モリオの不定期なblog

映画・特撮・アニメの感想や思った事を書きます。宜しくお願いします。

ウルトラ鍔迫り合いにウルトラ熱くなった話 -ウルトラマンZ(ゼット)が好きになった理由-

 「必ず殺す技」と書いて必殺技。こうやって書いてみると物騒ですね。「それくらい強力な技」というニュアンスで使われているかと思いますが、『ウルトラマン』で「怪獣も一つの命であり、街を守る=怪獣を殺す」ことを考えさせられたことを踏まえると、「必」と「技」に挟まれている「殺」という字のこと忘れたくないです。

 

命を奪うほど強力な力を使う必殺技は、リスクも同時に存在する諸刃の剣です。同じくらい強力な技で相殺されるか、それ以上に強力な技に負けてしまうこともあります。しかし背水の陣とも言える状況を作り出すからこそ、それが決まった時のカタルシスはとてつもないものになります。

 

そして、そんな必殺技と必殺技をぶつけ合う、鍔迫り合いのようなシチュエーションには手に汗握ります。力と力のぶつかり合いをストレートに演出してくれるシチュエーションで燃えるし、ここぞという場面で使ってくれれば、最高の演出になります。

 

物語を盛り上げてくれる定番のシチュエーションの一つである光線と光線をぶつけ合い。怪獣や巨人と光線をぶつけ合うあったり、時には衛星から放たれた光線にウルトラマンが光線をぶつけたり、全力で出す光線は格好良いです。

 

そんな光線のぶつけ合いは、昨年放送された『ウルトラマンZ(ゼット)』にもありました。中でも最高に燃えたのが、最終話『遥かに輝く戦士たち』の最後の必殺技。

 

 

 

シンクロする叫び

 最後の光線に心が燃えた最初の理由は、これまで別々に叫んでいた二人が一緒に叫んでいたこと。これまでの必殺技ゼスティウム光線を放つ時は、基本的には、まずゼットが「ゼスティウム光線!」と叫び、その後に続く形でハルキが「チェストー!」と叫んでいました。(第8話など例外はありますが。)第1話が例として真っ先に挙げられます。本来ゼスティウム光線はゼットの技で、「チェストー!」と雄叫びをあげ気合いを入れるのはハルキのルーティンです。

 

戦士の心得

 

ハルキは、飛ぶこともできなければ、当然光線も打てません。物理的に宇宙人と融合しても、即一心同体というわけでもない。身体の大きさや光線や飛行など、怪獣と戦うために必要な要素の、多くはゼットの領分です。かといって、ゼットがハルキを引っ張る訳ではありません。ハルキの身に付けている格闘術や経験が 時として怪獣攻略の糸口になることもあります。第二話の透明になるネロンガが好例です。また、生命を殺すことに対してハルキが悩んだ時では、「一緒に考えていこう。」とゼットが言ったように。どちらが教え導くのではなく、一緒に歩んでいく姿勢。

 

ご唱和ください、我の名を!

 

一人前ではない二人が、それぞれの領分を活かしていく。そんな二人三脚な関係、対等な関係が魅力的なんです。第1話のハルキの雄叫びからは、そんな魅力の一端を感じられるかのようであったからこそ、グッときました。

 

そして最終話の必殺技は、1話と同様に必殺技のぶつけ合いが勝負の最後を飾ります。 

 

ゼットがそうするようにハルキが技名を叫び、ハルキがそうするようにゼットが雄叫びをあげる。互いに「元々パートナーのやっていた」ことをやっていた。ウルトラマンの掛け声というと「シェァッ!」とか「タァッ!」とか、人でいう「うぉおーーーーー!」みたいに伸ばした唸り声を聞いた事がなかった気がします。だからこそ、ゼットの発した「キィーーーーーアアアアアーーー!」という唸り声を聞いた時の心の高鳴りや鳥肌が更に凄いことになったのではないかと思います。

 

最終話にて名実共に二人で一人の存在になってしまったわけですが、一心同体になったのだと感じられる。これまでの2人の歩みと積み重ねを体現した二人の叫びには本当に心を動かされました。

 

メダルいただきます!

 

 

Zを描き出す光線の軌跡で思い出すピカリの国の戦士

 そんな最高の光線は敵の光線を少しずつ押し込んでいく。あともう少し!というところで畳み掛けるかのように起こった事が、光線ペインティング。

 

身体のデザインと同じくらい多種多様でアイコン的存在であるウルトラマンの光線のデザイン。縦一直線や十字、X字、中にはV字状に飛ぶ光線がありますが、それはあくまで光線を正面から見た時のデザイン、つまりは光線の断面が文字等のデザインになっているのですが、Zの光線は一味違かった。光線の軌跡がZになったんです。これまでは技を受け止める覚悟でなければ光線の形を見ることができなかったのに対して、特徴的な光線を横から安全に確認できる親切光線です。

 

光線の鍔迫り合いをした状態のまま、ゼットの動きに合わせて光線が二度折れたと思ったら折れた軌跡がZになり「ゼット!」と言わんばかり光る。そしてそれが光の塊になって一気に敵を吹き飛ばす。

 

この最後の一押しで光線に変化が起こる描写で思い出したのが、ピカリの国の戦士ウルトラマンゼアス。ゼアスもゼットと同様に、光線の鍔迫り合いの末、最後には気合いでX字の特殊光線を繰り出しました。

 

必殺技を打つ前に「コーーー!」って声を出して気合を入れるところや、道着を着て特訓するところなど、こうして考えてみるとウルトラマンゼアスと共通点を多く感じるところも、『ウルトラマンZ』という作品が印象に残っている理由の一つかもしれません。いつか共演して、立派に成長したゼアスの姿を見たいと思っています。(現在YouTubeにて配信中の『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』でゼアスが登場しなかったことにショックを受けたことは、ここだけの話です。)

 

ウルトラマンゼアス 1&2 [Blu-ray]

因みにウルトラマンゼアスが好きになった理由の一つが、光線を左手で撃っていること。左利きの自分にとっては、それが嬉しかった。

 

 

 

遥かに輝く戦士たちの手

 ギリギリまで踏ん張った人間を助ける、遥かに輝く戦士たち。人間の頑張りに応えるかのように、同じようにギリギリまで頑張ってくれる彼らの手から放たれる光、その軌跡には、ウルトラマンと人の想い(気合)が込められていて、視覚情報だけでは得られない気持ちの高まりと感動を与えてくれます。だからこそ『ウルトラマンZ(ゼット)』は最高でした。

 

そして彼らの手の交差から放たれる光の輝き。それが次に与えてくれる感動と興奮はどんな物なのか、これからも楽しみです。

 


映画『シン・ウルトラマン』特報【2021年初夏公開】

 

2020年の振り返りと2021年の再挑戦

 遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。小・中学生の頃に比べると、一年という時間を短く感じるようになりましたが、それを差し引いても、2020年はあっという間に終わってしまいました。コロナウイルスで生活が急激に変化したことで忙しくなり、余裕が無くなったことが最たる理由だと思います。また不可逆的な変化に起因して「去年の今頃は…」とつい考えてしまうことが最も多い年でもあった気がします。

 

外出中はマスクを常に着用し、建物に入るたび出るたびに手を消毒、帰宅すれば手洗いうがいだけではなく、持ち物や身に付けていた服等も全て消毒。そんな生活が定着する程に時間が経過しましたが、収まるどころか拡大する感染。「来年の今頃には…」という前向きだった気持ちが、いつのまにか「去年の今頃は…」という後ろ向きな気持ちに。

 

そんな重苦しい空気を纏っている中でも、輝きを放ってくれっていたのがエンターテインメントです。延期したり配信に切り替えたり、悪戦苦闘しながらも公開してくれた映画。毎週定期的に楽しみをテレビから提供してくれた特撮作品やドラマ・アニメ作品。

 

以前から作品に関わっている人たちへの尊敬や感謝を忘れずにいたつもりではありますが、作品が観られない可能性に直面した事で、作品を観られる尊さがより一層強くなったと思います。「作品を観て楽しめることは当たり前ではない。」という当たり前のことを実感。エンターテインメントという存在の尊さを実感する年でもありました。

 

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 ついついネガティブな話題に移ってしまいそうになる2020年ですが、ここで初心を思い出したい。自分がSNSやブログを始めようと思ったのは、「自分の好き」を発信するため。映画の感想で言えば、良かった点を書いていきたいです。時には不満に感じたことも書いていますが、基本的には自分が良いと思ったことや感動したことを発信していきたいと考えています。色んな変化がある中でも、作品を楽しみ、感想等の発信を忘れずにいることを、2021年の目標としていきたい所存です。

 

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あとは…ブログの更新頻度を上げていきます…書きたい事はあるのに結局ブログの更新に至らず。書くと言っていた2019年の映画ランキングも結局書いてないという衝撃の事実に2021年を迎えてから気付くという体たらく。

 

ドラマ『半沢直樹』の顔圧パーティーの中で光り輝く渡真利忍役の及川光博さんのオーラと指パッチンの素晴らしさを書いた記事や『ウルトラマンZ(ゼット)』最終話の必殺技の鍔迫り合いに燃えた話など、6〜7割まで書いて止まっている下書きの多い事…『ウルトラマンZ(ゼット)』に至っては、4つも下書きが…

 

2021年は、書き始めた記事は最後まで書ききることを目標にしたいです。とか言いつつ、2021年に突入してから既に2週間が経過していますが大丈夫でしょうか…(ひと事)

 

ともあれ2021年、色々頑張ります。どうぞ生暖かい目で、じゃなくて、暖かい目で読んで頂ければ幸いです。宜しくお願いいたします。

 

 

 

定着したコンテンツの魅力とハードルが同居した一作<劇場版 Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット- 前編 Wandering; Agateram>

 既に人気を獲得しているコンテンツの劇場作品。人気であるが故に「期待」というハードルが存在します。「このキャラクターの活躍が観たい。」「こういう表現が見たい。」など、様々な部分での期待されます。つまりは、そのコンテンツが人気を獲得するまでに作られてきた作品に観客が感じた良さが、殆どそのまま作品のノルマとして課せられているのではないかと思います。

 

そんな越えるべきハードルが沢山ある作品が『劇場版 Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット- 前編 Wandering; Agateram』です。こうやって書いてみると長い…舞台挨拶でも少しネタにされる訳です。

 

もしアニメを観ていれば名前くらいは一度は聞いた事があるであろう人気の『Fate』シリーズ。パソコンでプレイするビジュアルノベルゲームだった作品が、アニメ化に留まらず様々な媒体で数多くの派生作品が作られてきました。つい最近ではその人気の高まりを象徴するかのように、シリーズの原点と言われる『Fate/stay night[Heaven's Feel]』が劇場アニメとして公開されました。

 

そんな派生作品の1つとして世に送り出されたのが『Fate/Grand Order(フェイト グランドオーダー)』(以降、FGO)です。2015年に配信され2020年12月現在は5000万ダウンロードを突破した人気ソーシャルゲーム。その漫画やアニメが作られ人気を博している本ゲームの中でも人気を加速させたエピソードを劇場アニメ化した作品が『劇場版 Fate/Grand Order -神聖円卓領域キャメロット- 前編 Wandering; Agateram』(やっぱり長いので以降、劇場版FGO前編)です。タイトルからも分かるとおり、前・後編合わせての二部作のうちの1作目。

 

派生に派生を重ねた末に生まれた本作、コンテンツが十二分に熟してきた今に公開される本作は果たしてどうだったのか。『Fate/Zero』以降、アニメーション作品を中心にシリーズを追いかけ、FGOほぼ無課金でプレイしている自分も、意識的にも無意識的にも大小様々なハードル設定しつつ観賞してきました。

 

Fate/Grand Order material II【書籍】

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  • 作者:TYPE-MOON
  • 発売日: 2016/08/14
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映像化への期待

 本作のようなアニメ化において、期待されることの一つは、「映像化により動くこと」です。その点において本作はどうだったのか考えてみたいと思います。

 

原作ではストーリーは登場人物の会話や独白を文字で見せその背景にキャラクターを表示していく紙芝居方式で描かれます。と言っても、全ての場面に合わせた絵が用意されているわけではなく、基本的には登場キャラクター達の立ち絵が並んでいるだけなので、人形劇に近いです。表現が限られる中でも、文字の大きさや色、文字を見せるタイミングなど、巧みな演出により読み手を物語に引き込んでくるところがビジュアルノベルの魅力です。

 

その事は重々承知した上での話なのですが、物語を追い状況をイメージしていく中で「動いてる映像で見てみたい。」と思ってしまうのが正直なところ。そんな願望に答えてくれるアニメ化は、それだけでも一見の価値があるわけです。

 

しかし重要なのは「どう動くか。」という事です。Fateシリーズにおける映像化において、『劇場版 Fate/stay night[Heaven's Feel]』(以降、劇場版HF』)という一つの正解が提示されたことは記憶に新しい。FGOに限って考えても、既にテレビアニメを始め何度もアニメ化されており、それも作品毎にスタッフも異なれば、アニメーションへのアプローチも異なります。様々な「アニメ化」がある中で、観る人それぞれに理想的な「アニメ化」が形作られている訳です。その前提がある中での今回の劇場アニメ化。観る人それぞれに「この作品の感じで。」という理想があります。

 


「Fate/Grand Order」配信4周年記念映像

「この感じで劇場アニメ化してほしい。」と願い続けて早1年以上が経ちました。

 

以上を踏まえた中で、今回の劇場版はどうだったのかというと、動いていたが動いていなかった

 

 

 

立体的なカメラワーク

 「一つの正解」と前述した劇場版HFのアニメーションにおいて特筆すべき点は、手描きのアニメーションを主軸としながらも、CGを用いる事による情報量の増加と立体的なカメラワークです。CGにより立体的な情報を増やしながらも、その中で二次元の手描きのキャラクターを違和感なく動かしています。

 

観客の視点たるカメラとキャラクターの位置関係を固定するのではなく、カメラがキャラクターに回り込むなど、キャラクターは動かずとも見える角度が変わるようなカメラの動きが充実しています。純粋にキャラクターの動きだけではなく、それを見る角度の変化もまた、アニメーションにおける大きな「動き」として取り込んでいます。近年は特にその部分に対する評価の力点が強くなっている気がします。アニメ版『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』など、人気作品はカメラの立体的な動きが多い傾向です。

 

ただ闇雲にカメラを動かすことが良い訳ではありませんが、元々二次元であるが故に、立体的に動いたり見えたりする事は実写以上に驚きや楽しみを与えてくれます。

 

 

 

被写体の生々しい動きに注力したアニメーション

 被写体たるキャラクターは動いていたのですが、カメラの動きは少なかった。キャラクターに回り込むような動きなど立体感のあるカメラの動きは少ない分、キャラクターを丁寧に動かしていく方向性です。それは同じFateシリーズのアニメでいうと『Fate/Zero』に近い方向性だと思いました。

 

決して動きが派手ではないが、その代わりに一撃の重さが伝わってくる動きと音。それによって命のやりとりをしている生々しさが浮き彫りになる。『Fate/Zero』が本シリーズに触れた最初の作品だった自分にとっては、懐かしくも好みの方向性です。

 

そんな生々しさを一層引き立ててくれていた要素が、各サーバントのクラス(戦闘スタイル)で生まれる有利不利です。遠くから打ってくる弓に対して剣は不利だけど、逆に距離を詰めると有利に転じる。でもその認識の裏をかいて、逆に弓の方から距離を積めて接近戦を仕掛けたり。そういう駆け引きの演出、各キャラクターの戦闘スタイルの差別化がとてもよかった。特に印象的だったのがモードレット。剣を投げて相手が受け止めたら、投げた剣ごと相手を蹴るなどという滅茶苦茶なパワープレイは、正に戦闘スタイルの差別化によって引き立った戦闘の一つです。

 

 

 

成熟したコンテンツ故の新鮮な表現

 本作独自の表現もありました。原作はじめFateシリーズにおいて、サーバントが消滅する時は、光の粒子になって煙のように消えていきます。それに対して本作は違う演出で表現してます。カットが切り替わり次の瞬間には跡形も無く消えており、足跡のみが残っている演出がされていました。

 

消滅の仕方が定着している中で、今回のような消滅の演出はより一層喪失感を与えてくれるもので、とても印象的でした。本作は動的な表現は抑え気味である一方で静的な表現や演出がとても心に響きます。消滅シーンの前のあるサーバントの宝具使用の場面も、盛り上げていく方向ではなく、心がじんわりと染められていくような静かな感動がありました。

 

 

 

 

原作にはない魅力と視点

 原作にて定着したプロットや表現があることによる魅力も感じる一方で不満もあります。単純に尺が短い。主役たるベディビエールの心情の変化が感じ取れません。本来はプレイヤーの分身たる主人公がいる中でベディヴィエールを主役にしたのであれば、原作プレイ時には分からなかったベディヴィエール細かい心情の変化を観賞前は期待をしていました。しかし、その期待に答えてくれたかというと、そうとは言い難い。

 

定着したコンテンツ故、「ある程度理解できる。」という認識に則った構成なのではないかと思われますが、原作のゲームで今回のエピソードがリリースされたのは数年前。正直なことを言うと、ストーリーの詳細を覚えていません。観賞前に振り返りをしてなかったのが悪いと言われてしまうとそのとおりではありますが、上映時間の短さを思うと「ああ、そんな話だった。」と思わせてくれる様な丁寧さが欲しかったし、それにプラスαで新しい魅力や視点を提示してほしかったです。

 

 

 

後編への期待

 定着したコンテンツ故のハードルに苦戦を強いられながらも、定着したコンテンツだからこその魅力もあった本作。本エピソードのラスボスたる獅子王との戦闘が後編ではどのように描かれるのか、とても楽しみです。

 

 

 

受け継がれていく想い。決して途切れない英雄達の呼吸に涙する。<劇場版 鬼滅の刃 無限列車編・感想>

 写実的な描写の中で躍動する太い線で描かれたキャラクターと水墨画のようなエフェクトが格好良いアニメ。それが、新型コロナウイルスをも吹き飛ばす熱量を以て日本で社会現象を巻き起こしている作品、『鬼滅の刃』に対して抱いていた第一印象です。本作のアニメーション制作を担当しているufotableがこれまでに制作した『Fate/stay night[Heaven's Feel]』や『空の境界』で魅せてくれた写実的な表現に、漫画もとい浮世絵を感じさせる表現が合わさる。温故知新が具現化したかのようなアニメーションが強烈に印象に残ったことを今でも覚えています。

 

 

劇中で主人公が何度も発する「頑張れ。」という台詞。やりがい搾取やブラック企業など、頑張るということをストレートに受け取ることが難しくなってしまった中で、「頑張れ。」と自分を鼓舞し一生懸命に頑張る主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)の姿が、頑張るということのプリミティブな意味と価値を感じさせてくれる。

 

本作の登場人物、特に炭治郎は独白や思考が多い。一見説明過多にも思えるが、その事はあまり気にならない。何故かと言うと、「頑張れ」の内容が物凄く具体的だからです。今何が起こっていて、何に注意を向けて、何に対応しなきゃいけないのか、それを一つ一つ丁寧に言葉にしている。

 

例えば敵と戦ってる時は、相手の特性や自分が不利な点に始まり、どの技を選択しどのように繰り出し対処するべきなのかを思考し実践する。その一連の流れが、堅実で建設的でとても気持ち良い。独白の一つ一つが、「頑張れ」という言葉の強度を高めてくれる。

 

もちろん戦いの終盤になると、論理的な思考よりも気持ちの強さが前面に出てくるが、そこに至るまでの過程をしっかりとロジカルに展開してくれてるから、しっかりと「頑張れ!」と気持ちに乗れる。「ただがむしゃらに、盲目的に頑張るのではなく、どう頑張るのかを考える。」その大切さを感じさせられる。頑張り方のお手本を見せてもらってるみたいで、それは本作が爆発的なヒットを飛ばしている要因の一つではないかと、個人的に思います。

 

そんな本作の作劇が気持ちよかったし、何だか嬉しくもあった訳です。良い作品が必ずしも「自分も頑張ろう。」と思わせてくれる作品という訳ではありませんが、「自分も頑張ろう。」と思わせてくれる作品は良い作品だと思います。

 

そんな気持ちの良い「頑張れ」がある本作が遂に、というほどそんなに時間は経っていませんが帰ってきました。それも、ただでさえ華やかだった映像に更に華やかな装飾の加わった劇場版として。

 

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 (以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 

 「更に華やか」とは言いましたが、正直なことを言うとテレビシリーズの第19話の感動を超える事は無いだろうと思っていたんです。終盤の『竈門炭治郎のうた』という歌をバックに死闘を繰り広げる炭治郎と彼を助ける妹の禰豆子(ねづこ)。家族を失ったが故に辛く苦しい。でも家族が居たから、生き残った家族がいるから、戦うこと、前に進むことを止めない炭治郎。そんな彼の姿と断ち切られることのない兄弟の絆。それを感じさせてくれる視覚と聴覚の情報が同時に涙腺を刺激してくる第19話の最後は、『鬼滅の刃』のハイライトな訳です。

 

この歌がアニメで流れたのは、たった一度だけでしたが、LiSAさんが歌う主題歌の『紅蓮華』話題になった中でも、「『鬼滅の刃』と言えば『竈門炭治郎のうた』だろう!」なんて思うくらいには、自分の中で残っています。(もちろん『紅蓮華』も好きです。)それぐらい涙腺を刺激されたんです。

 

なので「これ以上『鬼滅の刃』に泣かされる事は無いだろう。今回の劇場版では、映像面で楽しませてくれたら万々歳!映像をとにかく楽しもう!」という気持ちで座席に座りました。全集中!

 

竈門炭治郎のうた

竈門炭治郎のうた

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 いざ、観賞してみると、めちゃくちゃ泣かされました。テレビシリーズの感動は序章だったのか…と思わせられるほど、心が揺さぶられたんですね。完全に不意打ちをくらいました。こんなに泣かされるとは思っていなかった。何故これ程までに心を揺さぶられたのか。

 

 

誰かのために、自分の身を危険に晒してでも戦う、助ける。そんな炭治郎たちの在り方がとても眩しかったからではないかと思います。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

誰かのために頑張ることって大変だと実感した話。

 

体の何処かを少しぶつけただけでも痛いし、鋭利なものでほんの少し切っても痛い。表面も表面、骨に全く届いてるわけでもないのに本当に痛い。子供の頃に遊具にスネをぶつけただけでも涙が出そうになるくらい痛かった。

 

骨が折れたり、折れた骨が内臓に刺さったり、目が潰れてしまったりなんてことは想像すらしたくもない。

 

作中ではコミカルに描かれる善逸(ぜんいつ)のビビリ描写。見ていると笑ってしまうが、自分だって直面すれば、あんな風に怯えてしまうのではないかと思います。そのビビっている善逸でさえも、大好きな禰豆子のことになるとダッシュで危険に身を投じる。

 

映画『アイ アム ア ヒーロー』で主人公がロッカーの中で、何回も助けに出ようとして「ダメだぁ〜…」って怖気付いてしまう様子が思い出される。戦いへ身を投じるうえで恐怖に打ち勝つだけでも、もう本当に精一杯になってしまうと思うのです。正直、投じた先のことなんて考える余裕は無い。

 

炭治郎たちが涙ながらに強くなることを渇望する場面がありますが、自分はそれ以前の問題。

 

だからこそ、身を投じる事ができる炭治郎たちに対して、ほんの僅かに嫉妬の混じった尊敬の念を抱く。

 

 

 

 しかし本作では、そんな彼らの健闘がありながらも、炎柱の煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)が死んでしまいます。そして戦っていた鬼には逃げられてしまう。鬼殺隊として鬼を殺すことを目的としていることから考えると、その結果は敗北。しかし、彼らの根本の目的は、鬼を殺すことではない。人を喰らう鬼という脅威から、人々を守ること。そして忘れてはいけない事実が一つ。今回、死者はゼロであったこと。戦いに巻き込まれた人々は誰一人として死なせる事はなかった。煉獄自身が宣言した通り、全員守った。

 

観ている瞬間、自分の中で敗北(バッドエンド)が頭の中をよぎった。今回は鬼殺隊の敗北で終わるのかと、哀しさと悔しさが入り混じったものを感じていました。

 

そんな中、聞こえてきたのが、炭治郎の勝利宣言。

 

見方によれば、負け惜しみや負け犬の遠吠えに映るかもしれない。悔しさと哀しさに満ち溢れたあの宣言は、鬼からしてみればただの強がりなのかもしれない。

 

だがそうじゃない。その後の煉獄から炭治郎たちへの想いの継承も含め、彼らは負けていないのである。本作含めテレビシリーズから散々見せられた鬼達の再生能力。それによって再び戦う力を即座に身につける鬼達。圧倒的なスペックを前に、簡単には傷を治せない炭治郎たちは何を以て勝るのか。それは「継承」によってであることを、本作のラストでは感じさせられました。

 

 

 

 本作に登場する数多くの呼吸を始め、継ぐ子など「継承」というキーワードが非常に印象的です。本作ラストのように、亡くなってしまう誰かの志であったり技術、また、鬼に殺されることによってではなく、老いによって果たせなくなった想いを誰かが受け継いでいく。

 

また、継承は亡くなった者から残った者へのみではない。例えば煉獄の父親は存命だが、何かをきっかけに、かつての熱を失ってしまっている。しかし、その息子である煉獄は、技や志など両親から受けたものを糧に多くの人を助けた。

 

また蟲柱・胡蝶しのぶ(こちょうしのぶ)の「鬼への歩みよろうとする想い」を炭治郎に託したのも、一つの継承だ。同じく鬼殺隊として戦っていた姉を殺され、鬼に対して怒りを感じている。しかし、その鬼を信じようとしているのは他でもない姉自身だった。そんなジレンマから鬼への歩み寄りが難しい中で、鬼の妹を連れている炭治郎にその想いを託している。期待している。それも一つの個では完結しない人間の強さだと思う。

 

対して鬼はどうだろう。下弦の壱が死んだことに対して上弦の参は意に介さない。倒された鬼、死んでいった鬼たちの想いや技術はそれぞれ個々で完結し、受け継がれていく事はない。

 

脈絡がない上弦の参の登場は、そんな人と鬼の在り方の対比のように感じられました。

 

 

 

 しかしそれでも、やはり個としての煉獄は死んでしまった事実は変わらない。託したから、人を助けるという大義を果たしたからといって、死んだことを良しとできる訳でも、死んだ悲しみが消える訳でもない。故に炭治郎の涙は止まらない。

 

未熟故に煉獄に加勢できなかった事への悔しさ。託されたものとして、彼と同じくらい強くなる事ができるか分からない不安。

 

そんな沈んでしまいそうな空気を吹き飛ばしてくれたのが、滝のように涙を流す嘴平伊之助(はしびらいのすけ)。なれるかなれないか、ではなく、信じると言われたならそれに応えるしかない。そう彼は言う。

 

涙を流す炭治郎の気持ちも、応えるしかないと言う伊之助の思いも、両方嫌という程分かる。涙が止まらなかった。まさか伊之助に泣かされるとは思わなかった。

 

 

 

 

  受け継がれていく技術と想い。それこそが人の可能性であり、いつか鬼を滅するのではないかと思わせてくれる。受け継がれる限り、呼吸は途切れない。本作は『鬼滅の刃』において途中の話であり、結末には程遠く、本作単体では完結しません。しかし、本作の登場人物たちのように次へ繋ぎながら、『鬼滅の刃』という作品の核を見せてくれる非常に重要な一編だったと思います。

 

それ故に、途中の作品という枠に当てはまらない余韻を残してくれる。継承の末に辿り着くであろう結末を見届けたい。そう思わせられる一作でした。

 

知的快楽の塊が放つ「未知と既知の交差」、観客を逆行へ誘う。<TENET テネット・感想>

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「大作を観たい!」という飢えが渇くどころか、大作を観賞する直前のエントランスの空気感、外の光が遮断された廊下を通る瞬間のワクワク感さえも忘れてしまった2020年9月初め。延期していた作品が徐々に公開されてくる中で、遂に大作と呼ぶにふさわしい作品『TENET テネット』が公開されました。

 

大作が公開される前の「いよいよ観れる!」という喜びと「観賞前特有のワクワク感が終わってしまう…」という名残惜しさがごちゃ混ぜになっているあの感じ、とても懐かしい。大作だと宣伝でいつも言われている気がする「○○史上No.1」という煽りさえも懐かしく感じます。

 

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クリストファー・ノーラン監督の作品では、『インセプション』が好きです。新しいルールを一つ一つ理解しながら、未知の光景を目の当たりにする快感が堪らない。そんな未知の設定の中で繰り広げられる駆け引きや戦いが大好物な自分にとっては、今回の『TENET テネット』にはワクワクが止まらない訳です。

 

作品を観賞する瞬間だけではなく、それを観終えた後に色々考える時間も好きなんです。「あれはどういう事なんだ?」「この作品のテーマは何だったんだろう?」というふうに、物語や設定、作劇やテーマについて、ああでもないこうでもないと考えてる事自体が楽しい。裏を返せば、観ている瞬間は深く考えすぎないようにしています。「観た後たっぷりと考えれば良い。」と開き直った状態で作品を観賞しています。そんなスタンスが本作では功を奏したのか、作品にもあった「考えるな、感じろ。」という作劇にマッチ。疑問が特に気になることなく楽しみました。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

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(以下、映画本編のネタバレがあるのでご注意ください。)

 

 

 

 本作の魅力は「分からなくても楽しい。」というところ。逆行している人が巻き戻しの様に歩くシュールな動きや飛び散った後と思われていた破片が建物に集まっていく光景、前に進んでいるのか後ろに進んでいるのか分からない車。

 

見たことのあるものが、見たことのない動きをする奇妙さ。未知のものと既知のものを混ぜて見せられるシーンの数々は実に新鮮。ビデオテープで巻き戻しを幾度となく観てきた自分にとっては、巻き戻し自体は見慣れているかもしれないが、それが限定的に起こっていたり、およそ半々に再生と巻き戻しが映るだけではなく相互に影響し合う。

 

当たったから吹っ飛んだのか、吹っ飛んできたから当たったのか。因果や順序が異なる物の交わりによって、自分の中にある流れ・感覚があてにならない状態になっていくのが面白い。特に自分が好きなのは、順行逆行独り相撲のシーンと5分ピッタリに建物が「下キュッ!上ボーン!」ってなるシーンです。

 

(。ていとい置はかうどかるあが頭のけだるけ行)。すでけわう思もといた観をルーゴたけ続び選を「いは」、えいはと。すでんい良がれそ。いないてっなにルーコイもしず必が度足満と度解理るす対に品作。いな題問く全で上むし楽を品作、もてっましてっ行に「ろじ感」えとた、しかし

 

 

 

また、話の内容が分からなくても「点と点が線で結ばれる快感を得られる。」ことも良いです。例えば、主人公が取っ組み合っていたのは、未来の自分だったり、すれ違ったのは実はちょっと前の自分など。「ここはここに繋がっていたのか!」というような小さな発見、小さい気づきによって得られる驚き。バラバラに点在していた要素が回収されていく快感。障害だったものが自分の歩みの一部だったと明らかになる面白さ。

 

そういった気づき、点と点の結び付きが、物語終盤に情緒をも作り出す。

 

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思えば、登場人物に感情移入しやすい。例えば主人公はシンプルに良い人。冒頭では任務に関係ない一般人を助けようとするし、仲間の死に涙を流すし、ニールの行末に気付いた瞬間に思わず呼び止めて泣く。情に溢れていてとても感情移入しやすい。

 

更に良いのは、それが作品の雰囲気を損なわないバランスに留めている事。涙を流したり割と感情を出しているのですが、出すタイミングだったり度合いの調整が良いんです。例えば前述した物語の冒頭で一般人を助けるのも、任務達成の後に残された時間内でこなしている。他にも、物語の最後では、ニールの最期に気が付いても、止める事はしない。(呼び止めてはいましたが、それ以上はしなかった。)

 

主人公の性格が、任務達成する上で殆ど阻害されていない。(一度、助ける為にケースを差し出してしまう場面がありましたが、それに対するフォローもある。)ストレスなく、主人公に対して好感が持てるようになっている。そういった描写が「自分のやりたいこともやりつつも、やるべき事はしっかりとやる。」という性格の良さと優秀さを同時に引き立てているのが良いと思います。

 

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Tenet (Original Soundtrack)

 

映像や登場人物を気持ち良く魅せつつ、点と点を線で結ぶことによる知的快楽を積み重ねることで、作品全体に対して「分かった気がする。」と錯覚させるのではないでしょうか。

 

しかし分かった気がするだけなので、実際はそんなに分かっていない訳で、観賞後に落ち着いて考えてみると疑問が生じてくる。例えば「壊された建物は初めから壊れていたのか。」という疑問。終盤の5分ピッタリに建物の下が直って上が爆発するシーンなのですが、起こった事を順序立てて書いてみると、

バラバラだった建物の下の部分の瓦礫が集まる→建物が元に戻る→建物の上の部分が爆発する

となる。ん?ということは、建物は元からバラバラだったということになる。

 

…あれ、未だに分かってないかもしれない…

 

そんな調子で作品のことを考えていくと、理解が捗るのと同時に疑問がどんどん湧いてくるんです。なまじ大枠は把握できているから、1回目では「考えるな、感じろ。」スルーしていた部分に対しても考えが及んでくる。

 

『TENET』に対する理解度が逆行している気がします。

 

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6 

 

 

 

そういう、「分かった」というワンダーが段階的に、かつ継続的に提供してくれることが、本当に素晴らしい。良い意味で気を逸らしてくれるんです。映像は勿論のこと、前述した「点と点が線で結ばれる快感」などによって、思考を巡らせること以上の「今見える光景への請求力」が作り出されている。

 

「はい」「いいえ」で進んでいくフロー図のようだ。「今話してる内容が理解できますか?」「今起っていることが把握できていますか?」といった質問があって、「はい」「いいえ」を選択していく。一度でも「いいえ」を選択すると、「感じろ」というゴールに辿り着く訳です。因みに1回目の観賞では、前述のとおり考えすぎないようにという意識で観賞したので、1問目から食い気味に「いいえ」を選択しました。

 

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しかし、たとえ「感じろ」に行ってしまっても、作品を楽しむ上で全く問題ない。作品に対する理解度と満足度が必ずしもイコールになっていない。それが良いんです。とはいえ、「はい」を選び続けたゴールを観たいとも思うわけです。(行けるだけの頭があるかどうかは置いといて。)

 

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(。いさだく意注ごでのるあがレバタネの編本画映、下以)

 

 

 

これは前に書いた事なのですが、こういう「作り手の掌で踊らされている。」状態が大好物なんです。未知の映像によって魅せられることでそっちに意識が向き、「分からない」状態にストレスを感じさせない。それでいて「分からない」状態を脱した時の気持ち良さをしっかりと感じさせてくれる。

 

一度観賞しただけではパズルのピースは全ては埋まりませんが、埋まった断片だけでも十分楽しい。そして全てのピースを埋めていく作業もとても楽しいわけです。最高ですね。

 

mori2-motoa.hatenablog.com

 

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 本作は、未知のものと既知のものを混在させ、それが交わる瞬間の驚きと快感を感じさせてくれます。分からなくても楽しい、考えてみても楽しい。観てる瞬間の興奮、観てない間の考察、二つの楽しさを提供してくれる作品です。もう一度観てみたい。

 

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ズルいと感じさせる情緒満ち溢れた物語の結末。その根底にある圧倒的納得とは。<劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン/感想>

 テレビアニメの劇場版。新しい物語が観られることだけでなく、テレビシリーズからの映像のクオリティアップなど、テレビシリーズという基準がある作品特有のワクワク感があります。また作品の内容が物語の最終章である場合は、終わってしまうことへの寂しさやクライマックスへ向けた一種の緊張感も付与されます。観賞前では、そのシリーズに対する信頼や期待が如実に反映されるようです。

 

そんな中、情緒に満ちた物語やそれを支える美しい映像、テレビシリーズで積み上げてきた信頼が宝石のように強固な作品が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。その劇場版が、2度に渡る延期を経て、ついに公開。

 

「駄作になりようがない。」と思わせるほどの期待感を帯びた本作。それに打ちのめされる気満々で、本作を観賞してきました。

 

 

(以下、映画本編のネタバレがありますのでご注意ください。)

 

 

 

 

 

 本作において注目していたポイントは、「主人公ヴァイオレット・エヴァーガーデンの物語の終結」と「手紙という媒体だからこそできること」の2点です。まずは1点目の「主人公ヴァイオレットの物語の結末」についてです。本作は、ヴァイオレット達が生きている時代を主軸にしながら、それに沿う形で数十年後の時代が描かれる構成になっています。

 

そこに登場するのが、テレビシリーズ第10話で登場したアン・マグノリアの孫デイジーマグノリア。彼女が祖母アン宛に送られた手紙をキッカケに手紙の事と代筆したヴァイオレットの事を知っていく話なのですが、もう人選の時点でズルい。ズルいんですよ。10話自体がもう情緒の塊の様な内容で、泣くなというのが無理な話。それが冒頭から差し込まれるのだから、上映開始からたった数分で鼻をすする音が周りから聞こえてくる。「まだこの先2時間あるんだぞ!初っ端からそんなんで大丈夫か!?」と心の中で言う自分も、マスクが涙で濡れている始末。

 

そんな感じで2時間20分間、涙腺を刺激され続けるのですが、実は1回目の観賞では、終盤はあまりピンときせんでした。主人公達の結末に対する祝福の念よりも先に「そうなったか〜。」という気持ちが先に来てしまいました。

 

観賞前に書いたのですが、今回の劇場版では「愛してる」という言葉の意味、人の気持ちが分かるようになった主人公ヴァイオレットが、自分の想いをどんな言葉で紡ぐのか。どんな手紙を書いてくれるのか、という点が気になっていました。

 

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彼女が自分自身の想いを伝えることだけでも感涙ものなのですが、更に胸を歌を打ったのが、彼女が一度は会いたいと思っていた人に会うことを諦める選択したことです。

 

彼女が会いたいと望む恩人であるギルベルト・ブーゲンビリア少佐。彼が彼女に会いたくない理由を聞いた時、その気持ちが理解できるとし、会わずに帰ることを選択します。自分の気持ちを抑えることへの是非はともかく、彼女がそれ程までに人の気持ちを感じて汲み取ることができるようになった事実、その成長こそが胸を打つ。

 

想いを伝え、相手の気持ちや事情も汲み取る。気持ちという形の無いものを知るため様々な手紙の代筆をしてきた彼女が、これほどまでの成長を遂げた。私はそれで、物語のゴールとして十分だと思ったんです。

 

極論、ヴァイオレットとギルベルトが結ばれなくても良いと思ったんです。彼女が人の感情を理解し成長すること、ギルベルトと結ばれること、その二点は必ずしもイコールではありません。

 

自分が代筆を通じて様々な人の手助けをしているように、そこに居る人たちの助けになっているギルベルト。そしてそのギルベルト自身が、ヴァイオレットを戦争の道具として使役していた事実に対する罪の意識から、会うことを拒絶する。

 

そんなギルベルトの気持ちを、ヴァイオレットは汲み取るんですよ。人の気持ちを知らなかった、かつて「愛してる」が知りたいと言った彼女が、そういう複雑な気持ちを理解できると言うんです。

 

ギルベルトの気持ちも汲み取り、自分の気持ちを自覚し涙を流しながらも「無事を確認できただけで満足です。」と納得する。これ以上にないくらい彼女の成長を感じられる。

 

だからギルベルト宛の最後の手紙を残して去る終劇が「アリ」だと思ったんです。

 

「特定の人物に対して感じる想いを素直に伝える。」勿論それは大切な成長です。でも同時に、相手の事情や気持ちを汲んで自分の気持ちも飲み込む。それもまた、一つの成長だと思うんですよね。

 

気持ちを伝えるだけでなく、相手の想いを尊重できる。自分の期待していたものよりも、更に一歩進んだ成長を感じたんです。だからこそ、ヴァイオレットの会わないという決断は物凄く胸を打つものでしたし、結局ヴァイオレットとギルベルトが結ばれることになった物語の結末に少しモヤモヤを感じてしまった訳です。

 

でも考えてみれば、会わない決断を覆したのはヴァイオレット自身ではなくギルベルトなので、その成長そのものが無かったことになるわけではない。1度目の観賞では、そこまで考えが至らなかった。

 

そんなモヤモヤを消化しきれないまま2回目の観賞に。2回目の鑑賞の中で、漸くそこに考えが至ったわけです。(1度目の観賞で使い忘れたムビチケが余っていたのですが、結果オーライ。)

 

 

 

 本作におけるテーマはテレビシリーズから一貫しています。「手紙は言葉では伝えることをできない想いを伝えてくれる。」ということです。

 

涙腺が緩み切った状態で物語は進んでいくのですが、涙腺を刺激するのはテレビシリーズのキャラクターだけではないのです。劇場版で初登場のユリスです。彼は病気を患っており、余命が短い。父や母、弟に普段は伝えることのできなかった想いを手紙で伝えるため、ヴァイオレットに代筆を依頼します。家族だけでなく、親友宛の手紙も書こうとしましたが、結局それは叶いませんでした。ですが代わりに電話で直接伝えました。

 

物理的な距離を跳び超えながら、相手に直接伝えることのできる電話。伝える手段として、手紙が電話に取って代わられる瞬間が描かれています。

 

手紙にはない電話の優位性、直接伝えることができることを描いてもなお、いや描いたからこそ、手紙にしかできないことや手紙でなら伝えられることが浮き彫りになっています。

 

最後の去ろうとするヴァイオレットをギルベルトが呼び止めに走る場面。彼の決断を後押ししたのは、ヴァイオレットの残した手紙です。ヴァイオレットがギルベルトへの想いを綴った手紙を読んだことで、ヴァイオレットに会う決断ができたわけです。

 

「近しい存在だからこそ、伝えることが難しいこともある。」本作でもそのことは触れており、それはテレビシリーズの頃から一貫して描かれてきたテーマです。本作の回想で出てきた第3話のモールバラ兄弟の話に始まり、様々な形で描かれてきました。今までに築いてきた関係があるが故に、伝えたいことがあるのと同時に、伝えることが難しいこともある。

 

ヴァイオレットとギルベルトの関係は戦争から始まりました。しかもギルベルトが使役しヴァイオレットは使役されるという関係性。スタートから互いをつなぐ糸が絡まった状態。互いが互いを想う気持ちが複雑に絡まって、会わないという選択をしてしまう。

 

そんな絡まった糸を解きほぐし、ギルベルトに素直な想いを伝える決断をさせたのが手紙な訳です。これはまさに、本作がテレビシリーズから一貫して描いてきた事。これほどまで一貫したテーマ故の物語の結末、そこには揺るぎようのない圧倒的な納得がありました。

 

 

 

 父の日や母の日など、誰かに感謝の気持ちを伝える時、なんとも言えない気恥ずかしさを感じてしまいます。近しい人だから言えることがあれば、逆に近しい人だから言えないこともある。自分の思っていることを、それまでに築いてきたその人との関係性ゆえに伝えることができない。そんなもどかしさを感じることがあります。

 

そんな時、メールやSNSでなら感謝の気持ちを伝えることができます。更にいうと、自分の素直な気持ちを伝えるキッカケとなってくれる存在が、メールやSNS、手紙など、文字で伝える媒体です。直接ではないからこそ伝えることができる。手紙を書く機会はなくなってしまいましたが、その意義や機能は、メールやSNSに引き継がれています。

 

SNS等を利用する中で人とやりとりし自分の考えが思うように伝わらなかったりなど、文字で伝えることの難しさを日々感じる中でも、文字で伝えることの意義を感じさせてくれた作品が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。その最終章にして劇場版である『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は情緒と納得に満ち溢れた素晴らしい作品でした。

 

 

 

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<ヴァイオレット・エヴァーガーデン/プレ観想>

 最後に手紙を書いたのはいつだろうか。誰に対して、何の内容を書いたのかは思い出せません。連絡する手段が手紙からメールやSNSに変わった現在。手紙という媒体を思い出させてくれた作品が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。テレビで放送されたのは、2018年。戦地に身を置いていた少女ヴァイオレットが、様々な人の手紙の代筆を通じて「愛している」という言葉の意味を知っていく物語です。

 

今では手軽にメッセージを送ることができる中で、この作品で一つ一つとても大切に言葉を紡いでいく登場人物たちの様子が懐かしくも新鮮に映りました。そしてなにより、手紙に託される想い、繋ぐ気持ち、受け取る想いにひどく胸を打たれたのを覚えています。

 

そんな『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が遂に完結を迎えます。12話(+1話)のテレビシリーズと外伝を経て、劇場版の公開です。物語の完結を目撃する前に、作品に感じる魅力、劇場版に対する期待を書いておきたいと思います。

 

 

 

 物語の構成は、ヴァイオレットが「愛してる」の意味を知っていく物語を縦軸に、横軸となる代筆を依頼する人たちの物語が展開されていきます。

 

代筆をするヴァイオレットが、時に依頼人のうちに秘める思いを引き出し、依頼人たちの人生を前に進めていく。そして同時に、そんな依頼人たちの思いを代筆を通じて感じ取ることで、ヴァイオレットもまた「愛してる」という意味を知っていく。

 

そんなヴァイオレットと依頼人たちの互いに作用しあう関係こそが本作の魅力です。ヴァイオレットが手紙を代筆することで生まれる依頼人の感情の放流が、ヴァイオレットの感情も動かしていく。そんな感情の連鎖が、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品全体の感動を二重にも三重にも深くしてくれる。

 

自分の最も好きなエピソードはテレビシリーズ第10話です。そのエピソードでは、病を抱えた母親とその娘が登場します。親はもう直ぐ亡くなってしまう。一緒にいられる時間、してあげられる事が限られている中で、母親は誰かに手紙を送ります。

 

送る相手、送る手紙の内容以上に心を打たれたのは手紙の送り方です。自分の気持ちを手紙の内容自体だけではなく、手紙を送る方法にも込められている。そこに愛を感じるからこそ、涙を誘う。

 

そして、そこで出てくるのが主人公のヴァイオレットです。その手紙を代筆し託されたヴァイオレットは、そこから何かを感じて涙を流します。

 

代筆という形で依頼人を手助けしてきたヴァイオレットが、心や想いといった形にできないものを感じ取り、涙する。そんな彼女の変化にもまた、胸を打たれる。そんな感情の連鎖とも言える現象こそが、本作をこれ程までに心に残る作品にしている所以だと思っています

 

VIOLET EVERGARDEN: Automemories

 

 

 

 そして劇場版。これまで様々な人の思いを代筆をしてきた主人公ヴァイオレットが、遂に自分の想いを言葉にします。

 

これまでの物語を経て、彼女がどんな言葉で、どんな風に想いを伝えるのか。そして、その思いを伝えることはできるのか。どんな結末になるのか楽しみで仕方ないし、見届けたいと思います。