

 

 

本作のラストで、キャプテン•マーベルは地球を離れてしまいます。あれ程の力を持っていても、IWの戦いに駆けつける事は出来ませんでした。つまり彼女の存在は「個」の限界を示しており、同時にサノスの限界も示しています。

 

だからこそ、「個」ではないアベンジャーズにとって、そこが突破口になるのではないかと思います。「集まる」だけでなく、「散らばる」事もできる彼らがいるから、壮大な宇宙全体を救う可能性に成り得るのだと、本作を観て思いました。

 

 

 

 話は『キャプテン・マーベル』に戻りますが、だからこそ、ニックヒューリーの目の傷には、もっと大きな意味を込めて欲しかったなと思いました。アベンジャーズを作るキッカケとなったキャプテン•マーベルの誕生、そして彼女との繋がりを象徴する意味を持たせても良かったのではと、思ってしまいました。恐ろしいフラーケンとはいえ、見た目が猫の生き物に引っ掻かれただけというのは、正直肩透かしと言いますか…

 

 

 

まあ、何はともあれ、EGの公開は1ヶ月後です。本作で感じたアベンジャーズの可能性、キャプテン•マーベルの活躍、楽しみに待ちたいです。本作は、そう思わせてくれる作品でした。